孤立も道路啓開も待望のゴーヤチャンプルも 刻んだ62枚の団地通信

有料記事with NOTO 能登の記者ノート

上田真由美
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 初対面なのに、初めて会った気がしない。

 それは、やわらかくつづられた文章と写真で、このまちの人たちのことを事前に読んでいたからだ、と気づく。

 これまでに、62枚。

 石川県穴水町の山あいにある地区、下唐川(しもからかわ)では、6月から週2~3回のペースで「絆」と名づけられた通信が発行されてきた。毎回、A4サイズにカラー印刷1ページで、語りかけるように下唐川の出来事が記されている。

 「学級通信をつくってきたので、こういうのは慣れているんです」

 「絆」の発行を続ける元中学社会科教諭の加代(かだい)等さん(67)は、こともなげに言った。

 いまも非常勤講師として教壇に立つ加代さんは、自らも暮らす仮設住宅団地で学級通信のように団地通信をつくり、1軒1軒配ってきた。生活情報や団地のニュースを知らせるのはもちろん、手渡しすることでお年寄りが何かに困っていないかを確認する大事な役割もある。

 きっかけは、あの元日にさかのぼる。

とてつもない揺れ 地区は孤立

 午後4時6分、最初の揺れがきたとき、加代さん夫妻は帰省してきた子どもや孫と12人で自宅にいた。

 「また珠洲で地震か。大変やな」

 隣の隣の珠洲市で続いていた群発地震がまたあったのだと思い、地震情報を得るためにテレビをつけた。

 ところがその4分後、とてつもない揺れが来る。縦揺れも横揺れも続き、目の前のテレビが倒れないよう押さえるのが精いっぱい。子どもたちは泣き叫ぶ孫を抱えていた。瓦が落ち、窓ガラスがことごとく割れ、蔵の壁が落ちた。

 余震が続く中、その夜は車中泊した。

 翌2日、地区の人たちは建物の被害が比較的少なかった集会所に集まった。帰省していた家族も集まり、30畳の和室に60人ほどが身を寄せ合った。

 30世帯ほどが暮らすこの地区では、家々のほとんどが大きく損壊したが、完全に潰れた家はなく、けが人はいなかった。ただ、石垣が崩れて県道がふさがり、完全に孤立した。

 待っていても、ここから出られない――。

 地区には、農家の田畑勝彦さん(66)ら重機を運転できる人たちがいた。ちょうど、圃場(ほじょう)整備のためのショベルカーも置かれていた。所有者の許可を得て田畑さんたちがそれに乗り、道路の復旧に取りかかった。

 アスファルトをめくり、その下の砕石をショベルカーでならして固め、なんとか車1台が通れる道を応急復旧した。閉じ込められていた帰省者たちはそれで外に出ることができた。

 下唐川では元々、山水を使った簡易水道を使っていたが、山が崩れて本管が道路ごと流されてしまい、断水した。

 それでも、地区には水道屋さんがいた。井戸水から配管をつなぎ、3日目には集会所のトイレが使えるようになった。

 それぞれの家にあった発電機やガスボンベを持ち寄り、電気とガスも確保した。ケーブルテレビも断絶していたが、電気工事屋さんがBSアンテナを集会所につなぎ、テレビで情報収集できる環境も整えた。

 元看護師の加代さんの妻など、健康管理に気を配れる人たちもいた。各家庭のおせち料理を持ち寄り、正月用に買ってあった肉やアオリイカが食卓に並んだ。

 それでも、加代さん自身は金沢市に避難しようと考えていた。

「絶望的な状況」から…

 簡易水道の水源を確認しに行き、本管が通っているはずの林道が50メートルほど抜け落ちているのを目の当たりにして、絶望的な状況と感じたためだ。

 「水が来ないようなところには、住めない。金沢市に出ていくつもりだった」と振り返る。

 その考えが変わった節目が、1月20日だった。

 翌日から雪が降るという予報…

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この記事を書いた人
上田真由美
金沢総局|能登駐在
専門・関心分野
民主主義、人口減少、日記など市井の記録を残す営み
能登半島地震

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