59歳、同級生夫婦の要は「気を使う」のではなく「気にかける」〈301〉 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
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59歳、同級生夫婦の要は「気を使う」のではなく「気にかける」〈301〉

〈住人プロフィール〉
59歳(自営業・女性)
分譲マンション・3LDK・京王線 国領駅・狛江市
入居24年・築年数24年・夫(59 歳・自営業)との2人暮らし

 連載301回目は狛江市、中学時代から付き合い始め21歳で結婚した同級生夫婦の台所だ。

 ふだんの料理は元シェフの夫が担当。一緒に作る土日も、妻は「助手に徹しています」。
 2005年に妻の実家の事業を継いで以来、ふたりで自営の会社に通っている。つまり、車通勤も含めて朝から晩まで行動が一緒だ。
 にもかかわらず、見るからに仲睦(むつ)まじい。にこにこと楽しそうに、台所に関するアンケートについて相談をしたり、夫が台所の撮影を覗(のぞ)きに来たり。

 「仕事から帰宅するのがだいたい夜8時で、疲れていても、彼がささっと作ります。冷蔵庫にあるもので、名前のない料理なんだけど。それがどれもすごくおいしいんですよね」
 たとえば昨夜は、きゅうりとちくわのあえものが出た。どちらも彼女が大好きな食材だ。

 夫は言う。
 「書くほどでもない、なんてことない料理ばっかりです。でもいつも、“ありがとう”って言ってくれるんでね」
 半世紀近い付き合いで、なんとも言えないこの丸い空気はどこからくるんだろう。

59歳、同級生夫婦の要は「気を使う」のではなく「気にかける」〈301〉

団地から新築へ。急な引っ越しの理由

 結婚当時、シェフの見習いだった夫の給料は8万円。パート勤めの妻と足しても家計は苦しく、家賃14400円の調布の団地に住んだ。
 高度経済成長期に建てられた、古い団地暮らしについて彼女は。
 「狭いなりに工夫して料理をしていました。シューマイ、春巻き、ギョーザ、豚汁、おでん。夏は暑くて汗をダラダラかきながら。ただ、3歳違いで長男、次男が生まれ、手狭になってきたのと、線路が近くてうるさいので、いつかはと10年目ころからマンションのチラシをポツポツ見てはいました」

 引っ越しは、突然決まった。
 8歳の次男が「引っ越したい」と言い出したからだ。
 「2000年の3月、次男に脳腫瘍(しゅよう)がわかりまして。その彼が“引っ越したい”と私の父に漏らしたそうなんです」

 孫のつぶやきを聞いた父は、夫妻にその事を話した。病状の重さを知っていたふたりは、急いで現在の分譲マンションに決めた。
 「息子の願いを叶(かな)えたくて。でも14年住み慣れた団地と離れるのは悩みました。息子の病状や、自分も息子のことを受け止めるのにいっぱいいっぱいで、余裕がないなか決断してもいいものかと……」

 現在の住まいは、リビングダイニングから緑が見え、南から北に風が通り抜ける。採光にも恵まれている。カウンター付きの台所も、コンパクトにまとまっていて、使いやすい。越してきたときは新築で、中庭を挟んだマンション全体が、すがすがしい空気に満ちていて惹(ひ)かれたという。
 「息子に導かれたんですねえきっと。風が通って本当に気持ちの良いマンションで、引っ越してよかったなと今もしみじみ思います」

 次男がなぜ越したいと言ったのか、真意はわからない。すでに病状が急速に進み、喋(しゃべ)りづらく、薬で顔がむくんでいた。だが、「快適だー!」と不自由な足で新居の中をふらふらとしながらも、嬉(うれ)しそうに歩き回っていた。食欲が落ちかけていたが、越してすぐ「お肉を食べたい」と言い、好物の梨を平らげた。
 長男、夫と4人ですき焼きを囲んだ翌月に入院。12月に息を引き取った。脳腫瘍がわかってから9カ月後のことであった。

 「それから24年になりますが、長い間、心のなかに鉄の扉があって、思いを閉まっていました。1回開けてしまうと涙が止まらなくなって、仕事どころか日常生活も送れなくなるので」
 じつは息子の病気がわかってから、心のコントロールを失い、心身症と診断された。
 亡くなったあとも、心の扉を閉め、「私は大丈夫よと装ってやってきた」。回数は減ったが今も通院している。

59歳、同級生夫婦の要は「気を使う」のではなく「気にかける」〈301〉

妻のための味噌汁

 長男は、弟を失った小6から中学卒業まで、毎朝夫といっしょに登校した。そこでたくさんの会話を交わし、祖父母や親族、友達など周囲に恵まれて育った。
 「できないこと、我慢したこともいっぱいあったと思いますが、なんとか健やかに育ってくれ、6年前に結婚して巣立ちました。家族3人のお弁当は私の担当でしたが、それを機に引退。我が家の料理は、ますます夫中心にシフトしています」

 夫は毎晩、必ず味噌(みそ)汁を作る。使うのは善光寺味噌と決めているが、だしは茅乃舎か、ほんだしでとる簡単なものだ。「これが、なんともいえないしみじみとしたおいしさなんです」と、彼女は目を細める。

 ふたりとも下戸で、米が好き。食材は生活クラブの店舗、デポーで購入する。仕事で従業員を抱えているので、コロナ禍以降、あらゆる付き合いを断り、食事は自宅でとっている。
 「うちに帰ってきて、ふたりで食べるのがいちばんほっとする時間だーって、よく夫が言います」

 その彼は、料理の道から身を引いて感じた変化をこう語る。
 「もともと料理は好きで入った世界ですが、修行時代はレシピにしばられ、少しでもレシピ通りの形と味がでなければ、全て先輩にゴミ箱に捨てられた。そういう時代を経て、今は大切な家族のためだけに作る喜びを実感しています」

 「夫は、“気を使う”のではなく、いつも私や、互いの家族のことを“気にかけている”人。いちばん身近な存在だからこそ、そうするんだなって思います」
 気を使うのではなく、家族だからこそ気にかける。59歳の台所の丸い空気の秘密はきっとそれだ。

 しかし私は、最後に愚かな質問をして、猛烈に恥じた。
 過去からの学びについて問いかけたときのことである。彼女は自分を責めるような困惑の表情で、静かに言葉を並べた。
 「次男のことがあったから自分は後悔がないように生きようとか、あの子の分まで精いっぱい生きようとか、人に対して優しくなろうと、なかなか思えないんです。悲しみを原動力にいろいろな活動をされている方々の記事を目にすると、自分にはどうしてそういう気力や思考の深さがないのだろうと考えてしまいます。全然成長がない。学びも悲しいという実感も、感じとれない。なんででしょうね。息子は今も隣で手をつないで一緒に歩いているような感じ。……いえ、やっぱり、体温を感じたい。本当はやっぱりずっと感じていたいです」

 連載300回など、なんの経験になろう。彼女の心は今も次男と共にある。大切な人の喪失は乗り越えるようなものでも、何かを学び取って成長するようなものでもない。24年経た今もいつもそばに感じている。抱きしめたい、体温を感じたいと思いながら、日々を刻んでいる。そんなことさえ知らなかったのだから。

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