「日本三大水城」の中津城 黒田官兵衛が築いた豊臣秀吉の戦略拠点?
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は大分県中津市の中津城です。日本三大水城の一つに数えられ、豊臣秀吉の軍師だった黒田孝高(官兵衛、如水)が築きました。豊臣秀吉による九州支配の戦略的拠点でもあったようです。
中津城は、豊臣秀吉の家臣として名をはせた黒田孝高が築いた城だ。1587(天正15)年に九州を平定した秀吉は、豊前(福岡県東部と大分県北西部)を二つに分け、2郡を毛利勝信(森吉成)、残りの6郡を孝高に与えた。これを受けて、孝高が新たに築き居城としたのが中津城だ。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの後に、黒田家は筑前(福岡県西部)に国替えとなる。代わって、中津城には豊前一国と豊後(大分県)の一部を拝領した細川忠興の三男・忠利が入った。1620(元和6)年に忠利が家督を相続すると、隠居した忠興が中津城に移っている。その後は1632(寛永9)年に小笠原長次が入り、1717(享保2)年に奥平昌成が入ると、明治維新まで奥平氏が中津城主を務めた。
中津川に面して築かれ、二重、三重の堀
中津城は、中津川を背に本丸を置き、その東側に二の丸、南側に三の丸を置く構造だ。ちょうど中津川に沿う西側を斜辺とする直角三角形のような形状になっている。幕末の中津城と城下町を描いた「中津城下絵図」を見ると、三の丸の南側に上級武家屋敷、二の丸の東側に町屋(町人地)が置かれ、それらを囲むように下級武士の組屋敷が、その外側に寺町が置かれていた。
二の丸と三の丸を囲む内堀のほか、東側は二重、南側は三重の堀がめぐっていた。外堀を囲んでいた土塁は「おかこい山」と呼ばれ、自性寺境内にその一部がよく残る。城下町の西南隅にあたり、土塁の高さは5.3メートルほどだ。
黒田時代の石垣は低く、細川時代は高く幅広
中津城は細川時代に大改変され、黒田時代の姿ははっきりとはわからない。しかし調査の成果などから、石垣の積み方などに違いはあるものの、ほぼ黒田時代の城を踏襲して拡張・改変したと考えられている。城下町の町割りも、黒田時代にある程度形成されていたらしい。細川時代に黒田時代の城下町を踏襲しながら整備・拡張し、奥平時代もそれを引き継いで城下町を完成させたようだ。
発掘調査から、黒田時代の石垣は現在より低く、細川時代に継ぎ足しされたとみられている。たとえば、解体修理をした本丸南側の石垣は、現在は高さ7メートルほどだが、築城時は高さ5.8メートルほどだったことが判明。数段階にわたり石垣が継ぎ足されていった過程も確認されている。黒田時代は石垣を低くして建物をたて、細川時代は高く幅の広い石垣へつくり変え、石垣の上に櫓を建てていたこともわかった。
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