徳川時代の到来を示す篠山城 明智光秀の城・番外編(2) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
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徳川時代の到来を示す篠山城 明智光秀の城・番外編(2)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は兵庫県丹波篠山(ささやま)市の篠山城です。明智光秀が丹波を攻略した際の中心地だった八上城から、江戸時代に新たな中心地となった城。非常に堅牢な造りだった理由とは……。
(トップ写真は篠山城二の丸北西隅の石垣。隅にはそれぞれ二重櫓〈やぐら〉が建っていた)

【動画】篠山城を歩く

「大坂包囲網」の一端として天下普請

「篠山」の地名は、篠山城が築かれた「笹山」が由来という。篠山盆地の中央に位置する湿地帯に囲まれた独立丘陵で、周囲に笹が繁っていた上、信仰の対象とされる山(聖々山)だった。江戸時代初期に描かれた絵図には「丹波笹山城之絵図」とあり、江戸時代には「篠山城」とも「笹山城」とも呼ばれていたらしい。

篠山城は1609(慶長14)年、徳川家康の命令により「天下普請」によって築かれた城だ。天下普請とは、全国の諸大名が幕命で請け負う築城工事のこと。大名が自分の領地に自身の城を築くのとは異なる、江戸幕府が行う国家プロジェクトだ。姫路城主の池田輝政が普請総奉行として指揮を執り、縄張(設計)は築城名人として名高い藤堂高虎が担当。浅野幸長、加藤嘉明、福島正則など丹波以西の15カ国20人の外様大名、延べ8万人が駆り出され、1年足らずの突貫工事で完成した。

徳川時代の到来を示す篠山城 明智光秀の城・番外編(2)

二重枡形の中間にある、中門跡の石垣

天下普請でスピーディーに築かれたのは、1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後の情勢が大きく関係する。天下普請は幕府による雇用ではなく、築城工事にかかる人件費や滞在費などはすべて大名持ちだ。つまり、江戸幕府にとっては豊臣恩顧の西国の大名の財力を削ぐうってつけの大名統制策だった。

また、関ケ原の戦いに勝利した家康は、豊臣秀頼のいる大坂城を取り囲むように、主要街道沿いの城を新築・改築し、城主を取り込む「大坂包囲網」を構築していたと考えられている。山陰道が通る篠山城も「大坂包囲網」のひとつとみられるのだ。

<明智光秀の丹波攻略のクライマックス 八上城(1)>で触れたように、明智光秀が丹波を攻略した頃、この地の中心地は八上城だった。1608(慶長13)年にこの地を領した松平康重もはじめは八上城に入ったが、篠山城が完成すると篠山城に移り、八上城は廃城になっている。以後、篠山城は松平氏3家8代と青山氏6代と、いずれも徳川譜代の有力大名が明治維新まで城主を務めた。

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天下普請の城に多い、諸大名の所有を示す「刻印石」が多く残る

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正面の山が八上城

シンプルながら効率よい防御性

篠山城は、シンプルながら効率のよい防御性をかなえた、無駄のない設計だ。本丸と二の丸を内堀で囲み、外側を三の丸、その外側を外堀で囲む。一辺400メートルほどの正方形で、規模もさほど広くない。しかし、本丸と二の丸は高い石垣で囲まれた上に多聞櫓が鉄壁のように立ちはだかり、二の丸の二つの虎口は、南側が枡形(ますがた)虎口、大手(正面)にあたる北側はさらに厳重な二重枡形虎口になっていた。外堀の幅は約45メートルと広く、なかなか近づけない工夫が感じられる。

徳川時代の到来を示す篠山城 明智光秀の城・番外編(2)

幅の広い外堀

大きな特徴であり見どころなのが、外堀の外側に設けられた三つの馬出(うまだし)だ。馬出とは虎口の前面に離れ小島のように置かれたスペースのことで、防御拠点にも攻撃拠点にもなる。篠山城では外堀を挟み、南門の外側に南馬出、大手門の外側に大手馬出、東門の外側に東馬出が設けられていた。南馬出と東馬出がよく残っており、東馬出は馬出を囲む堀も残存している。

徳川時代の到来を示す篠山城 明智光秀の城・番外編(2)

南馬出

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東馬出

藤堂高虎による「無駄のない縄張」の典型

こうした無駄のない設計は、藤堂高虎が設計した徳川幕府系の城の特徴といえる。加藤清正が築いた熊本城などの織田・豊臣系の城は、徹底抗戦を意識した複雑な設計が特徴だ。近づくことも虎口を突破することもできないほどの防衛力を誇りながら、城内でもくまなく側面攻撃できるようにしている。これに対して、名古屋城など江戸時代に築かれた徳川系の城は、城の外側をがっちり固め、虎口付近を強化し、多聞櫓で鉄壁をつくる。そもそも敵を近づけず、無駄を省いて城内の空間を有効活用する意識が感じ取れる。

篠山城は、そのもっともわかりやすい典型といえるだろう。単純な正方形の城に見えて、決して防御力が低いわけではない。さすがは、多くの徳川幕府の城を手がけた藤堂高虎の設計とうならされる。1837(天保8)年に書かれた「丹波国笹山城石垣損所絵図」を見ると、三の丸は土塁で囲まれ、その上には側面攻撃を可能にする、屈曲した「屏風折れ土塀」が描かれている。コンパクトでシンプルながら、実戦仕様の城といえそうだ。

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石垣の下部に設けられた犬走も藤堂高虎が築いた今治城と共通する

本丸には天守台があるが、天守は建てられなかった。天守は敵の標的にもなるため無用、とする家康の方針だったとも考えられている。代わりに、天守台の南東隅には隅櫓が建っていた。本丸には天守台以外の3カ所にも隅櫓が建てられ、それらが多聞櫓でつながれていた。天守台は東西約19メートル×南北約20メートル、石垣は城内でもっとも高く、約17メートルに及ぶ。

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南東側から見た天守台

火災で焼失した大書院を復元

二の丸には、篠山藩の公式行事に使用された大書院が建造された。明治維新後も取り壊しを免れながらも、1944(昭和19)年に火災により焼失。2000(平成12)年に古絵図や古写真、発掘調査の成果などをもとに総工費12億円をかけて復元され、一般公開されている。床面積は739.33平方メートルと広大で、北側正面に唐破風(からはふ)付きの車寄(玄関)がある。大書院の南側には二の丸御殿があり、現在は絵図などをもとに平面表示されている。御殿群の周囲には三重櫓1棟、二重櫓が5棟あり、それらをつなぐように多聞櫓と城門が置かれていた。

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復元された大書院。二の丸御殿跡は手前の地面に平面表示されている

(この項おわり。次回は3月1日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■篠山城大書院
http://www.withsasayama.jp/REKIBUN/osyoin_top.htm(一般社団法人 ウイズささやま)

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