原っぱか遊園地か 刊行20年を経て今こそ「刺さる」問題
『原っぱと遊園地』
「遊園地」と「原っぱ」。どちらも遊ぶ場所だけれど、建築の在り方としては、おおきな違いがある。それは「あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)」(14ページ)。つまり、使われ方の性質の違いだ。
たとえば、自動車の運転席の設計であれば、その目的がはっきりしている。快適で安全な運転ができるように、作り手はあらゆる予測と先回りをして完成を目指すだろう。建築はそうではない。空間が先回りして行為や感覚を拘束してしまうことは、使う人間をきゅうくつにしてしまう。近年はそんな建築が増えているようだ、と建築家である青木淳氏は警告している。もし美術館に行った人が「さあ、こんなふうに感動しなさい」と建築に煽(あお)られたら、かえってつまらなくなってしまう、と。
住宅については、さらにややこしい。家という建築構造が「ここで寝て、ここで食べ、ここで仕事をしなさい」という拘束力を持つのは、それが住む人の希望でもあるからだ。
青木氏は、青森県立美術館やルイ・ヴィトンの店舗など、使い手も条件も異なるさまざまな建築を手掛けている建築家だ。本書はその発表にあわせて書いた文章を集めたエッセー集で、建築がそのかたちに至るまでの思考ロジックと葛藤が記されている。私自身は建築の専門知識を持っていないけれど、建築や生活空間と人の関わり方を自分の問題として強く意識することになった。
本書を読むにあたって、私のように建築の専門家でない読者が気をつけなければならないことがあるとすれば、2004年に刊行された本である、ということかもしれない。
建築家に向けて提起された「原っぱと遊園地問題」のとらえ方についても、もう少し踏み込んだ考え方が必要になってくる。つまり、著者の「私たちの周りには、人間の感情を先回りして心の動きやふるまいを同じものに規定しようとしている物事が多いのだよ」という警告は、もう警告するまでもない事実となっていて、その圧力を逆手にとってSNSなどで他者と同じ感情を共有する……というフェーズすらもすでに通り過ぎつつあり、いまや「いたれりつくせりだらけの環境であることを認識しながら、それに逆らわずに“自分らしく”楽しむことができるか?」が問われているように思うのだ。
本の刊行から20年経って、問題の対象は建築家ではなく「建築を使う」側の人間に移行してしまったのかもしれない。形式を否定し、テーマパークや美術館では“誰も知らない楽しみ方”を自分の中から無理やりにでも発掘しなければならないのなら、この時代の「原っぱと遊園地問題」は、どちらが正しいのかという二項対立を超えて、さらに正解の見えにくい複雑な問題になってしてしまったようである。
だからこそ、かえってこの本は古くなるどころか、刊行当時よりももっと多くの人に「刺さる」本になっている、と思う。読めば建築の在り方の正解が分かる、ということではない。美術館などの公共空間から商業建築、住宅まで手掛けてきた建築家は、形式を用いることを決して否定しない。彼の言葉は葛藤に満ちていて、人間という存在はむしろ不定形なものなのだと伝わってくる。
読み終わった後、私の頭にふと「死守せよ、そして、かろやかに手放せ」という昔の劇作家の言葉が浮かんできた。建築家は、原っぱで遊ぶ子どものように自意識を超えて駆け出す心をいつくしみ、だからこそ一度それを手放して、厳密な形式を用いて建築を生み出している。
建築を通して世界がそんなふうに作られているのなら、それはとても嬉(うれ)しいことだと、素直に思えた。
いわせ・かのこ
二子玉川 蔦屋家電 人文コンシェルジュ
代官山 蔦屋書店で8年勤務後、2021年より二子玉川 蔦屋家電に勤務。代官山では歴史・日本文化コンシェルジュとして、書棚作りを行いながら、日本中の良いものを紹介するフェアを開催。いけばな専門誌・季刊『草月』にて、本のおすすめコーナー「草月図書館」を連載しています。本と人、人と人が出会う場としての本屋が好き。よき「つなぎ手」とは何かを思索しながら、日々奮闘中。