野村友里さん「10周年。一つの区切り」
「eatrip」を主宰する料理人の野村友里さんと、現在カナダの島で暮らす歌手UAさんの往復書簡「暮らしの音」。今回は、一つの区切りを迎えた野村さんからのお便りです。
UAさんの手紙「『本当の自分って?』聞かれて言葉に詰まった」から続く
へい、うーこ
今年は最高の夏だったかな!? UAとしても、(本名の)歌織ちゃんとしても心身忙しかったかもだけど、充実の“充”だったのでは!!
私たちもそんな合間を縫って「逢瀬(おうせ) 」しましたね! 逢瀬はこういう時には使わない? でもいいのいいの。だって本当に限られた時間の中、わざわざ会いたくて会うという意味では、きっとそれに値する。
さて、うーこは今、歌手人生としては「25th→→→30th anniversary」として真っただ中の活動中だと思います。そして私は一つの区切り。
あの奇跡の場所、原宿のど真ん中でお花やさんと一緒にお店「restaurant eatrip」を構えて、今年の9月末でちょうど10周年となります。そして四季折々の木々に囲まれ、木漏れ日がさし、鳥のさえずりが聞こえ、小さな畑づくりまで挑戦できたこの場所とも、とうとうあと1年ちょっとでお別れとなることが決まりました。隣接して大きな商業施設ができるにあたっての、敷地内に暮らす大家さんの決断です。
そんなわけでここ最近はこの近辺の土地の歴史を知ろうと本を読んでいます。敷地内にある旧家をお借りしてお店にしているわけだけれども、大家さんも明治神宮ができて間もない頃に生まれ、 同じ場所に住んでいるという。なので明治神宮ができた頃、約100年前ぐらいの歴史から知るととても興味深い。
明治神宮は明治天皇が崩御なさった時に、100年先の世の中にも神宮の杜(もり)としてその存在が残っているようにと議論され、多種多様の木々が計画的に植えられた人工の森という事。戦前に明治神宮の鳥居の前を通る時はみんな一礼をして通っていたという事。湧き水や小川がこの辺りは豊富だった事。空襲の際は、表参道は焼けてしまった真っ黒な遺体の山であった事。
終戦後は、母からも聞いていたけど代々木公園はパスがないと入れないワシントンハイツというアメリカ軍の村で、家が立ち並び劇場やお菓子なども豊富に並ぶ売店があった事。そして目抜き通りは闇市が並んでいた事。(今のケヤキ並木もよくみると10本ほど大きな太めの木があるけれど、それらは戦争をくぐり抜けて生き残った木だそう)
戦争で負けたという事がどれだけ日本人の内面にも大きく影響を与えたかを目を閉じて想像してみる。そして目の前のビルや高級店の軒並みを眺めて人のエネルギーも凄(すご)く感じる。そして目をまた閉じて焼け野原だった頃を想像してみる。コロナ禍で人っこ一人いない原宿・表参道を歩いていた時、とても静寂な中で、心地よい風が通りを吹き抜けていったことに小さな驚きを覚えた。こんなに抜けがある道だったのだと。
私たちは10周年だけど、こうやって100年単位でみると森が生まれたりビルの森が生まれたり。本当にたゆまず変化している中のホンノ10年なのだと思う。この場所をお借りする時私たちは初めて銀行から借金をした。
身の丈にあっているのだろうか。こんな原宿の大通り交差点近くに一軒家を借りて、レストランとお花やさんでやっていけるのだろうか。
とても不安になった私たちは懇意にしている占星術の方を訪ねた。すると返事は“とても気の強い場所よ。ご存知大きな明治神宮も近くにあるという事は、それだけたくさんの人々の願いの気があるということ。なのでその土地に踏み入れた人が気持ちがよくなる幸せな時間が生まれる事を、謙虚に一生懸命やれば土地が味方してくれます”って言われた。それ以来10年間、常に頭の片隅に、その言葉がことあるごとにひょっこり出てくる。
この10年世の中もコロナだオリンピックだって騒がしく、いろいろと予期せぬこともあったけど、私の10年も濃かった。濃すぎて、まだ振り返るにもよく全貌(ぜんぼう)が見えないくらいの勢いだった。何せ40代でこんなにもいろいろあるとは誰も教えてくれなかったわ、って当然なのだけれども。
さて、話し始めるとまたとうとうと語り始めそうなのでまずはこの辺りで一つ宣伝と、一つうーこへの質問で締めたいと思います。
宣伝。仲間とつくった動画 〈豆腐小僧〉観てね!! 大きな情熱と勇気をもって小さな規模を大事にしている生産者は、未来へ繋がる日本の文化・景色を作る! を伝える動画です。
うーこへの質問。そんな訳で人間更新中だとすると、今うーこは自分がどの辺りにいると思う??
いつも愛を込めて
友里