Re:Ron連載「あちらこちらに社会運動」第4回【おしゃべり編】
東京に感じる「居心地のよさ」はつまり、「自分が排除されていない、ということでもある」。本連載の前回、そんな風に書き出した社会学者・富永京子さん。ただ、そんな自分も含めて誰もが、公共空間である都市から、なんらかの形で排除される恐れを秘めていることを論じました。
背景にあるのは、誰かにとっての「危険」を廃し、「安全・安心」を得るという空間づくり。では、誰もが居心地よく過ごせる空間を考えたとき、私たちにできることはあるのでしょうか。
「排除アート」から見える日本の公共空間のあり方を問題提起してきた建築史家・五十嵐太郎さんと語り合いました。
【富永】社会運動の研究をする中で、「排除アート」は一つ話題に挙がりやすいものです。新宿区立公園のベンチ(座面がアーチ型で横になれず「意地悪ベンチ」とネットで話題に)などを撮影して「これは問題だぞ」と声を上げる手法が多い。その手法をとることで社会運動は大きくなりますが、私たち市民がもっと能動的で、包摂的な空間を作る担い手であるために、どうすればいいのかということを考えています。
【五十嵐】一般的に、排除ベンチとか排除アートというと、「路上生活者を排除」とか「よくない」、という意味合いを持ち、いわゆるリベラルの正義みたいな話にもひもづけられやすい形にもなっています。
ただ、そもそもよく考えてみると、これって、誰にとっても「座りにくい」「使いにくい」ものだと思うんですよ。
例えばお昼時、そんなに混んでいない公園のベンチに座ろうとしたら、いらない突起物がついているとします。それが障害になって、座れる場所も制限されるし、弁当を置きにくかったりもする。
2020年、東京都渋谷区幡ケ谷でバス停のベンチで休んでいた女性野宿者が殺害された事件がありました。あのベンチは、座面に奥行きがなくて狭い。単純に座りづらいし、仮に突起物がなくても、寝そべることも難しいぐらいです。
もっと普通に文句言っていい
――著書『誰のための排除アート?』では、実測された結果を書かれていますね。「奥行き20センチ程度、長さ90センチ以下」と。確かに、かなりの狭さです。
【五十嵐】普通の人にとっても、使いづらい。それを考えると、もっと普通に座りやすいベンチを要求する、文句を言う権利って、あらゆる人にあるんじゃないかと思うんです。
他の考え方としては、公園がすごくにぎわっているわけではない時に、ベンチに横になったっていいと思うんです。疲れているときだけでなくて、別に理由がなくても。本来そういう使い方の可能性があるのに、それを全部潰しているんですね。
みんなが、ちょっとずつ心が削られている。そして、それに気づかない状態であるのがいまです。
【富永】ちょっとずつ排除さ…