こどもと被災地 岩手編 泣いて笑って出会って 全部がこの町で - 東日本大震災13年 -:朝日新聞デジタル
こどもと被災地 東日本大震災13年

岩手 泣いて笑って出会って 全部がこの町で

東日本大震災が起きてからの13年という月日は、子どもが大人へと成長するほどの長さです。がれきに覆われていた沿岸の被災地も多くが新しくなりました。それぞれの土地で暮らす子どもたちを記者が訪ね、その月日をたどりました。

お母さんが見つかった海岸で

空の青さが際立つ冬の午後。岩手県釜石市の鵜住居駅前で待ち合わせをしていると、藤原菜穂華さん(16)は、首元まで伸びた髪を後ろに束ねてやってきた。

普段、髪を下ろしている時の印象と違うのが気になって後で聞くと、「今日は耳を出さないといけないと思って」とほほえんだ。

思わず「えっ!」と声が出た。音楽が好きだというので、聞いている様子を撮影させて欲しいとお願いしていた。確かにワイヤレスイヤホンだと、髪に隠れて見えなくなる。その気遣いぶりに私(記者)は驚いた。

撮影場所を決めかねて、どこの海岸が良いか相談すると、藤原さんは「根浜がいいと思います。お母さんが見つかった海岸なので」と即答した。市内の根浜海岸は複雑に入り組んだリアス海岸の最奥部にあり、13年前の東日本大震災で津波にさらわれた藤原さんの母(当時26)の遺体が見つかった場所だ。

浜辺では大好きなレゲエをスマホで聞きながら、カメラに自然な表情を見せた。学校のことや家族のこともよどみなく話し、こちらの意図をくもうとする。とても大人びた高校1年生。そんな印象がさらに強まった。

避難所で出会い、「運命」の再会

震災の時、藤原さんはまだ3歳だった。津波のことも、亡くなった母のことも、ほぼ覚えていないという。

今も暮らす地元の鵜住居地区は当時、市街地を襲った津波で627人が犠牲になった。藤原さん自身は祖母の付き添いで内陸部の病院にいたため無事だったが、母は自宅近くで津波にのまれたという。

避難先となった地元小学校の体育館で、建設作業員のお父さんと当時1歳半だった妹との3人暮らしが始まった。

ちょうどこのころに出会ったのが、山口未来さん(38)。実家や親族を失いながらも、NPO職員として避難所に子どもの遊び場を作っていた。山口さんは、転んで泣いた妹を助けあげる藤原さんの姿を今も覚えている。

山口さんが手を差し出すと、幼い藤原さんはぎゅっと強く握りしめて離さなかった。

「しっかりしすぎて大丈夫かな。頑張って早く大人になろうとして、強がってないかな」と案じた。

震災翌年、2カ所目の仮設住宅に引っ越した。そこにあった集会所が子どもたちの遊び場で、山口さんと再び会った。避難所で別れた時にたまらなく寂しかったのを思い出し、再会に運命を感じて「この人についていこう」と思った。

4歳になって幼稚園に通い出すようになった後のことは色々と覚えている。母の日の工作で、先生から「おばあちゃんのために作って」と言われた。自分にはお母さんがいないんだということを、だんだん実感し始めた。

あちこちにあったがれきが撤去されて更地になり、仮設住宅が立つ。盛り土された上に出来る新しい家々。藤原さんが大きくなるにつれ、街も様変わりしていった。

藤原菜穂華さん(左)と山口未来さん

友達のような新しいママ

小学校にあがった2014年ごろ、お父さんが再婚し、新しいお母さんを迎えた。以前は、ちゃん付けで呼んでいた「どちらかというと友達に近い」女性だった。「ママ」とは15歳差で、その後、2人の妹が生まれて4姉妹になった。自分も下の子の世話に追われた。

小学校高学年になると、「ママ」と家事を分担するようになり、すすんで家族全員分の料理を作ることもあった。長女として頼られた。

一方、外では子どもとして山口さんらの遊び場に通った。「赤ちゃんの面倒を見るのが癒やし」になると気づいて、次第に運営側に加わるようにもなった。お誕生日会を企画し、おやつを作った。

山口さんとの関係はその後も続いた。中学で友達関係に悩み、心の不調で通院。勉強についていけなくなったとき、オンラインの塾を紹介してくれたのも山口さんだった。

今は隣町の高校に進み、生徒会やバドミントン部、地域活動などたくさんの活動をかけ持ちする。

子どもが犠牲になる車内置き去り事件などのニュースをきっかけに、今は高校の同級生らと、子育て中の親の居場所作りに取り組んでいる。

「今のお母さんは19歳の時にお父さんと結婚して、私と妹をいきなり育てないといけなくなった。その上、20歳で子どもを産んだ。『お母さんに自由がなかったな』って」

活動をするうち、他の母親からも同じ悩みを聞いた。「子どもだけじゃなく、親も、家の外にも居場所が必要なんだと、徐々に考えが深まっていきました」

「拡大家族」のようにつながって

亡くなったお母さんのことを口にするのは、小学生の頃から続ける語り部活動の時だ。今も時折、依頼がある。

被災経験を展示した伝承施設で、私たちに普段通りの語り部をやってくれたことがある。

地図を使って市内が津波にどう襲われたか説明する途中、鵜住居地区を指しながら、「川が逆流してきて、お母さんはこのあたりで流されてしまいました」と話した。その淡々とした口ぶりが印象的だった。

ただ、心や体がついていかないこともあるという。3月11日が近づくと、地震や津波が繰り返し夢に出てきて眠れないこともある。何を伝えようかと考えて、津波の動画も見てしまう。

「震災のことやお母さんのことを直接には覚えていないはずなのに、自分でもよく分からないんですが、その映像を見ようとしてスクロールしているんです」。最近は、能登半島地震で家族が犠牲になり、一人生き残った遺族を報じるニュース動画もよく見る。そうした日々を送ると、頭が痛くなり、自然と涙が出てくる。

落ち込んだ気分を盛り上げたり、悩みから解放されたりしたい時に大事なのが、音楽と同じぐらい好きな、地元の伝統芸能「虎舞」だ。

スマホに撮りためた動画では、地元の青年会の「お兄ちゃん」たちが笛や太鼓に合わせて練り歩き、跳びはねる。エネルギーがあふれ出て、荒ぶる踊りに向かっているのが気持ちいい。

学校帰りによく祭り用品店で虎舞の道具に目が行ってしまうほどのハマりっぷりで、お兄ちゃんたちにからかわれる。

山口さんに、憧れの虎舞のお兄ちゃん。藤原さんは「『親戚』がいっぱいいる感じ」と表現する。ずっと伴走してきた地元の大人たちが、私には「拡大家族」のように映った。

「親戚」たちがいるからこそ、妹3人の世話から離れる時間をもてた。

来夏には他校の生徒を巻き込んで音楽フェスを地元で開催しようと、自ら企画を練っている。地元テレビ局の人や、別のイベントで出会った東京の音楽プロデューサーに直談判し、虎舞にも出てもらうつもりだ。将来も、音楽と地域、子どもをつなぐイベントを企画できるようになるのが夢だ。

高校を卒業したら家を出て一人暮らしがしたいと考えている。でも、進学先は「虎舞があればすぐに帰ってこられる距離にあるかどうか」で選ぶつもりだ。

取材

田渕紫織
1987年生まれ。東日本大震災の翌月に入社。2012年から3年間、岩手県に住んで沿岸被災地を取材。子育て世代向けのニュースサイト「ハグスタ」前編集長。

撮影

関田航
1986年生まれ。福島総局員時代に東日本大震災を経験。穏やかだった福島が、一変した様子を目の当たりにした。

写真提供=山口未来さん

連載 被災地で育つということ