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ティム・バーナーズ=リーのオープンレターを起点に改めて考えるインターネットの統治

2024.03.26

Updated by yomoyomo on March 26, 2024, 15:00 pm JST

1989年3月12日は、ティム・バーナーズ=リーが、当時彼が勤務していた欧州原子核研究機構でハイパーテキストを利用する情報管理システムの提案を行った日であり、「ワールド・ワイド・ウェブの誕生日」とされます。ティム・バーナーズ=リーは、この3月12日に2017年2018年2019年と、ウェブの現状を憂い、ユーザーに行動を促す檄文を公開してきました。

そして、今年2024年の3月12日、前回から5年ぶりとなる「ウェブの35回目の誕生日を祝う:オープンレター」が公開されました。これまでと同様、なりゆきで日本語訳を公開した手前、まずこれを取り上げたいと思います。

ティム・バーナーズ=リーは、ウェブを貫く基盤として、協力(collaboration)、思いやり(compassion)、創造力(creativity)という三つのCをまず挙げます。つまり、ウェブは人間性に力を与えるツールを意図したものでした。誕生から最初の10年はその役割を果たしたが、最近の10年では、ウェブはむしろそうした価値を損なっているというのが彼の見立てです。

具体的に今回彼が強調するのは、彼の当初の意図である非中央集権の精神に反するプラットフォーム企業への権力の集中、そして人々の時間とデータを搾取する個人データ市場の問題です。人間性に力を与え、公益のためのツールとしてのウェブを取り戻すにはどうしたら良いのでしょうか。

未来は、現行のシステムを改革し、人間性の利益に純粋に貢献する新しいシステムを作り出す我々の力量にかかっている。これを成し遂げるには、協力を促し、多様な選択肢が創造力を刺激する市場環境を作り出し、そして偏向的なコンテンツから、共感と理解を育む多様な意見や視点によって形作られる環境にシフトすべく、我々はデータのサイロを解体しなければならない。

ティム・バーナーズ=リーは、それにつながる動きをいくつか挙げますが、なんといっても一押しは、彼自身が主導する、非中央集権型で個人がデータのコントロールを回復することを目指すプロジェクトSolidです……が、個人的にはここに苦しさを感じます。

脱中央集権、個人ユーザーがデータコントロールの決定権を握るといったキーワードだけ取り上げれば、実はティム・バーナーズ=リーの志向性は、いわゆるWeb3スタートアップが掲げるお題目と重なります。ただ、ティム・バーナーズ=リー自身は、以前よりブロックチェーンを基盤とするインターネットに懐疑的で、「Web3は全くウェブではない」とにべもなく、そうした勢力との連携は期待できません。

個人的に彼の認識は妥当と思いますが、一方で2016年に立ち上げられたSolidが、現在まで大成功とは言えない状況が続いているのも確かです。

実際、今回のティム・バーナーズ=リーの文章を取り上げた日本語メディアは、ZDNET Japanなどごく少数だったりします。それが現在の彼に対する期待を物語っていると書くと怒られるでしょうか。思い出すのは、2013年に非業の死を遂げたアーロン・スワーツが、その前年に「スタートアップの創業者は何が欲しいのか?」という文章で書いていた評言です。

重要性は影響力とは異なる。ティム・バーナーズ=リー(ウェブの発明者)は世界に多大な影響を持っていたが、現在は彼は特には重要ではない。彼は昔、セマンティック・ウェブこそが次の目玉だと判断したが、彼が現実にそのためにできることは事実上ほとんどなかったので、重要視する人は少なかった。

ウェブの発明者としてのティム・バーナーズ=リーは、人類に多大な貢献をした偉人と称えられてしかるべきです。しかし、だから以後もずっと「重要」であり続けるわけではありません。実際、ウェブはセマンティック・ウェブの方向には進まず、それに近い役割を果たしたのはWeb 2.0のフォークソノミーでした(これもとうの昔に死語ですが)。やはりSolidに関しても、上に挙げたその理念を不完全な形であれ別のプロジェクトが実現し、それがWeb3の代表的なサービスとなる未来の方がありそうです。

そうした意味で、Web3界隈が実現している価値について、クリス・ディクソンの今年出た新刊『Read Write Own』を読めば分かるのではないかと期待したわけですが、Web3批判の急先鋒ブログ「Web3 is Going Just Great」の作者モリー・ホワイトによるやはり批判的な書評が、基本的には妥当に思えます。

モリー・ホワイトは、(ディクソンがジェネラル・パートナーを務める)大手ベンチャーキャピタルa16zが投資するスタートアップを中心に取り上げるポジショントークや、ブロックチェーンで絶対的なルールを設定できるという彼の言説の自己矛盾を批判します。個人的にはそのあたりはともかく、こんな便利でこんな価値のある(投機的でない)サービスがこんな多くに使われているぞ! という実例を示してくれればそれで良いと思っていました。しかし、それが乏しいのはなんとも苦しい。ブロックチェーン技術の批判者を説得するものではなく、既にそれを信じている人を対象とした信者本、というホワイトのまとめも致し方なしでしょう。

なお、『Read Write Own』は権威あるNew York Timesのベストセラーリスト(ノンフィクション部門)にランクインしましたが、それはa16zやそれとつながりのある企業が本を大量注文して、その従業員やX上で一般の人に(1400冊も!)配ったからというカラクリを暴露されるという、いささかバツの悪い後日談も付け加えておきます。

さて、さきほどティム・バーナーズ=リーについて、もう彼は「重要」ではないという見方を紹介しました。しかし、だから彼の主張を無下に扱ってよいとことにはなりません。事実、彼の提言自体は妥当に思えますし、特に重要なのは、今回の文章で彼が示している以下の部分です。

5年前にウェブが30歳を迎えたとき、私は一部の企業の私利私欲に支配されたウェブによって引き起こされた機能不全が、ウェブの価値を損ない、機能停止と損失につながっていると訴えた。それから5年経ってウェブの35回目の誕生日を迎える今、AIの急速な発展がこれらの懸念を悪化させており、ウェブにおける問題は孤立したものでなく、むしろ新たなテクノロジーと深く結びついていることを証明している。

ウェブの問題が孤立したものではなく、新興のテクノロジーと深く結びついている(が、ガバナンスがそれに追いついていない)という視座ですが、問題のスコープをもう少し広げ、インターネット全体のガバナンスを考える上で、少し前にNew Yorkerで読んだ「インターネットは統治可能か?」が面白かったので、最後にこれを紹介したいと思います。

この文章は、1996年に米議会を通過し、ビル・クリントン大統領が署名した通信品位法への抗議として、電子フロンティア財団の共同創始者のジョン・ペリー・バーロウが「サイバースペース独立宣言」を公開するところから始まります。

かつてブルース・シュナイアーは「サイバースペース独立宣言」について「勇ましい言葉だが、未熟」と断じましたが、今や「サイバースペース独立宣言」は、誤情報やら分極化やらプライバシーや10代のメンタルヘルスへの悪影響といった、現在のインターネットで散見される問題が蔓延する素地となったテクノユートピアニズムの典型例として非難されることも多々あります。

事実、ジョン・ペリー・バーロウが力んだほどには、通信品位法はインターネットの自由を脅かしませんでしたし、その後意外な展開を迎えます。たまたま今読んでいるマーガレット・オメーラ『The CODE シリコンバレー全史』から引用します。

このため、通信品位法は最終的に大きな影響を与えた――だがそれはエクソン上院議員やキリスト教連合が想像していたような影響ではなかった。最高裁判決が、第三者がアップロードしたコンテンツに対するウェブプラットフォームの責任を免除したことは、ドットコム時代のハイテク企業にとって大きな勝利であっただけでなく、やがて登場する巨大ソーシャルメディア・プラットフォームにとっても大きな勝利となったのである。(p.439)

米最高裁判所が1997年に通信品位法を違憲と判断したため、大幅に改正されることとなった通信品位法230条がそれです。これはユーザーが投稿したコンテンツに対するプラットフォーム企業の免責条項を定めるもので、「インターネットを生み出した26ワード」とも言われます。

ティム・バーナーズ=リーの文章でも、最近の10年ではウェブは価値を損なってしまっているという認識が示されていましたが、特にこの10年は、世界中の各国政府がインターネットへの規制介入を強めています。現在インターネットが重要な岐路にあるという感覚は多くの論者で共有されており、例えば、米連邦通信委員会の元委員長であるトム・ウィーラーの新刊『Techlash』は、ビッグテックによる寡占を米国で資本主義が急速に発展した19世紀の「金ぴか時代」になぞらえており、その時と同様に反トラスト法などの政府による介入の必要性、企業革新と公共利益とのバランスの必要性を説くものです。

しかし、コントロールの問題は常にインターネットを取り巻いていた、とこの記事の著者アカッシュ・カプールは主張します。非中央主権的なアーキテクチャこそがそのアイデンティティの鍵だったわけですが、このアーキテクチャの起源は実は曖昧だったりします(60年代のテクノクラシーとヒッピーのアナーキズムの融合とか、核攻撃に耐えうるネットワーク設計が由来と安易に断言すると、すかさずインターネットのベテランから異議が唱えられる)。ウェブの父であるティム・バーナーズ=リーは、著書『Webの創成』において、ネットワークの原則を彼が属するユニテリアン・ユニバーサリスト教会の原則にたとえ、個人主義、ピアツーピアの関係、非中央集権型システムを可能にする哲学を挙げています。

さらにカプールは、完全に非中央集権的なネットワークという概念は、ずっと神話のようなものだったと踏み込みます。DNSシステムを管理してきたICANNは2016年まで米商務省の権限下にありましたし、ネットワーク中立性という言葉の発明者であるティム・ウーは、ジャック・ゴールドスミスとの共著『Who Controls the Internet?』において、国境なきサイバーコミュニティの自治という夢は死んでおり、政府はサイバースペースで法律を執行できる手段を(不完全ながら)数多く持っていることを15年以上前に冷徹に論じていました。

そしてカプールは、ジョン・ペリー・バーロウら初期のインターネット活動家は、政府による介入のリスクばかりに集中したが、民間部門、つまりは営利企業による支配によってもたらされる脅威を予測し損ねていたと指摘します。企業がインターネットを支配し始めると、企業こそが事実上の政府となった話は、かつてブルース・シュナイアーも語っていましたが、今ではむしろインターネット活動家が、ヤニス・バルファキスが「テクノ封建主義」と呼ぶところの、寡占企業によるインターネット支配に対する政府の介入を求める傾向にあります。

カプールはまた、生成AIの劇的な台頭が政府の介入を求める呼びかけを加速させており、むしろ業界内からこの呼びかけが多くなされていることを指摘していますが、これは上で引用したティム・バーナーズ=リーの「AIの急速な発展がウェブへの懸念を悪化させており、ウェブにおける問題は孤立したものでなく、むしろ新たなテクノロジーと深く結びついている」という主張につながるものがあります。

かくして69もの国で何千ものAI政策の政策イニシアチブが起草され、米国でもおよそ30の州でデジタルプライバシー法案が議論されているわけですが、インターネットを非民営化、あるいは協同組合や地方自治体で管理することで「人民のためのインターネット」の実現を求めるベン・ターノフ『Internet for the People』などの主張は2020年代的で、かつてなら一顧だにされなかったかもしれません。

各国政府による規制介入がされるということは、米国(企業)が設定したインターネットの「初期設定」が適用されなくなるということでもあります。『ブリュッセル効果 EUの覇権戦略』の邦訳があるアニュ・ブラッドフォードは、新刊『Digital Empires』において、インターネットに関する法律を、新たな多極世界でのグローバルパワーを巡る広範な闘争の一部と見ており、米国の「市場主導モデル」、中国の「国家主導モデル」、そして欧州の「権利主導モデル」(米国と中国の中間を模索)の大きく三つに分類しています。

果たして日本はこのどれに近いか? という疑問も浮かびますが、インターネット規制に反対していた人たちが、政府主導の規制により「スプリンターネット(Splinternet)」と呼ばれるインターネットの分断が進む危険性を警告してきたことも忘れてはいけません。インターネットのガバナンスが、不安定な地政学的状況とますます絡み合う昨今、その危険は現実のものといえます。

実際、2019年に中国企業のファーウェイが中心となり国際電気通信連合(ITU)に提案された、インターネットの再発明である「New IP」という技術仕様が物議をかもしました。現行のインターネットと相互接続性がなく、またネットワークからユーザーをブロックできる「トップダウン」性などその政治性は明らかでした。

IETFから全面的に否定する声明が出されて「New IP」は頓挫したように見えますが、その提案がロシア、イラン、サウジアラビアなどの国々に支持されていたこと、また2022年のITUの事務局長選挙で、ファーウェイで働いていたロシアの高官ラシド・イスマイロフが勝っていたら、この問題が再燃していた可能性があったのは注意すべきです。

ワタシ自身、「New IP」なんてとんでもない話で、斥けられて当然と思っていました。結局のところ、インターネットのアーキテクチャは民主主義という価値観を反映しており、そしてそれを良いことと考える「ネット原住民」的価値観を自分が当然のものと考えていたのを認めざるをえません。しかし、一田和樹氏などがたびたび指摘するように、世界的に民主主義が後退し続けている現状を考えれば、自分のそうした価値観がマジョリティだと思い込むことも危険です。

果たしてインターネットの未来は、ビッグテックによる寡頭政治の遊び場か、欧州の規制当局が想定するような、大人しくも革新的とはいえないデジタル公益事業か、あるいは習近平が望むように、飽くまで国家が権威主義的に設定する制限の範囲内でしか民間企業の繁栄は許されないのか? アカッシュ・カプールの記事は、以下のように終わります。

その答えの少なくとも一部は、インターネットがどこでどのように利用されるかで変わる。バーロウが「サイバースペース独立宣言」を書いた1996年当時、インターネットユーザーは世界中に8000万人いたが、その80%は北米と欧州に住んでいた。今日、インターネットの利用者は50億人を超え、そのおよそ3分の2がグローバルサウスに属する国々の人である。インドと中国で現在、世界のモバイルデータ・トラフィックの約半分を占めており、ユーザー人口がもっとも急増しているのはアフリカだ。インターネットはまだ発展途上にある。しかし、その未来は、これまでとまったく異なる場所で書かれると考えるのが道理だ。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

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