第3回「先頭に立って日本を赦そう」 妻子を殺された大統領の決断と代償
《許し得ぬを 許せし人の 名と共に モンテンルパを 心に刻む》
フィリピンで日本人のBC級戦犯が収監されていたモンテンルパ市。4年前に新しくできた博物館の一角に、上皇后美智子さまが皇后時代の2016年に詠んだ歌が英訳で展示されている。
この年の1月、当時の天皇、皇后両陛下はフィリピンを訪れ、太平洋戦争の戦没者を慰霊した。日米の戦場となり、多くの市民が犠牲になった歴史に触れ、「私ども日本人が決して忘れてはならないこと」と述べた。
BC級戦犯を恩赦したエルピディオ・キリノ元大統領の孫とも面会し、「決してキリノ大統領がなさったことを忘れません」と語りかけた。展示されている歌は、マニラ市街戦で妻子4人を殺害されたキリノ氏の決断を思い、詠んだものだ。
その隣にはキリノ氏の再現音声を聞くことができるタブレットも置かれている。
《私は日本人に妻と3人の子供、5人の親族を殺された者として彼らを恩赦する最後の一人となるだろう。私は自分の子孫や国民に、我々の友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人への憎悪の念を残さないために、この措置を講じるのである》
キリノ氏がこの声明を発した1953年、日本とフィリピンの間にはまだ国交がなかった。フィリピン上院でサンフランシスコ講和条約が批准されるには、さらに3年を要した。それほどに大地を焼かれ、家族を失ったフィリピン人の対日感情は厳しかった。
しかし、国交回復と同時に結ばれた賠償協定や1968年からの円借款で経済関係が深まる一方、両国でこうした戦争の記憶が共有されてきたとは言い難い。長い歳月を経てなお、日本の皇族が忘却してはならないと自戒する、モンテンルパの記憶。なぜ、キリノ氏は戦犯を赦(ゆる)したのか――。
【連載】赦しのゆくえ モンテンルパ戦犯恩赦70年
1953年、フィリピンのキリノ大統領は日本軍のBC級戦犯105人に恩赦を出しました。自らも妻子を殺された大統領は国民の大きな反発を受けながらも、なぜ赦したのか――。連載3回目はその舞台裏に迫ります。
モンテンルパの悲しき音色
サンフランシスコ講和条約が…