「お母さんは、“お母さん”を休めないんだよ」の呪縛〈302〉
〈住人プロフィール〉
31歳(公務員・女性)
分譲マンション・3LDK・都営三田線 志村坂上駅・板橋区
入居4年・築年数10年・夫(32歳・公務員)と長男(3歳)の3人暮らし
両親の仲が冷え切っているのはわかっていたが、離婚までとは想像していなかった。
22歳のとき、母から相談された。
「離婚していい? あなたが結婚するまで待ちたい気持ちもあるんだけど……」
父が母の作った料理を捨てたり、家に帰ってこなかったり、夜中に母のすすり泣きが聞こえたり、筆談で会話する姿を見てきた彼女は、迷いなく言った。
「親が離婚しているからどうのと言うような人と結婚しても、幸せになれないから気にしないで」
ある日、帰宅したら父の荷物はなかった。以来、8年経た今も居場所も知らない。
「そういう人なんだなあと。私は母のために、1年はそばにいてあげようと思っていました」
しかし、それが難しかった。
幼い頃から母のしつけは厳しく、台所を手伝うと「流しの使い方が汚い」「スポンジの水切りが甘い」「食器の拭き方が雑」「要領が悪い」と、ちょっとしたことで叱責(しっせき)された。
小学校の頃から、熱や頭痛があっても登校した。
大学時代のバイトも同様に絶対休むことを許さない。年金や短期留学費用、公務員予備校代を自分で払った。命令されたのではなく、そうするのが正しいと思っていた。
就職は、「親が納得しそうな職を選んだ」結果、公務員に。働きだしても「女のひとり暮らし」は禁止だった。
「母の言うことは絶対で、私も正しいと思ってやってきました。そのため私自身、人にも厳しくなってしまったところがあります」
周囲に甘やかされている友達が許せない。バイトをせず、大学もエスカレーター式で、なにかにつけ親に送り迎えされているような子を見ると、自分はそれなりに耐えてやってきたのにと、悶々(もんもん)とする。
「だから友達は少なかったですね。でも、親が離婚したとき、あれ?と。夜な夜な喧嘩(けんか)も絶えなかった揚げ句、別れた。正しいと思っていた人は本当にそうなのだろうかと……」
自分の城
このまま、この家にいたらだめになる。おりしも仕事も残業続きで、家でも職場でも心休まる間(ま)がなかった。
こっそり部屋の内見を始め、23歳の終わりにボーナス1回分を使い引っ越しを決めた。
だが、内見に行こうとした折、勘のいい母に見破られ、泣かれた。
「嘘(うそ)つきなところが父親に似てると言われたのは傷つきました。内見にもついていくと言われたけれど、自分でやらせてと初めて母を突っぱねました」
念願のひとりの城にようやく越せた。何でも自由に作れる台所だ。いざそこに立つと、驚くほど自然に手が動いた。
「大根を切り干しにしたり、しいたけを干したり、ぬか漬けをしたり。野菜を丸ごと買って最後まで使い切るのは母の影響。無駄なくなんでも手作りする料理の基礎が染み付いてました」
25歳で、付き合って半年の男性と結婚した。根底に、自分の産まれた家族が解散してしまったという喪失感や寂しさがあった。「母に詮索(せんさく)される前に結婚してしまおうという気持ちもありましたが、失敗してもいいから自分の家族を作ってみたいという気持ちのほうが大きかったです」
家族観が合致していて、経済感覚も似ている夫は、食べることが大好きで、率先して台所に立つ。揚げ物と毎日のコーヒーは彼が担当。コーヒー豆は0.1グラム単位で計量し、料理道具や収納家具など、好きなものにとことんこだわる楽しそうな姿に衝撃を受けた。
「自分のものさしでこだわりたいところに、自信満々でこだわっていたので」
いっぽう彼女は料理も裁縫も完璧な強い母のもとで、自分のものさしを持たぬままきた。ひとり暮らしを経てもなお、自分で選ぶことが苦手だった。
結婚3年目、中古マンションを購入した。ディスポーザー付きの台所で、自動調理機能付きコンロと自動水栓と食洗機にこだわってリフォームした。4点とも「母だったらきっと要らないと言う機能でしょうね」。
「親の離婚からの気付きや夫との新しい暮らしで、やっと自分の気持ちを優先できるようになった。ちゃんと自分で選んだ台所は、狭くてしゃれてはいませんが、ほっとできます」
真っ白な赤ん坊と産後うつ
引っ越しの半年後に長男を出産した。ところがしばらくして、産後うつの診断を受ける。
「子どもはこんなにかわいく、汚れのない無垢(むく)な存在なのに、なぜ自分はあんなに否定されて育ったのだろうと。自分のことが歪(ゆが)んだ汚い存在に思えてきたのです」
子育てのふとした瞬間に、自分の幼い頃がフラッシュバックする。いじめられたと相談すると「いじめられるあなたが悪い」と言われた。「あなたは泣き虫で甘えん坊。世の中にはもっと大変な人がいるんだよ」「泣いてもなにも解決しないから泣くのをやめなさい」「(姉と比べて)人の悪口を言うあなたの性格が悪い」……etc。
言葉通りに受けとめ、疑うことを知らずに育った自分、友達にまで厳しくあたってしまった過去の自分がまた苦しい。真っ白な存在の赤ん坊を見て、「自分も最初からやり直したくなりました」。
なんとか仕事と育児を両立させながら、自分の心を繕う日々が続く。あるとき、ふと思った。
「昔、母が、“お母さんは、お母さんを休めないんだからね”と言ったことがあります。子ども心に、母のような完璧なお母さんにはなれないなと思いました。同時に、そんなお母さんになりたくないなと。実際子育てをしてみて、“だったら自分はそんなお母さんにならなければいい”と気づいたんです。調子が悪いときは料理のペースもダウンするし、思うように動けない時がどうしてもある。そういうときは、“お母さん”を休もうって」
少しでも熱があったら仕事も休む。自分をできるだけ甘やかしてあげようと心がけると、友人や仕事仲間に対しても、徐々に寛容になってゆく。できない人の気持ちを慮(おもんぱか)れるようになるからだ。
かんたんな料理でも、息子が「ママ、作ってくれてありがと」と笑顔で言う。「パパもほら、ありがとうって言って」。
どんなにだめでも、自分で築いた家族は無条件に自分を肯定してくれるとわかった。
心身は徐々に回復し、現在は第二子を妊娠中である。
「夫もいろいろやってくれますが、長男のときのことがあるので、今はしんどいときは“使えるものは何でも使おう”と思っています。ファミリーサポートや病児保育や。とにかく“お母さん”をひとりで抱え込まないように」
じつは数年前、母は再婚した。互いに新しい家庭を持ち、精神的な距離ができたことも大きい。
比例するように、少しずつ気づくことも増えた。
振り返ると、母は出産と同時に正社員だった仕事をやめ、家庭に入った。仕事ばかりの父にかわり、ワンオペで二子の育児に没頭、“お母さんを休めない”という言葉の意味も、今ならわかる。自分が倒れたら代わりがいないという責任感が切迫するなかから、絞り出された言葉だった。
「独身時代は、人は育てられたようにしか生きられないと、後ろ向きな考え方をしていました。今、自分を肯定してくれる家族を持って初めて、おやつを手作りしたり、ミシンでスタイを縫ったりするのは母の影響かしらと、“育てられたように生きる”の意味を前向きに捉えています。遅れてやってきた反抗期がやっと終わりを迎えた感じでしょうか」
この原稿が公開になる頃、第二子が生まれている。
笑顔が消えかけたら、“お母さん”をほどよく休んで、自分のものさしで選んだこの台所、この住まいで、4人暮らしを安楽に楽しめるよう願っている。
ちゃんとやらなきゃって思う人、沢山います。でも、ちゃんとやれなかった時に、自分や誰かを責めて落ち込んでしまうことがありますね。考えてみると、ちゃんとやるって、言い訳にしているのかな? 誰の為なのか、考えてみたくなる台所でした。有り難い記事に多謝です。