歴史がモザイク状に息づく産業の街、ケムニッツ
ドイツ東部に位置するケムニッツは、かつて産業地域として繁栄を極めた。しかし今、ザクセン州で3番目に人口の多いこの街を知る人は多くないだろう。ドレスデンとライプチヒから電車で約1時間、チェコとの国境からも約30キロメートルという距離にありながら、ドレスデン出身者でも「子供の頃に一度家族で来たきりで、今回ケムニッツに来るのが人生で2回目」と話す人がいたくらいだ。
確かに、ケムニッツは名所ひしめく観光都市ではない。しかし、実際に散策してみると、この街がたどってきた歴史がモザイクのように息づく、興味深い都市だった。
巨大なカール・マルクス像からはじまる旅
ケムニッツには、「カール・マルクスの街」という意味の「カール・マルクス・シュタット」と呼ばれていた時期がある。第2次世界大戦で街の8割が破壊され、社会主義のモデル都市として再建されたケムニッツは、1953年にカール・マルクス・シュタットと改名された。しかし、ケムニッツとマルクス自身の関わりは皆無で、当時政権を率いていたドイツ社会主義統一党による一方的な改名に不満を感じる市民も少なくなかったという。
東西統一後の1990年に名前が元に戻ったとはいえ、ケムニッツは今でもある意味「マルクスの街」だ。なにせ、街の中心部に台座も合わせると高さ11メートルを超えるカール・マルクスの像が鎮座している。実際に目の前にすると、想像以上に大きくて圧倒されるが、その周りで地元の人たちがのんびりとおしゃべりする姿に、時代の移り変わりを感じる。
マルクス像周辺には、必要以上に幅広い道路や、ミニマルで直線的な建物が並び、共産圏だった東ドイツ時代を彷彿(ほうふつ)とさせる。ケムニッツの旧市街地を含め、ドイツの古い町並みには、包み込むような圧迫感があるのに対し、マルクス像周辺は、遠近感が狂うほどだだっ広く、突き放されたような開放感がある。
東ドイツ時代の建物について旧西ドイツ出身の友人は「東ドイツ時代を引け目に感じていたり、こういう建物も無くしてしまいたいという地元の人もいるみたいだよ」と教えてくれた。ケムニッツ出身の女性に聞いてみると、「私の周りでは、無くしてしまいたいという人はいないけど、東ドイツ時代については世代間でも感じ方が違う。祖父母の世代は東西統一後、社会の構造が変わって大変だったみたい。でも最近では東ドイツ時代のよかった部分も見直されてきている」と話してくれた。はるか遠い昔のことのように感じていたが、東ドイツ時代はまだ身近な過去なのだと気付かされた。
ケムニッツは、1357年にマイセン辺境伯がケムニッツの住民四人に漂白業を行う権利を与えたことと、市内を流れるケムニッツ川が動力源となり、繊維業で栄えはじめた。東部に広がるエルツ山脈の鉱脈で採れる銀や銅の精錬業と、繊維機械や機械パーツなどの産業も発展しながら、20世紀初頭にかけて繁栄を極めていく。
その頃の華やかさを体感できるのが、ケムニッツ中心部にある新市庁舎だ。1911年に完成した荘厳な建物は、当時中世の雰囲気を残していた街並みに配慮された外観で、戦争中の爆撃を逃れた数少ない建築物としてかつての街の姿を今に伝えている。中に入ると、玄関ホールから4階まで美しいアール・デコの装飾がほどこされ、当時の羽振りの良さが実感できる。
ケムニッツ新市庁舎の見どころのひとつは、旧式のエレベーターだ。ホールには上行きと下行きの木製エレベーターがふたつ並ぶだけで、ボタンもドアもない。止まることなくゆっくりと動き続けるエレベーターにタイミングを見計らって飛び乗り、目的の階で飛び降りる、スリリングな乗り物だ。慣れている市の職員はなんとも自然に乗りこなすが、訪問客は躊躇(ちゅうちょ)しながらも意を決して乗り込んでいく。
実際に下りエレベーターに足を踏み入れてみると、一瞬エレベーターがたゆみ、ギシギシという音と共に降りる階の光がエレベーターの床下から徐々に近づいてくる。初めて味わう体験に胸が躍った。
アール・デコ装飾の新市庁舎の隣には、曲線とガラスを基調とした現代的な建物にデパートが入っている。新市庁舎の裏には、第2次世界大戦の空襲で半壊し、その後再建された旧市庁舎や聖ヤコブ教会がある。旧共産圏時代の建築物を含め、様々な時代を物語る建物がモザイク状に点在しているのが、ケムニッツの面白さだ。
街の西部に点在する元工場群
ケムニッツの産業は1990年代ごろから衰退していくが、産業の街の痕跡は、今でもいたるところに見られる。市の中心部から西へ少し外れると、元工場だった建物が多く点在し、その一部は商業施設などとして再活用されている。
産業博物館も、こうした元工場の再利用の代表的な例のひとつ。可愛らしいアーチ状の外壁が連なる建物は、1982年まで鋳物工場として使われていた。その後、一時は取り壊しが検討されたが、「大事な市の歴史的遺産だから残したい」という人々の声により、2003年に産業博物館としてオープンするに至ったという。
常設展では、繊維から機械、自動車まで、ケムニッツで製造されていた様々な製品が展示され、この街の産業がいかに多岐にわたっていたかが一目でわかる。スチームエンジンを始め、展示物のデモンストレーションも定期的に行っており、見応えのある博物館だ。
他にも再利用の例として、元洗剤工場を活用したドイツゲーム博物館や、1993年まで繊維機械を作っていた巨大な工場群を、スタートアップのオフィスやコワーキングスペースとして貸し出しす施設「ヴィルクバウ」などがある。しかし、多くの建物が手付かずのまま残っているのが現状で、西部は今後の活用次第でどのように変化していくのかが楽しみな、可能性を秘めたエリアだと言える。
工場主たちの邸宅と富裕層の居住エリア
産業博物館の南北に位置する高台には、かつての工場主や富裕層が暮らした邸宅が立ち並ぶ。当時は産業による大気汚染がひどく、労働者層が中心街東部や北部の低い土地に居住する一方で、お金のある人は空気の澄む高台に住んでいたのだという。
こうした邸宅のひとつが、ストッキングの製造で財を成したヘルベルト・エッシェが、妻ヨハンナと子供たちと住むために建てた、エッシェ邸だ。現在は設計を担当した建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの名前を冠した博物館として一般公開されている。建物自体は大きくはないが、大きな窓から差し込む自然光やアール・ヌーボーの装飾、鮮やかな色使いが特徴的な、心地よい邸宅だ。
家の裏側にある馬車置き場だった建物は、改装されてミシュランのビブグルマンを獲得したレストラン・ヴィラ・エッシェが入っており、ザクセン州のワインと洗練された料理を堪能することができる。
富裕層が居住していたもう一つのエリアが、産業博物館の北に広がる、カスベルク地区だ。博物館を背にして坂を上っていくと、青々とした街路樹と美しいタウンハウスが立ち並び、ひとつひとつ眺めながら散策するのが楽しい。かつては、ビジネスで財を成した人々や弁護士、アーティストなどが多く住んでいたという。バウハウスの女性デザイナー、マリアンネ・ブラントの育った家や、作家シュテファン・ハイムの暮らした家などもあり、大きな邸宅が立ち並ぶエッシェ邸周辺よりも文化的な雰囲気が漂う。
「カスベルク地区では20世紀初頭、お金持ちがこぞって、隣よりも美しい家を建てようと張り合っていたそうですよ」と、案内してくれたアニータ・ゲルトさんは教えてくれた。なかでも目を引くのが、1890年代に建てられた、通称マジョリカハウスだ。その名の通り、色鮮やかなマジョリカタイルがアクセントとなっている。
今でこそかつての美しさを取り戻しつつあるが、東ドイツ時代、カスベルク地区はすっかり廃れてしまったという。アニータさんによると、「当時は給与額が決まっていて、誰も家の改装にかける金銭的余裕がありませんでした。こうした古い家は、素敵だけど設備が乏しかったので、より最新式の集合住宅が好まれた」のだという。
カスベルク地区も戦時中に爆撃を受け、その跡地と思われる所に、共産圏時代に建てられたシンプルな集合住宅がいくつか立っていた。その向かいにあった長い平屋のような車庫は、「当時は自動車を手に入れるのに何年も待たされることがあったので、一度手に入れた車を絶対に盗まれないように、頑丈に作ったんですよ」とアニータさん。ここでも、ふとしたところにカスベルクのたどってきた150年ほどの歴史を感じることができる。
可能性を秘めた街、ケムニッツ
繊維業などによる繁栄の後、戦時中の破壊を生き延び、東ドイツ時代を経て、90年代には多くの産業が衰退の一途をたどったケムニッツ。まさに、栄枯盛衰という言葉が思い浮かぶような街だが、今、少しずつ活気を取り戻してきている。
ケムニッツは、2025年の欧州文化首都に指定され、来年は多くの文化事業が計画されている。「ケムニッツに来る人の数は最近かなり増えてきているよ。来年は欧州文化首都だからね」と、軽食を食べに立ち寄ったレバノン料理店で、従業員の若い男性がうれしそうに教えてくれた。
ケムニッツには、いまだに使われないまま放置された古く美しい工場や東ドイツ時代の集合住宅などが数多くある。時代を反映するこれらの建物をうまく活用できれば、他にはないユニークな街に生まれ変わるのではないだろうか。来年の欧州文化首都を経て、どのような街へと変化していくのか楽しみだ。
【取材協力】ドイツ観光局 https://www.germany.travel/en/home.html
<旅の情報>
ケムニッツは、ベルリン中央駅からライプチヒ経由の電車で約3時間半。ドレスデンおよびライプチヒからは直通の電車で1時間強。ケムニッツの中心街は徒歩でまわることができ、産業博物館など少し離れた地区には路面電車やバスを利用すると便利だ。