これぞ傑作、究極の“土の城” 茨城県・小幡城
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は茨城県茨城町の小幡城です。七つの郭(くるわ)を複雑に屈曲する空堀や土塁が囲み、攻め寄せる敵兵にとっては絶望的な迷路になっていました。
一歩踏み込むと伝わる、中世の緊迫感
戦国時代の城は、石垣づくりではなく土づくりだ。斜面を削り尾根を断ち切って区画を独立させ、掘った土を盛って通路を複雑にして射撃場をつくり、山全体を要塞(ようさい)化していくのだ。土木工事だけでつくり上げられる“土の城”は、ときに芸術を感じるほどの設計力が魅力だ。
茨城県でもっとも醍醐味(だいごみ)が味わえるのが、茨城町にある小幡城だ。一歩城内に足を踏み入れれば、そこは戦国時代。圧倒的な土木量を誇る、究極の土の城。中世におけるこの地域の緊迫感がそのまま刻み込まれている。
小幡城は、<整備で激変! 往時の威容よみがえる 水戸城 (1)><堀底が線路に! 関東屈指のダイナミックな堀と土塁 水戸城 (2)>で触れた水戸城と関連ある城だ。築城者や築城時期は定かではないが、出土遺物の年代や地誌の記述から、15世紀前半に築かれたとみられている。
この地域を治めていた馬場大掾(だいじょう)氏の支配下にあったとされ、1422(応永29)年に江戸氏が大掾氏の水戸城を攻略したことで、小幡城も江戸氏の支配下となった。小幡城主の小幡氏は江戸氏から離反したことで江戸氏から追討されたという伝承もあり、所領をめぐる戦いの舞台となっていたようだ。
江戸氏が敵対勢力に備えた「境目の城」
16世紀になると、有力勢力との抗争の激化にともなって、江戸氏領地の南端にある小幡城は「境目の城」として強化されたようだ。江戸氏の敵対勢力は、小田城(茨城県つくば市)を拠点とする小田氏と、府中城(茨城県石岡市)を居城とする大掾氏だ。1545(天文14)年には、江戸忠通(ただみち)が小田氏の動向を探るため小幡城に城代を置いたとされる。1585〜1588(天正13〜16)年にかけての大掾氏との争乱では、江戸氏が小幡城に在陣した記録もある。
最終的には、1590(天正18)年に佐竹義宣(よしのぶ)が豊臣秀吉から常陸国(ひたちのくに)の統領としての地位を認められたことで、江戸氏は没落。常陸一国の支配権を得た佐竹義宣は、小幡城をはじめ江戸氏の城をことごとく焼き払ったという。このときに小幡城が廃城になったかはわからないが、佐竹義宣の常陸統一により、かつてのような戦略的価値は失われたといえるだろう。
こうした経緯から、現在みられる小幡城の戦闘性の高さは、16世紀後半頃に強化されたものと考えられている。西側の区画で行われた2006(平成18)年からの発掘調査の成果から、該当部分は17世紀中頃に埋没したことも明らかになっている。
七つの郭、高低差少なくても壮大な構造
小幡城は寛政川右岸の舌状台地の突端、標高14~27メートルほどの場所にある。「高低差がさほどなくてもここまで壮大な城をつくれるのか」とまず感激せざるを得ない。周囲は小川が複雑に入り組むような地勢で、小幡城の南・東側も水田に面した急斜面、北・西側は緩斜面となっている。
七つの郭から構成される城だ。中心となる主郭を中央に置き、ダイナミックな空堀と土塁を複雑に屈曲させながら各郭を配置している。主郭は東西約80メートル、南北約50メートルと思いのほか広く、しっかりと成形されている印象だ。
とにかく驚くのは周囲を囲む土塁と、櫓(やぐら)台のようなどっしりとした四方の張り出し部。屈曲する土塁でくまなく横矢を掛けながら、四隅の櫓台からも集中的に射撃する算段だろう。
印象的なのは、南側の虎口(出入り口)に設けられた土橋状の通路で、ここから南側の区画へとつながり、さらにその複雑な通路を経て西・東の区画へと通じるようになっている。それぞれの区画はこれでもかと折れ曲がり、城兵がどこからでも監視・迎撃できる構造となっている。
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なかなか行けない全国の城を簡単に紹介してもらえる貴重なサイトですね。毎回楽しみです。一つお願いですが、紹介の際には縄張りを表示してもらえると、解説の文章に説得力がでると思います。
空掘りと土塁は山城の特徴と思います。掘削延長と盛り土の延長は膨大です。当時の土木はすべて人力作業、どれだけの人員と日数を要したことか。そして今また、膨大な軍事費を投入することが国会で決まった。