誰もがうっとり! 沖縄のグスク(浦添・玉城・知念・糸数・具志川)を歩く
約3年ぶりに沖縄を訪れていくつかのグスクを訪ね、その奥深さに改めて感激した。グスクとは、琉球列島で約300確認されている城のこと。琉球列島は本土と東南アジアとのほぼ中間に位置し、広大な海域に散在する多数の島々から構成される。その地理的条件から、東南アジアや中国、韓国や日本などの間で独自の政治的立場を確立し、経済を機能させ文化交流の役割を果たしてきた。そのため日本本土とは異なる独自の歴史や文化があり、グスクはそれを示す遺跡の一つといえる。外観はもちろん、築かれた時期、技術、さらには信仰の場も兼ねるなど、存在意義まで本土の城とは一線を画す。
琉球王国の成立以前から存在したグスク
グスクは、12世紀末ごろから「按司(あじ)」と呼ばれる地方領主が地域の支配拠点として築いたとみられている。按司たちが抗争を繰り返し、三つの勢力(北山・中山・南山)が拮抗(きっこう)する三山時代が到来。これを1429年に中山の尚巴志(しょうはし)が統一し、琉球王国が成立した。琉球王国の国王となった尚巴志が国王の在所としたのが、首里城(那覇市)である。“グスク=琉球王国の城”というイメージが強いが、実は琉球王国の成立以前から存在するものなのだ。
グスクが琉球王国の城と思われがちなのは、五つのグスクが2000(平成12)年にユネスコの世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に登録されているからだろう。世界遺産を構成する九つの資産に、五つのグスク(首里城・今帰仁〈なきじん〉城・中城〈なかぐすく〉城・座喜味〈ざきみ〉城・勝連〈かつれん〉城)が含まれている。“琉球王国の特徴を表す文化遺産群”であるから、五つのグスクも琉球王国に関連が深く、琉球王朝の独自の文化を示している。
たとえば今帰仁城(今帰仁村)は、尚巴志が滅亡させた北山王の居城であり、琉球王国成立後も琉球王府から監守(役人)が派遣された重要拠点だ。しかし、<青い海を見下ろせる奇跡のグスク 今帰仁城>でも紹介したように、北山王が現在の姿に改修する以前の姿まで発掘調査で確認されており、大きく4時期の改変を経て13世紀末頃から17世紀前半まで機能していたことがわかっている。
琉球王国で要職に就いた護佐丸(ごさまる)が築き、首里城とハンタ道でつながれ機能した中城城(中城村)にも、それ以前の歴史がある。14世紀後半に先中城(さちなかぐすく)按司が主要部分を築き、1440年に城主となった護佐丸が増築して完成したとされてきたが、<新発見! 世界遺産のグスク 中城グスクに出現した石積みとは?>でリポートしたように、さらに築城時期が早まることが明らかになっている。
さまざまな構造、石塁のないグスクも
グスクは、規模も構造もさまざまだ。まず壮大な石塁を連想するが、沖縄本島北部から奄美諸島にかけては石積みのない土づくりのグスクも存在する。採石できない地質という事情もあるのだろう。沖縄本島のグスクは南部に集中しているが、宗教的な理由だけではないのかもしれない。近年は本島中部の浦添グスク(浦添市)でも土で造成した張り出し部や堀切が見つかっており、勝連城(うるま市)でも東の郭の城外側に堀切らしきものが検出されている。
首里城以前の王城と考えられる浦添グスクは、北側の崖中腹に13世紀の英祖王と17世紀の尚寧王の陵墓「浦添ようどれ」もある。13世紀末に野面積みの城壁で囲まれたグスクとして築かれたとされ、14世紀後半から15世紀前半に切石を用いたグスクに改変されたとみられている。南南西の約3.5キロ先には首里城を現在も望むことができ、首里城との間には中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)と呼ばれる宿道(しゅくみち)が通っていた。ちょうど首里城を遠望できる南西側に、本土における中世山城の段曲輪のような、城壁を伴わない「物見状廓」と呼ばれる張り出しがある。
必ずしも按司の居城とは考えられない様相のグスクもある。グスクにはほぼ例外なく「御嶽(うたき)」や「拝所(うがんじゅ)」と呼ばれる信仰の場があるが、首里城や今帰仁城のように御嶽が取り込まれているグスクもあれば、城塞(じょうさい)というより拝所に近いグスクもあるのだ。
南西諸島の集落には聖地・墓所・拝所があり、どうやら城館化したり防御性を高めるうちに、大規模化したり壮大な城壁で囲まれるようになったらしい。弥生時代の環濠(かんごう)集落のように、集落を守るための防御的発想を根源とするイメージだ。首里城や今帰仁城はその代表例で、集落や祭祀(さいし)の場だったグスクが取り込まれ、聖地を擁する大規模なグスクに発展したと考えられる。支配拠点らしからぬ異質なグスクは、機能せず集落のまま存続したり、移転によって役割を終えて放置されたりしたグスク、ということのようだ。
聖域から城塞への移り変わり
首里城や今帰仁城と同じく、琉球神話において琉球開闢(かいびゃく)の神とされるアマミキヨが最初に創(つく)ったとされる七御嶽の一つが取り込まれているのが、玉城城(南城市)である。沖縄本島南部で標高がもっとも高い台地上の独立丘陵にあり、周囲を見渡せる。最高所に置かれた拝所は、琉球国王と聞得大君(きこえおおきみ)が巡礼する「東御廻り(あがりうまーい)」の地の一つであり、国王による雨乞いの儀式「雨粒天次(あまつづてんつづ)」が行われた伝承もある。
祭祀的な性格を色濃く残しながらも、広大かつ、張り出しなどを導入した軍事性を感じるグスクでもある。聖域から防御施設への移り変わりを知ることができるグスクといえるだろう。
知念グスク(南城市)でも、聖域から城塞への発展過程をみることができる。知念グスクは、琉球最古の古謡集『おもろそうし』にもうたわれ、アマミキヨが降臨して築いたとされるグスクだ。野面積みの「クーグスク(古城)」と切石積みの「ミーグスク(新城)」という石積みの様相が異なる二つのグスクから構成され、積み方の技術が古いとされるクーグスクが、アマミキヨによる築造という伝承がある。
クーグスクは、ミーグスクより4〜5メートル高いところにある。しかし北東部には野面積みの城壁で囲まれた張り出しがあり、先端には櫓台らしきものもある。東側にも、城壁がめぐらされた円形の突出部があるなど、防御性が感じられる。気になるのは、南東側の崖下にある「ワカチバナ」と呼ばれる標高90メートルほどの小さな高まりだ。現在は拝所になっているが、知念グスクの死角を補う出城と考えられるそうだ。
一方のミーグスクは政庁のような雰囲気を感じる空間で、番所跡も確認されている。北東側の正門と北側の裏門はいずれもアーチ門で、正門を入ったところには枡形虎口をほうふつとさせる仕切りのような石積みがある。沖縄の伝統的な民家にも見られる、「ヒンプン」と呼ばれる建物内部の目隠しで、正面玄関の入り口に設けて外からの魔物をはね返す魔よけの意味もあるという。
知念グスクにもやはり聖域は存在し、ミーグスクの南西側には「友利之嶽(とむいぬたき)」という、祭壇のように低い石積みで囲まれた御嶽がある。眼下には海が広がり、その先には琉球の聖地・久高島が見える。おそらく遥拝(ようはい)所だったのだろう。
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いまからほぼほぼ40年前まだ学生であったころ、今帰仁を訪ねた。当時は、カセットテープを再生するwalk-manだけが道連れだった。しかし、いまもなお写真をみるだけで当時の断片的な思い出を彷彿とさせる。なにもないされど旅人は竜と踊る(笑)。
昨年、中城を訪問した。
青い空に映える規模の大きな石積の城壁に圧倒された。
ほとんど人がいない中、思いにふけられる場所でとても良かった。
いわゆる日本のお城とは少し違う雰囲気漂う沖縄のお城は一度は訪れたほうが良いと思った。