整備で激変! 往時の威容よみがえる 水戸城 (1)
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は水戸市の水戸城です。江戸時代の水戸徳川家の城として有名ですが、大手門や二の丸角櫓(すみやぐら)、土塀が復元されたことで、城の構造や広大さが実感できるようになりました。
復元建物をヒントに本来の壮大さ実感
久しぶりに水戸城を訪れ、その大きな変化に驚いた。2014(平成26)年度からの本格的な歴史景観整備事業により、学術調査をもとに大手門や二の丸角櫓、土塀などが復元されたのだ。
感激したのは、建造物が復元されたことではない。復元された建造物が往時を連想させる絶好のヒントとなり、水戸城の本質たる壮大さが体感できるようになったことだ。水戸城は、全国屈指の規模を誇る土づくりの近世城郭であるのが最大の特徴。その城域や区画の広さ、堀や土塁のダイナミックさ、城門の大きさ、配置の秀逸さが、城が断片的に可視化されたことでぐっとイメージしやすくなった。
復元大手門が示す「正面は西側」
たとえば、二の丸の玄関となる大手門の復元によって、城の正面が西側であることが誰の目にも明らかになった。弘道館が建つ三の丸と大手門とを隔てる巨大な堀とそこにかかる大手橋が、本丸や二の丸など城の中心部との境界線。大手橋を渡り巨大な大手門に近づくにつれ、その威容に背筋が伸び緊張感が高まる。大手門を抜けた先が気軽に入れないエリアだと感覚的にわかるだろう。
水戸城の中心である本丸は、水戸第一高等学校の敷地になっている。そのためこれまでは、「水戸城は高校になってしまい、何もなく見学もできない」という印象が強かった。本丸の規模を知ることができないばかりか、周囲を散策していても本丸を取り巻く区画の配置もわかりにくく、自分が城内のどこにいるのかも把握しにくかった。
ところが二の丸の正面玄関である大手門の位置が明確になったことで、本丸・二の丸・三の丸の位置関係が把握できるようになった。また、大手門から本丸へ至るまでの道筋を歩くことで、二の丸がかなり広いことも体感できるようにもなった。これまで三の丸の弘道館は水戸城の中心建物のような存在感を放っていたが、今となっては、大手門の外側にある三の丸の一角にある建物にすぎないと感じるだろう。
復元長塀でわかる二の丸の広大さ
二の丸から本丸に至る長塀も、規模を実感できる大きなヒントになっている。見るからに新しく現存する建造物でないのは明らかだが、延々と続く塀をたどりながら本丸を目指すことで、二の丸の広大さを実感できるのだ。
二の丸北側の杉山門が復元されたことで、防備の万全さも連想できる。門の内側にあった枡形(ますがた)は再現されておらずその構造を知ることはできないが、坂を登りきったところに関所のように城門が立ちはだかり、侵入者をすんなりと直進させない工夫が凝らされていたことはわかる。
水戸城は、那珂(なか)川右岸の標高約30メートルの台地上に築かれた城だ。北を那珂川、南を千波湖と桜川に挟まれた上市台地の東端にあり、那珂川と千波湖に挟まれるようにして城域が東西に広がっていた。さらに東には沖積低地が広がる、三方を囲まれた立地だ。
始まりは12世紀末 馬場大掾氏の居館
その防御性にすぐれた立地から、上市台地は中世初頭から地域支配の拠点として重視されていたという。常陸府中(現在の茨城県石岡市)と陸奥をつなぐ陸上交通の拠点でもあり、また那珂湊(みなと)とを結ぶ水上交通の要地でもあった。始まりは12世紀末から13世紀初頭に地頭の馬場資幹(すけもと)が構えた居館とされ、200年にわたり馬場大掾(だいじょう)氏がこの地に拠点を置いて支配した。
南北朝の動乱期になると常陸守護の佐竹氏が台頭。やがて馬場大掾氏が佐竹氏に敗れて衰退すると、佐竹氏配下の土豪・江戸氏が奇襲をかけて水戸城を奪取。水戸城は江戸氏により拡張され、約160年間の支配拠点になったとみられている。
江戸氏の支配後、佐竹氏が近世城郭に
江戸氏はその後の勢力を拡大したが、1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原攻めを機に衰退。佐竹義宣が秀吉から常陸一国を安堵(あんど)されたことで江戸氏は没落し、佐竹義宣は水戸城を攻め落とし支配下に置いた。
佐竹義宣は太田城(茨城県常陸太田市)を居城としていたが、1591(天正19)年に水戸城に居城を移し、これにともなって水戸城は大改修された。江戸氏時代の水戸城と同じ区画内に本丸を置き、二の丸には居館を建造。さらに下の丸や三の丸を拡張し、城下町も整備した。水戸城は佐竹義宣によって近世城郭化したと考えられている。
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