徳川御三家の城たる壮大さと石垣の美 和歌山城 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
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徳川御三家の城たる壮大さと石垣の美 和歌山城

和歌山城の鶴ノ渓(たに)の石垣=和歌山市一番丁

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、紀州徳川家で知られる和歌山城(和歌山市)。市の中心に壮大な都市公園のごとく鎮座し、重厚な風格が漂います。目を見張るのは石垣の美しさと多様さ。連立式の天守や数々の門も含め、くまなくご案内します。

起伏を巧みに使った設計、重厚な品格

久しぶりに和歌山城を訪れて、驚いた。これほどまでに壮大な城だったのか、と。なんの気なしに歩いてしまうと広々とした心地よい都市公園に思えるが、起伏をうまく使った縄張(設計)、広大な城内に累々と積まれた高石垣、広大な水堀、江戸時代から残る城門など、目を見張るところが尽きない、見事な城だ。

戦いの場としての緊迫感はなく、政庁の仰々しい雰囲気も色濃くない。重厚な品格が漂うのは、最終的に紀州徳川家の城となったからだろう。紀州徳川家は、徳川家康の十男・徳川頼宣を家祖として1619(元和5)年から和歌山城を居城とした、徳川御三家(紀州徳川家・水戸徳川家・尾張徳川家)のひとつ。御三家は御三卿(一橋徳川家・田安徳川家・清水徳川家)より格上で、将軍家に次ぐ地位にあった。広大な城域、曲輪(区画)の配置や仕切り方、門構えや石垣の技術力の高さなど、徳川家ゆかりの城を連想させる共通項がある。

秀吉の弟・秀長が築き、江戸時代に改修

和歌山城の築城は、戦国時代末期の羽柴(豊臣)秀吉の時代にさかのぼる。1585(天正13)年、紀州を平定した秀吉の命令により秀吉の実弟・羽柴秀長が築き、翌年に秀長の城代として家臣の桑山重晴が入った。このとき築城に携わった家臣のひとりが、江戸時代に徳川家の城をいくつも手がける藤堂高虎とされる。和歌山城は、後に築城名人として才を発揮する高虎がその技を磨いた城ともいえるのだろう。

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの後は、浅野幸長(よしなが)が37万6000石で紀伊一国の領主となって和歌山城に入り、大改修。堅固な城に、優雅な居住空間が増設されていったようだ。

また、大手門(正門)が岡口門から一の橋門に変えられ、北向きの城へと変貌(へんぼう)した。現在の和歌山地方裁判所から和歌山市役所あたりに外郭が設けられて重臣の屋敷が並び、本町通りを大手筋として城下町が開かれた。

その後、1619年に55万5000石で徳川頼宣が入国して紀州徳川家が成立し、和歌山城は大拡張された。2代将軍・徳川秀忠は、外様大名の浅野家ではなく、親藩大名に海上交通の要衝である和歌山を任せたのだろう。改築費用として銀2000貫(現在に換算すると30数億円)が与えられている。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れるなど城域が広げられ、現在の和歌山城の姿がほぼ完成。以後、明治維新まで紀州徳川家の城として機能した。

復元された天守群
復元された天守群

曲線美の風情、みずみずしさすら感じさせる石垣

なんといっても、石垣が壮大で美しい。地形に沿って積まれた曲線美は、日本庭園のような風情がある。織田・豊臣時代の石垣にみられる特徴ともいえよう。また、豊臣・桑山時代には「緑泥片岩(通称:紀州青石)」と呼ばれる青緑色の結晶片岩が用いられており、これがまた風格があってすばらしい。表面の苔(こけ)と相まって、まさに幽玄の美だ。この日はあいにくの雨だったが、そのおかげで青みがぐっと冴(さ)えてなんとも表現できない趣があった。断面の一筋一筋に生命が宿っているようなみずみずしさがある。

和歌山城は、紀の川の河口域を占める和歌山平野のほぼ中央に位置する。現在の和歌山市は、東西に走る中央構造線を境に南北で地質が異なり、南側は結晶片岩を主体とする三波川(さんばがわ)変成帯、北側は砂礫(されき)・砂岩・泥岩などの堆積(たいせき)岩層で構成される和泉層群となっている。和歌山城は三波川変成帯の岩山である独立丘陵、岡山(虎伏山)とその周辺の砂丘上に築かれた城で、結晶片岩の多くは城のある岡山や城の南東側にある天妃山で採石されたとみられている。

切手門続櫓上櫓台
切手門続櫓上櫓台

西之丸庭園の南側、通称:鶴ノ渓(たに)の石垣は、大部分が豊臣・桑山期の石垣だ。大きな結晶片岩を積んだ野面(のづら)積みの石垣で、隅角部の算木積みも未発達。城内でもっとも古い石垣と考えられているのは、本丸の天守台。築城を急ぐ中で石材が不足していたためだろうか、天守台や天守曲輪には五輪塔や宝篋印 (ほうきょういん)塔などが多くみられる。天守一ノ門付近の緑泥片岩には海食の痕跡もあり、海岸部からの運搬も連想できる。

松ノ丸櫓台
松ノ丸櫓台

和歌山城の石垣のおもしろいところは、様相の異なる石垣が城内に混在することだ。積まれた時期により、石材や積み方が違う。また、石材が同じでも加工や積み方が異なり、さまざまな表情を見せてくれる。

豊臣・桑山期と浅野期の石垣は結晶片岩や和泉砂岩だが、徳川期になると花崗斑岩(かこうはんがん)も用いられる。たとえば、豊臣・桑山期の天守台の石垣は結晶片岩の野面積みだが、浅野期に積まれたと見られる岡口門周辺や大手門から一中門、徳川頼宣が増改修時に新たに積んだと考えられる砂の丸の石垣は和泉砂岩の打込接(うちこみはぎ)。不明門(あかずのもん)跡付近の高石垣、松ノ丸櫓台の高石垣などは、隅角部に花崗斑岩を用いた切込接(きりこみはぎ)だ。一中門跡の石垣には途中から石材が変わる面があり、右が和泉砂岩で左が花崗斑岩になっている。天守周辺と二ノ門周辺の石垣は、どちらも結晶片岩を用いた野面積の石垣だが、よく見ると後者は横長の石を横に目地が通るように積まれており、まったく印象が違う。

南の丸と砂の丸を区切る石垣を見ると、その違いがよくわかる。松ノ丸南面の長大な石垣は、豊臣・桑山期に積まれた結晶片岩の野面積み。本丸を取り囲むように、山の斜面に沿って積まれた石垣だ。この石垣に直交するように、切込接の石垣が仕切りのように積まれている。徳川頼宣が南の丸や砂の丸を拡張したとき、区画整理のために新たに積んだのだろう。このように、石垣の変化とともに城の変化も見ることができる。

南の丸と砂の丸を区切る石垣
南の丸と砂の丸を区切る石垣

新裏坂下の石垣には膨大な刻印石が残り、長時間まじまじと眺めてしまった。約140種類2300個以上もの刻印が確認されているという。とりわけ新裏坂あたりは刻印が多く、855個が確認されているという。

新裏坂下の石垣
新裏坂下の石垣
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