楠木正成の武勇伝が残る南北朝時代の山城 千早城
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は大阪府千早赤阪村の千早城です。楠木正成(くすのき・まさしげ)が拠点とした城。押し寄せる鎌倉幕府の大軍を、地の利を生かして少ない兵で撃退したと伝わります。
金剛山の稜線に築城した山城
千早城のある千早赤阪村は、大阪府下で唯一の村だ。大阪府の南東部にあり、東側は南北に連なる金剛山地があり、奈良県の御所(ごせ)市や五條市が接する。まさに県境の壁である。その金剛山地の主峰が金剛山。千早城はそこから西に伸びる稜線が屈曲した、標高約674メートル地点にある。
千早赤阪村役場や村立郷土資料館のある中心部から車を走らせること約15分、谷に囲まれた道を不安になるほど登ったところで、ようやく駐車場と登城口にたどり着く。千早城は深い谷に囲まれ、集落との比高差は約175メートルにも及ぶ。
千早城は、南北朝時代の「千早城の戦い」の舞台として知られる。1333(元弘3/正慶2)年、後醍醐天皇の討幕計画に呼応した楠木正成が鎌倉幕府方の大軍と戦い、大劣勢をはねのけ勝利した戦いだ。
後醍醐天皇は笠置山の戦いに敗北して捕えられ、やがて隠岐に配流。楠木正成も下赤坂城の戦いで孤軍奮闘するも消息不明となり、鎌倉幕府打倒をもくろむ元弘の乱は終結したかに思われた。ところが1年以上の沈黙を破り、正成は再び挙兵したのだ。下赤坂城の戦いの際、劣勢に陥った正成は城に火を放って落城したと見せかけて脱出。上赤坂城とその背後にある金剛山中の千早城を中心に、ひそかに態勢を整えた。そして、千早城の戦いで、起死回生の勝利を遂げたのだった。
押し寄せる幕府の大軍 地の利を用い撃退
軍記物『太平記』には、200万人余りの鎌倉幕府軍が千早城に攻め寄せたと記される。この数は誇張されたもので実際には数万程度と考えられるが、千早城で迎え撃つ正成軍の兵力はわずか1000人ほどで、いずれにしても圧倒的な兵力差があったようだ。まともに戦っては勝ち目がなく、そこで正成が味方につけたのが千早城の地の利だった。
正成が活用したのは、山城の高低差だ。敵を山上で待ち構え、櫓(やぐら)から礫(つぶて)や弓矢で迎撃。敵を誘い込んで険しい崖に追い詰めて突き落としたり、鎧(よろい)を着せた藁(わら)人形で敵をおびき寄せて頭上から集中攻撃するなど、時には心理作戦も織り交ぜながら奇策で応戦していったという。数万の幕府軍を約100日間足止めした奮闘ぶりに各地の武士が蜂起(ほうき)し、戦局が大きく転換。鎌倉幕府滅亡への道筋を開いたとされている。
戦いの際は、平地で対峙(たいじ)するより高いところにいた方が圧倒的に有利だ。敵の動きが見下ろせ、投石などの攻撃も殺傷力が増す。斜面に塀を設けておけば、斜面を攻め登る敵兵からは城内の様子が見えにくい。なにより地形を知り尽くしていることは、絶対的なアドバンテージになる。
この戦いを機に、野戦が中心だった戦いに新たな選択肢が生まれ、山城が戦いの場として急速に発展したとみられている。南北朝時代の山城は、人里離れた急峻(きゅうしゅん)な尾根上にあることが多く、山岳寺院を改造したケースも多い。修験の道が確保されているためだろう。金剛山も修験道の原郷で、山頂にある転法輪寺は、近畿の修験道七高山のひとつに数えられている。
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現在、朝刊の小説(人よ花よ)は楠木家の話なので、千早城の記事は興味深く拝読しました。