ココリコ結成30年。友達から相方、そしてまた友達として向き合うコント
人気お笑いコンビ、ココリコ。芸人として過酷な「伝説」に挑み、大みそかの特番ではお尻をたたかれ続ける一方で、俳優、MC、コメンテーターなどさまざまなフィールドで活躍してきた。5月でコンビ結成30年を迎えるふたりは今、原点であるコントに改めて向き合っている。遠藤章造さん、田中直樹さんに聞いた、出会い、関係、コント、そして互いへの思い。
出会いは小学校。「野球うまいんやろうな」って
――お互いの第一印象を覚えていますか?
遠藤 小学校が同じやったんですけど、しゃべったことはなくて。ただ、僕らの住んでいた地域の強豪少年野球チームで田中さんはショートのレギュラーを張っていたんです。僕は弱小チームのショートやったんで、「きっとすごく野球がうまいんやろな」と思っていました。
田中 僕は「野球は大したことない子なんやろうな」と思っていました。そしたら遠藤さんは僕の100倍うまかった(笑)。
遠藤 仲良くなったのは中学校で同じクラスになってから。野球とか、見たテレビ番組の話なんかをしてましたね。田中さんも僕も前に出て目立つようなことをするタイプではなかったんですが、田中さんがぽつっと言ったことがツボにハマってよう笑った記憶があります。
田中 雰囲気とかは違う部分がいっぱいあったんだけど、笑いのツボはすごく合いましたね。
遠藤 その後、僕は香川県の高校に野球留学したのですが、大阪に戻ると「帰ってきたでー」と連絡して。携帯電話もメールもない時代だったけど、ずっと仲はよかったですね。卒業後はサラリーマンとして働いていましたが、何かやってみたいと、美術系の専門学校に通っていた田中さんをお笑いの世界に誘い、20歳のときふたりで上京しました。
「行けばなんとかなる」ノリで上京
――おふたりとも大阪出身なのに、芸人としてデビューしたのは東京だったんですね?
遠藤 もう20歳を過ぎていてスタートが遅く、大阪でお笑いをやったところで前に出ていけるタイプでもない。当てはなかったけど、東京に行けばなんとかなるんじゃん? みたいなノリでした。
田中 僕も東京への憧れがあったし、東京でお笑いできたらいいな、ぐらいの気持ちで。ただ、実際に東京に来てみたら時間の流れがものすごく早かった。お笑いにしても何にしても、思い切って飛び込んでみたら結果が出るんじゃないか、と。
遠藤 ふたりとも若かったんでしょうね。ホンマなんも考えてなかった。今考えると恐ろしい(笑)。上京してきた翌月に「吉本バッタモンクラブ」というイベントがあり、そのオーディションで合格しデビューしました。たまたま吉本興業の主催やったんで、そのまま事務所に入って。それが今から30年前の1992年でした。
――コンビ名の由来は?
田中 中学のとき、遠藤さんと一緒に手帳を拾ったんです。それに「喫茶ココリコで待ち合わせ」って書いてあって。
遠藤 落とした人に届けたら1万円くれはった。縁起がいいので使わせてもらうことにしました。
「これが好き」もがいて見つけた下積み生活
――しばらくは下積みの生活が続きます。どんな日々でしたか?
田中 めちゃくちゃ楽しかったですね。食えないしんどさとか仕事がない焦りとかはあったんやけど、でも、楽しかった。自分たちのお笑いを見てお客さんが笑ってくれる。最初は100点中10点ぐらいしかウケなかったのが、1年後には50点になり、さらにその1年後には70点になって……。自分たちが作ったものを喜んでくれる人が少しずつ増えていくとともに、僕らもすごく興奮したし幸せな気持ちにもなりました。そして、自分はこれが好きなんやな、こういうことをやっていきたいんやなと、もがきながらも見つけていった時期だった。ホンマに東京来てよかったなぁって思いましたね。一切売れてなかったけど(笑)。
遠藤 一緒に遊んでる先輩たちがテレビに出てる! とか、自分らのライブでもチケットが何百枚売れた! とか。僕らも、仲良くなった先輩方や仲間たちも、夢を持って東京に出てきて、その夢がちょっとずつ実現していった。お金はまったくなかったけど、僕もただただ楽しかったですね。
友達から「あんまりしゃべらない相方」へ
――「大阪の友達」から「東京で相方」に。お二人の関係性に変化はありましたか?
遠藤 遊びの延長みたいな感じでお笑い始めて、見よう見まねでネタを作って。正直、東京に出てきてすぐはどこか「ごっこ」気分やったんです。それが、先輩たちの姿を見るとみんなちゃんとしてはる。自分らもこのまま友達の関係のなぁなぁでやるのはよくないのかな?と。
田中 仕事が増えていくにつれ友達の感覚がなくなっていったというか……。「相方」「仕事のパートナー」という関係に変わっていかなきゃいけないと勝手に思い込んでいた時期もありました。
遠藤 コンビは相方とはあまりしゃべらない、そういうものなんやと。誰から言われたわけでもないのに、なんとなく周りの雰囲気を見て、僕らも自然とそうなっていきました。タクシーもコンビでは乗らず、コンビの片割れ同士で相乗りしたり(笑)。遊ぶ仲間もそんな感じで。毎日楽しいんやけど、でも、コンビとしてはなかなか結果が出ない。それが原因で田中さんとぶつかったこともありましたね。
給与明細25円から「いいとも!」で一変
――「売れた」と感じたのは?
田中 少しずつですがテレビに出させてもらえるようになってきて、25歳のとき、「笑っていいとも!」と「ガキの使いやあらへんで!」に毎週呼んでもらうようになりました。
遠藤 そのころには、コンビ名と顔がちょっとずつ知られるように。ただ、ある月の給与の振込額が25円。振込手数料の方が高いっていう(笑)。いまだにその給与明細は取ってあります。それを見ると今も奮い立つとかそういうんやないんですけど。25円じゃ奮い立ちませんから(笑)。仕事は増えてきたものの、相変わらずお金はまったくなかったな。
田中 会社に借金しようにも売れてない芸人には貸してくれない。それが「いいとも!」が決まった瞬間、会社から「借金してもいいよ」って。
遠藤 (笑)。
田中 「いいとも!」って、やっぱすごい番組なんやな〜って。
遠藤 その翌年から、深夜枠で「ココリコ黄金伝説」が始まったんです。
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二人だから、これまでやり遂げられたのだと思います。喜びは二倍に、苦しみは半分。まさにお二人のためにある言葉だと思いませんか?!
これからもご活躍をココリコ見守らせていただきます。