珠玉の名城!秀吉が築いた総石垣の城・第1号 石垣山一夜城
石垣山一夜城(神奈川県小田原市)は、何度訪れても心揺さぶられる関東屈指の名城だ。関東には珍しい、巨石を積み上げた高石垣が城域全体を取り巻く総石垣の城である。
“石垣が見事な城”と聞いて連想するのは、西日本の城が中心ではないだろうか。高い石垣で囲まれた城は、西国で生まれ西国で発展する。残存度が高いのではなく、そもそも西日本に多く分布するのだ。
高い石垣で囲まれ天守が建つ、いわゆる “一般的にイメージされる城” は、織田信長が開発し、秀吉、家康へと受け継がれた。中世の城にも石垣は存在するが、信長や秀吉によって統一政権の象徴の一つとして城の必需品となったといえるだろう。信長や秀吉の城を実際に見るか築くかしなければその存在すら知らず、立派な石垣はどこかで必ず織田・豊臣政権と関わりがあると言っても過言ではない。
度肝抜く城 小田原攻めで一夜にして出現?
石垣山一夜城は、1590(天正18)年の小田原攻めの際、秀吉自身が築いた本陣だ。小田原城(神奈川県小田原市)に籠城(ろうじょう)する北条氏を包囲する大軍ごと見下ろすように、小田原城からわずか3キロほどの笠懸山に築かれた。秀吉は小田原城から見上げれば必ず視界に入る場所に、東国の人々にとっては未知すぎる城を築いたのだ。
秀吉は、豪壮な天守も建造した。もちろん、東国の人々にとって天守もはじめて目にする高層建造物だったはずだ。わざわざ西国から石工を呼び寄せて石垣を積み、前代未聞の天守まで建造。秀吉の本陣とはいえ、支配拠点でもない臨時の前線基地には必要のないハイレベルの城だった。奇想天外な城の出現は、さぞかし北条方の度肝を抜いたに違いない。『北条記』にもその反応が記され、この城の存在が降伏の決定打の一つになったとされている。
石垣山一夜城というロマンあふれる俗称は、築城時のエピソードに由来する。秀吉は、完成と同時に樹木を伐採させて一夜のうちに城が出現したように見せる、というとんでもないパフォーマンスをしたと伝わるのだ。塀や壁には白紙を貼って白土を塗ったように見せかけ、これを見破った伊達政宗に秀吉や諸大名が感服した逸話も残る。
敗色が濃厚となり厭戦(えんせん)ムードが高まる中、見たこともない石垣や天守を目にした北条氏の心情は察するに余りある。財力と権力、余力の差を否応(いやおう)なく見せつけられ、驚きよりも失望のほうが大きかったに違いない。
4万人動員し突貫工事 北条方への優位見せつけか
もちろん、いくら秀吉であっても一夜でこれだけの城を築くなど不可能で、実際には約4万人の動員数で82日ほどかかっている。ただし、大坂城が本丸だけで1年以上を要していることを考えると、かなりの突貫工事だったことは間違いない。この城はいわば秀吉の分身でもある。これだけの豪壮な城を短期間で完成させられることが重要だったのだろう。
秀吉は在城中に、天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、側室の淀殿まで呼び寄せたりして、茶会や宴会を開いては優位であることをアピールしたといわれる。北条方に精神的ダメージを与えながら、いくらでも長期の兵糧攻めが可能なことを示したのだろう。同時進行で、小田原城に兵糧が運び込まれないよう厳重に監視しながら、領内の支城をひとつずつ潰していったのだった。
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