俳優も歌手も自分、二つあることが個性 原田知世さん
いま、あなたに会いたい――。&編集長が各界で活躍する話題の方を訪ねて、思いをじっくり掘り下げる「編集長インタビュー」。&w、&M、&Travelの3マガジン横断型インタビューの第2回は、俳優で歌手の原田知世さんです。原田さんとほぼ同世代で活動をいつも身近に感じていた星野学編集長が、原田さんがデビュー40周年を迎えたと聞いて、会いに行ってきました。
長かったような、短かったような40年
星野:デビュー40周年おめでとうございます。振り返ってみていかがですか。
原田:長かったような、短かったような……。デビューした10代の頃、最初の4年くらいはすごく長く感じました。年を重ねるごとに時が短く感じられるようになりましたが、あの頃は永遠のようでしたね。
星野:学業とお仕事を両立されたのでしたね。
原田:高校へ通いながら仕事を続けていました。時間的にほかのことができず、とにかく一生懸命でした。子供だったので、人生はすごく長い、という気持ちもありました。
今もせりふがぱっと浮かぶ デビュー作「時をかける少女」
星野:原田さんの出発点ともいえる映画が、「時をかける少女」(1983年)でした。
原田:デビュー作が代表作になり、本当に幸せな映画のスタートを切らせてもらったと思います。当時も多くの方が見て下さいましたが、いまだに毎年のようにどこかで放送されたり、何かの形で取り上げられたり、作品がアニメにもなり……。とても特別な作品で、奇跡のようなことだなと思います。私、自分の出演作をあまり見返すことはないのですが、40年近く前の映画なのに、「時をかける少女」だけは、次のせりふがぱっと浮かぶことが結構あって。脳の中に、とても鮮やかに残っているんでしょうね。
星野:撮影の時、思い出に残っている出来事はありますか。
原田:大林(宣彦)監督をはじめ、ロケ隊のみなさんと1カ月くらい一緒に過ごしたのですが、ほとんど寝ていなかったんです。監督が3時間睡眠で大丈夫な方だったこともあって。夜食、深夜食、朝食まで出て撮影が終わり、数時間寝て撮影がまた始まる。当時私は食が細かったのですが、せっかく温かいものを作ってくださるので、眠いけれど毎食一生懸命食べていたら、ラストカットの頃は顔が丸々としていました(笑)。
演技の何たるかはわからないまま、監督に言われるままにやったのですが、初めての主演で子供なりに責任を感じて、自分が元気でいることが大切なんだろうな、いつも笑顔でいたいな、と思っていました。
星野:映画で主演され、主題歌もご自分で歌う、という作品がいくつか続きましたね。
原田:当時は、女優がメインで主題歌も歌う、という感覚で、歌手という意識はほとんどありませんでした。テレビの歌番組に出演する時も、映画のプロモーションという感じで。歌謡界の華やかな世界に、ちょっと場違いな所に来たな、という感覚がずっとありました。
女優と切り離して自分から表現したい、それが音楽
星野:でも、原田さんは歌手としても40年間活動しておられます。音楽家であることと俳優であることとは、原田さんの中でどう両立しているのでしょうか。
原田:20代になって映画「私をスキーに連れてって」に出演しました。10代から20代へ年齢的には成長していく時期でしたが、いただく役は、これまでに演じた役と同じようなイメージが続きました。女優とは切り離して、音楽で何か自分から提案するような表現ができたらいいな、と思っていた頃に、(ミュージシャンの)鈴木慶一さんと出会って、今につながる音楽のベーシックなところを作っていただきました。そのあとスウェーデンの音楽プロデューサー、トーレ・ヨハンソンさんと出会い、そして生まれてきた曲をラジオ局がたくさん流して下さるようになったんです。
原田:その頃から、ライブをすると、自分より世代の若いお客さんと、同世代のお客さんが交ざるようになり、音楽だけを応援して下さる方と、私の活動を丸ごと応援して下さる方に分かれていきました。今は女優も歌手も自分であり、二つがあることが私の個性と思えるようになってきました。
星野:ミュージシャン原田知世のファンが生まれてきたんですね。しかも若い方が。
原田:下の世代のファンには、私が久しぶりにドラマに出ると、「え、女優もやっているんだ?」という方もいらっしゃるようです。それをきっかけに昔の曲を聴いたり映画を見たりして新鮮に感じることもあるようです。
星野:原田さんの歌い方や歌声、トーレ・ヨハンソンさんがプロデュースされたあたりから変わりましたね。
原田:トーレさんは私のことを知らず、アルバムを聴いてこの声ならいいよ、と引き受けて下さいました。イメージがないところから自由自在に私の声をアレンジしプロデュースするうちに、いろいろな化学反応が起きた気がします。