源流への道はどこ? 隠れた川をたどる・後編
旅行作家・下川裕治さんが東京都の暗渠(あんきょ)道を歩く旅の後編。今回は、スタートから苦戦した渋谷区の初台川と品川区の品川用水跡へ。ほかにも「欄干」スポットが登場します。【この旅は、「失われた川を歩く 東京『暗渠』散歩 改訂版」(本田創編著、実業之日本社)と付属地図、各種ネット情報などを参考に企画しました】
本連載「クリックディープ旅」(ほぼ毎週水曜更新)は、30年以上バックパッカースタイルで旅をする旅行作家の下川裕治さんと、相棒の写真家・阿部稔哉さんと中田浩資さん(交代制)による15枚の写真「旅のフォト物語」と動画でつづる旅エッセーです。
東京の暗渠道を歩く・後編
江戸という街は、現代の東京に近い水利構造を備えていた。水を供給する水道は、江戸では上水とか用水と呼ばれた。そして東京の下水になる排水路は川が担っていた。人の体にたとえると、上水や用水は動脈、川は静脈になる。
今回は前回の和泉川同様、川の支流の暗渠道から歩きはじめる。初台川だ。
そこから一転、用水の跡を歩く。江戸時代、急速に人口が増える江戸に水を供給する水路がつくられていく。神田上水や玉川上水が知られている。この水路は枝分かれし、生活用水や灌漑(かんがい)用水として使われていった。歩いたのは品川用水跡の一部。品川用水は暗渠化された部分もあるが、その多くは埋め立てられてしまっている。
短編動画
初台川の源流付近の動画を。暗渠道らしい風景が広がる。脇にあった細い水の流れが、源流感を醸し出してくれます。川を暗渠にするとき、橋の欄干などは無用なものになってしまう。そこでその欄干を使って石段をつくる。そこもみつけてしまいました。
今回の旅のデータ
暗渠や埋め立てられた上水や用水と、電車の路線の関係? ありそうで、なさそうで。ということで、基本的には歩くことになってしまうことが多い。川の暗渠道は構造的に低いところにつくられる。対して上水や用水は谷ではなく、高台につくられた水路だった。高低差を利用して、水を田畑などに流していくためだ。歩いてみるとすぐわかるが、上水や用水だった道は明るく、概して広い。店も多い。バス通りになっていることもある。
東京の暗渠道を歩く 「旅のフォト物語」
Scene01
和泉川の源流域を制覇した。その勢いで小田急線の代々木八幡駅にやってきた。このあたりで初台川が宇田川に流れ込んでいた。宇田川は渋谷川の支流のなかではもっとも大きな川だった。しかしいまとなってはすべて暗渠。とくに駅周辺は再開発の波に洗われ、暗渠道がなかなかみつからない。駅前でかなり悩んだ。
Scene02
方向を決め、あてずっぽうに進んでみるしかなかった。川が流れていたような地形を探りながら、山手通りを新宿方面に向かって歩いていく。「ん?」。側道があり、そこに不自然な角度で交わる道。合流する場所には車止め……。和泉川の暗渠道でもしばしばこういう車止めを目にしていた。この下を初台川が流れているかもしれない。
Scene03
まだ確証はなかった。川の暗渠らしき道を少し歩いてみた。ありました。初台橋の欄干。たしかにこの下を初台川は流れている。探りあてました。欄干は適度な高さなのか、近くの老人がそこに腰かけて世間話。山手通りに近いというのに、周囲はしんとしていた。ここだけ少し時間がさかのぼったような……。
Scene04
暗渠道を源流域に向かって進んでいく。和泉川に比べると初台川は小さな流れだったのか、その上の暗渠道の幅も狭い。しばらく進むとマンションのなかに。そこを迂回(うかい)してさらに進むと、石段。そこに「田端橋」と刻まれた石が。初台川の橋とは断定できないが、欄干の一部では? 暗渠道では欄干は邪魔もの。それを再利用したわけだ。
Scene05
さらに進む。代々木郵便局が近い。もう少しで甲州街道だ。坂も急になってきた。甲州街道は玉川上水が通っていた。ということは、源流域はその手前あたり。このへんだろうか……と家に挟まれた狭い暗渠道をのぞき込む。初台川は短い支流だった。30分ほどで制覇することができた。
Scene06
日を改め、品川用水の跡を歩くために武蔵小山駅へ。商店街はにぎわっていた。品川用水は玉川上水からのびていた用水。取水口はいまの武蔵野市あたりで、最後は立会川駅近く。24キロ以上あった。水は灌漑や工場用水として使われたという。すべてを歩くのはちょっと大変。そこで用水の最後の流れに沿って歩くことに。距離は5キロ弱。
Scene07
上水や用水は高台の尾根筋につくられた。そこから標高が低い水田や畑に水を流すためだった。その後、水道が整い、この一帯も宅地化が進み、用水への依存度は減少していく。用水は取水口をふさげば、ただの溝。埋め立てられ、その上はこの道になった。川の暗渠道に比べれば、幅が広く、高台だから空も広い。
Scene08
品川用水跡を歩いていくと、銭湯の看板をよく目にした。調べてみると、立会川駅周辺までの間に8軒。用水を利用すれば、銭湯を営むのも楽だったのだろう。しかし、このうち福井湯、万年湯の場所を訪ねると廃業。これだけの密度だから、しかたないか。でも松の湯は健在。時間が早く、営業時間前でしたが。
Scene09
幅の広い尾根筋の道が終わり、住宅街の緩い坂道をくだるようになる。そろそろ品川用水も終点に近づいてきたということだろうか……。と、進んでいくとまた銭湯。さらに進み、東海道新幹線を越えると、また道が広くなった。品川用水は高台からくだっても、しっかりとした流れを保っていたようだ。
Scene10
広い道を進むとニコンのビル。同行する阿部稔哉カメラマンはピンときたらしい。品川用水の水があったから? ニコンに連絡をとると、社史などを調べてくれた。「水利がよかったことはここに製作所をつくった理由としてたしかなんですが、品川用水との関係はわからなくて……」。江戸時代につくられた用水とカメラ。結びつけばよかったのだが。
Scene11
ニコンのビルの近くに古い石碑。脇には「元禄八年銘道標」という案内板が。そこには「品川用水に石橋を架けた大井村の寂証ら五十八名の念仏講中が、石橋の安泰と通行者の安全を願って建てたものと思われる」と記されていた。この前をたしかに品川用水は流れていた。いまの風景からの想像は難しい。
Scene12
緩やかな傾斜道をずんずんくだり、東海道線を越えて立会川駅に出た。品川用水はこのあたりまで流れてきていた。駅近くにはマスク姿の坂本龍馬像。「私たちはコロナに負けないぜよ!」。このあたりには浜川砲台があり、龍馬は若い頃、ここで働いていたといわれる。
Scene13
ここまできたのだから、品川用水の最後を見届けたい……という思いはある。しかしそれは、川の暗渠道の源流域を特定するより難しかった。用水だから周辺に水を流し、しだいに水量が減り、「なんとなく終わり」となっていたような……。地図を頼りに探し歩いた場所がここ。ここが終点と僕らが決めました。
Scene14
和泉川、初台川、品川用水を歩く前に、暗渠道や残ってしまった橋の欄干の下見に出ていた。そのひとつが竜閑橋。江戸時代、日本橋川と隅田川を結んだ人工の堀が竜閑川。完全に埋められてしまっているが、東京駅と神田駅の間に竜閑橋の欄干が保存されていた。竜閑川の跡を歩いてみようとしたが、林立するビルを見あげて諦めました。
Scene15
新小岩駅に近い巽(たつみ)橋跡も訪ねてみた。残された巽橋の欄干は、無用にもかかわらずかなり立派。ファンの間では有名だという。たしかにしっかりと残されている。ここは西井堀という用水に架かっていた橋。交差点の反対側は西井堀せせらぎパークという公園になっていた。用水跡はあまりに整備され、食指が動かなかった。
※歩いた日:6月22日、24日
【次号予告】クリックディープ旅で訪ねたまちの「いま」がはじまります。
2019年に連載された台湾の秘境温泉の旅が本になりました。
台湾の秘湯迷走旅(双葉文庫)
温泉大国の台湾。日本人観光客にも人気が高い有名温泉のほか、地元の人でにぎわうローカル温泉、河原の野渓温泉、冷泉など種類も豊か。さらに超のつくような秘湯が谷底や山奥に隠れるようにある。著者は、水先案内人である台湾在住の温泉通と、日本から同行したカメラマンとともに、車で超秘湯をめざすことに。ところがそれは想像以上に過酷な温泉旅だった……。台湾の秘湯を巡る男三人の迷走旅、果たしてどうなるのか。体験紀行とともに、温泉案内「台湾百迷湯」収録。