江戸時代の支配と根室半島のチャシ 北海道の歴史と城③
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<松前藩の祖・武田信広の勝山館とアイヌ 北海道の歴史と城②>から続く
蠣崎(かきざき)から松前へと名を改め、近世大名として新たなスタートを切った初代松前藩主・松前慶広。江戸幕府からアイヌ交易の独占権を承認されていたが、情勢とともに支配体制やアイヌとの関係が変化していく。今回は、江戸時代の蝦夷(えぞ)地支配、「コシャマインの戦い」と並ぶアイヌの三大蜂起「シャクシャインの戦い」「クナシリ・メナシの戦い」と、それに関連する根室半島の「チャシ」について紹介しよう。
恒常化する和人の非道行為 二度にわたるアイヌ大蜂起へ
江戸時代は、諸藩が領地の生産高を米の収穫量に換算する「石高制」が導入されていた。1年間の米の生産高を「石(こく)」という単位で表し、江戸幕府が所領規模の判断基準とする方式だ。
ところが米が取れない松前藩には石高がなく、アイヌとの交易による利益で財政を支える特殊な存在となった。
松前藩の元には交易のために訪れたアイヌと和人が雑居していたが、幕府から藩領の明確化を求められると和人地と蝦夷地が分けられた。その結果、松前藩主が家臣に一定地域の交易権を与え、その商場(あきないば)で得られたアイヌ交易の収益を家臣の俸禄とする「商場知行制」が導入された。寛永年間(1624〜1644)に藩の財政が悪化してくると、商場の経営を商人へ課税付きで任せる「場所請負制」となり、やがて商人による漁業経営が盛んになっていった。
アイヌにとって、松前藩とその家臣だけに交易を制限されるのは不条理かつ不公平な取り決めだった。そればかりか、場所請負制が進むと請負商人が現地のアイヌを低賃金で働かせたり、収入源となる砂金や鷹(たか)を得るためにアイヌの生活地域や狩猟場へ侵入したり、といった蛮行も恒常化していった。
![コシャマインの戦いで攻められた茂別館(もべつたて、北海道北斗市)](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2024/10/R1-2.jpg)
こうした不満や不信感が、アイヌの大蜂起「シャクシャインの戦い」の一因になったと考えられている。
1669(寛文9)年6月、シベチャリ(新ひだか町)のアイヌ首長・シャクシャインをリーダーにした、松前藩に対するアイヌの一斉蜂起だ。
もともとはアイヌ同士の抗争だったが、怒りの矛先は社会不安の根源である松前藩へと向けられ、結果的に355人(273人とも)の和人が殺害された。松前藩から報告を受けた幕府が弘前藩などに出陣命令を出す全面戦争になりかけたが、シャクシャインが謀殺され事態は収束した。
和人によるアイヌへの非道行為の実態は120年後、1789(寛政元)年の「クナシリ・メナシの戦い」でも明らかになる。クナシリ(国後島)や標津(しべつ)・羅臼(らうす)地方のアイヌが蜂起し、松前藩士や場所請負商人・飛騨屋の支配人らを次々に襲撃。対岸のメナシ(根室管内)のアイヌらも呼応して71人の和人を殺害した事件である。
蜂起を鎮圧した松前藩に協力したアッケシ(厚岸)アイヌの首長・イコトイ、ノッカマップ(根室)アイヌの首長・ションコ、クナシリアイヌの首長・ツキノエらによる取り調べから、請負商・飛騨屋のアイヌに対する暴行や迫害などが発覚した。
飛騨屋は松前藩に金を貸すほど利益を出した材木商で、借金の返済と引き換えに松前藩から根室やクナシリ地方の交易権を与えられていた。アイヌへの態度はかなりひどいもので、餓死者が出るほどに低賃金で過酷な強制労働を強いたほか、さらには残虐な暴行や迫害なども日常化していたという。
![納沙布岬に立つ「横死七十一人の墓」](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2024/10/R1-3.jpg)
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