63年ぶり五つめの国宝天守 松江城の魅力と特長 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
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63年ぶり五つめの国宝天守 松江城の魅力と特長

松江城の国宝天守=松江市

全国には12の天守が江戸時代から残り、そのうち五つが国宝に指定されている。姫路城(兵庫県姫路市)、松本城(長野県松本市)、彦根城(滋賀県彦根市)、犬山城(愛知県犬山市)、そして松江城(島根県松江市)の天守だ。2015(平成27)年、松江城の天守は実に63年ぶりの国宝天守となった。

松江城の天守は、壮麗というより質実剛健な印象だ。現存する12の天守のうち総床面積は2番目に大きく、大地に腰を据えたようなどっしりとしたたたずまい。落ち着いた黒色の壁に、破風(はふ)の曲線美や懸魚(げぎょ)の繊細美が上品な華やぎを添えている。

1644(正保元)年に江戸幕府が諸藩に作成させた「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵)を見ると、一重目と二重目に比翼千鳥破風、三重目に唐破風が描かれており、現在とは少し異なる豪華な装飾が壁面を彩っていたようだ。

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天守の西面

秀吉旧臣の堀尾吉晴が新天地で築城

松江城は、豊臣秀吉の重臣だった堀尾吉晴が1607(慶長12)年から築いた城だ。吉晴は織田信長と秀吉に仕えて武功を挙げた人物で、豊臣政権においては中村一氏(なかむらかずうじ)や生駒親正(いこまちかまさ)とともに要職を担った。秀吉が天下統一を果たした1590(天正18)年からは、東海道上の要所である浜松城(静岡県浜松市)を任されている。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、子の忠氏が出雲・隠岐(島根県東部・隠岐郡)24万石を拝領し、出雲の中心であった月山富田城(がっさんとだじょう、島根県安来市)に入城。忠氏は新たな拠点として松江城の築城を計画したが急逝してしまい、跡を継いだ忠晴が幼少だったため、吉晴が後見人となり実質的に松江城と城下町を整備した。秀吉のもとで実戦経験を積み、城づくりの技術を磨いた吉晴だからこそ、立派な天守が建つ見事な石垣の城が築けたのだろう。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は政治的実権を握り、1603(慶長8)年に江戸幕府を開府する。しかし豊臣家との決着がつく1615(慶長20)年までは、全国的に軍事的緊張下にあったはずだ。外様(とざま)大名である堀尾氏はなおのこと、生き抜く策を模索していたに違いない。松江城は、新天地における政治・経済の中心地である一方で、戦いに備えた軍事施設でもあり、さらに幕府に恭順の意を示す城でなくてはならなかっただろう。吉晴の苦悩に思いをはせると、胸に込み上げるものがある。

松江城の天守は、四重五階地下一階。正面から見たとき三重目に見える屋根は、出窓のように突出したいわばフェイクだ。五重に見えて実は四重なのも、幕府への配慮からだろうか。

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天守の正面にあたる南面

戦闘力ある天守内、附櫓に向けた狭間も

とはいえ、数々の死闘をくぐり抜けてきた吉晴が築いたせいか、天守内部には戦闘性が光る。

まず驚愕(きょうがく)するのは、天守壁面から天守入り口に付属する附櫓(つけやぐら)内に向けて設置された「狭間(さま)」だ。本来、狭間は建物の外側に向けられるもので、建物内にはない。そう、この狭間は、附櫓の内部まで侵攻されてしまったとき、その敵を櫓内で抹殺する恐るべき射撃装置なのだ。城兵の射撃場となる石打棚も設けられ、最後まで戦い抜こうとする気迫が感じられる。

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附櫓内に向けて天守壁面に設けられた狭間

天守内部にも、迎撃のしかけが満載だ。破風内部の空間は監視・射撃場として活用。軒下に設置された「隠し石落とし」は、敵が気付きにくいだけでなく、外観の造形美を損ねない。美しさと強さを兼備した、城の真骨頂といえる機能美の極みといえよう。

天守まで攻め込まれた段階ではもはや落城は決定的で、このような備えなどさほど意味がないように思える。しかしそれはきっと、平和な現代人の感覚なのだろう。数々の戦いを生き抜いてきた吉晴にとっては、当たり前の対策であるのかもしれない。城にみられる“防御性・迎撃のしくみ”と“セキュリティー・警護の備え“は異なるものだと思うのだが、その二つが入り交じるのがこの時期の城のおもしろさでもある。「幕府への配慮があるのなら、外観より戦闘性こそ控えめにすべきでは?」とも思ってしまうが、松江城の場合は、やはり戦乱の世を生き抜いてきた吉晴の常識や価値観が投影されているように思えてならない。

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壮大な石垣も見どころ

特殊な構法と完成年の解明が国宝化の決め手

さて、冒頭に触れた天守の国宝指定について触れておこう。国宝化に向けての調査・研究には、放射性炭素年代測定(ウィグルマッチング法)による部材の年代測定調査など、最新の調査方法も導入された。日本の築城史や天守の構造を解き明かす成果となり、城郭研究の新たな1ページがめくられたといっていいだろう。

国宝化の決め手のひとつは、独自の建築技法が明らかになったことだ。建築上の最大の特色は、「互入式」と呼ばれる通し柱の使い方だ。

姫路城の天守は、地階から6階の床まで巨大な通し柱(心柱)を2本貫通させている。これに対して、松江城の天守は、地階と1階、1と2階、2と3階、3と4階、4と5階、というように、2階分ずつをいくつかの通し柱で支えている。そして、その通し柱をずらすように交互に配置することで、天守の荷重が下の階に直接かからないように工夫していた。荷重を外方向へ分散させながら下方向に伝えることで均一に荷重をかけ、天守を一体化しているのだ。

おそらく、姫路城天守ほどの長大な通し柱が調達できず、代替策としてこの方法が編み出されたのだろう。天守2階から3階への階段で、2階分を通していることがわかる通し柱を見ることができるので、ぜひ注目してほしい。308本の柱のうち、96本が互入式通し柱と判明している。

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2階分を通していることがわかる通し柱

天守の完成年が証明されたことも、国宝化の大きな決め手となった。天守の完成年代の特定は、実はとても難しい。古材が転用されていることがあるため、材木の年代や柱の加工技術だけでは断定できないからだ。犬山城の天守のように、下層部と上層部で建造時期が異なることも少なくない。

松江城天守の場合、再発見された2枚の祈祷(きとう)札が歴史的な価値を証明する決定打となった。赤外線調査により大半が判読でき、「慶長拾六年」「正月吉祥日」、つまり1611(慶長16)年正月に大般若経600部を転読(端折って読む)したことなどが記されていた。大般若経600部の転読は建物の完成を祝う儀式で行われるものでもあり、祈祷札が用いられるのは天守の完成を祝う儀式。よって、祈祷札は松江城天守が少なくとも慶長16年正月以前に完成していた証しとなったのだ。

祈祷札は、天守地階中央から1階の通し柱に打ちつけられていた。通し柱に残る釘の跡と祈祷札を打ちつけた位置が合致し、錆(さび)から出た柱のシミと祈祷札の裏側に付着した錆も化学分析により一致した。現在はその柱に祈祷札のレプリカが展示されている。祈祷札だけが証しではなく、祈祷札2枚のほか、地鎮祭のとき土地の神を鎮めるため地中に埋める「鎮物(しずめもの)」3点、鎮宅祈祷札4枚が国宝に指定されている。

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祈祷札2枚のレプリカが通し柱に展示されている
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