自分のこだわりよりも住民の声と期待に応える。離島の伝統工芸「芭蕉布」をヒントに基幹産業「バナナファイバー」を生み出した一般社団法人宝島・竹内功氏の移住者ライフ 日本を変える創生する未来「人」その21 – WirelessWire News

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自分のこだわりよりも住民の声と期待に応える。離島の伝統工芸「芭蕉布」をヒントに基幹産業「バナナファイバー」を生み出した一般社団法人宝島・竹内功氏の移住者ライフ 日本を変える創生する未来「人」その21

2021.03.31

Updated by SAGOJO on March 31, 2021, 12:05 pm JST

鹿児島県屋久島と奄美大島の間にある七つの有人島から成る日本一長い村「十島村」。日本一長いとはいえ、全ての島の人口を合わせて700人に満たない小さな村だ。日本一長いのに人口が少なく、しかも七つの島に分散している。それを知るだけで、十島村の置かれている状況がいかに厳しいか想像できるだろう。

しかし、村による手厚い保障や先輩移住者のサポートによって、2011年以降に移住者は順調に増加。2015年の国勢調査によると、人口増加率が全国の地方自治体で第5位、村としては第1位になるなど目に見える成果を上げている。

その中心的な人物が、2011年に十島村にある「宝島」に移住した竹内功氏だ。農業、漁業、加工業、さらには村に1艇しかない高速船の管理にまで手を広げて活躍している。そればかりでなく、島の新たな基幹産業を生み出し、後輩移住者の定着にも一役買っているという。村の「成功」の影に、竹内氏の存在は欠かせない。そんな竹内氏に、地方移住というものとそこでの生活、その暮らしを継続する原動力について話を聞いた。竹内氏の姿勢は、これから地方移住を考えている人、受け入れ側の住民の双方にとって参考になるはずだ。

「移住にこだわっていなかったから、移住できた」。住民と交流し信頼を得ることから始まる移住生活

「移住にこだわっていたわけではないね」

開口一番、竹内氏は飄々とした様子でこう語った。高校卒業後、埼玉県から東京に写り貿易代理店や飲食業などを転々とし、落ち着いた先は建設業だった。しかし、同じような毎日から抜け出したいと考えていた時、妻の寿恵さんが見付けたのが「東京仕事百貨(現・日本仕事百貨)」(創生する未来の記事はこちら)に掲載されていた移住者募集の記事だったという。

2組だけの募集枠に対して応募は20組にも上ったが、竹内夫妻は見事に書類審査を通過し、晴れて宝島へ下見に行くことになった。2011年といえば、地域おこし協力隊制度が開始されたばかりで、地方移住ブームは始まってすらいない。そんな時期に、当時人口120名ほどだった離島に移住するには、それなりの勇気が必要だったはずだ。それにもかかわらず、竹内氏は宝島を訪れた最初の数時間で移住を決心したという。

「移住そのものにこだわっていなかったから、逆にフットワークは軽かった」。

地方移住に関する成功談や失敗談が巷にあふれる今、移住先を決める前に考え過ぎてしまい、結局、二の足を踏む人も多いのではないだろうか。であるとすれば、そうした移住予備軍に対しては、自治体がもっと気軽な移住を提案することも、これからは必要なのかもしれない。

▲宝島に移住した竹内功氏。宝島で授かった娘とともに

移住してからの生活はどうだったのだろうか。竹内氏は、十島村独自の移住支援事業利用者となったため、移住後3年間(後に5年間に延長)の収入が保障されていた。条件は、審査時に提出した計画を履行すること。そのため、計画書に記した農業や特産品開発、ボランティアの受け入れ、ゲストハウスなどの事業を始める必要があった。

これは、当面の収入は村が保障してくれるため、焦って事業に取り掛かる必要はないということでもあった。そもそも、宝島のように人口の少ない島で、他所者がいきなり手広く、かつ誰もやったことのない事業を始めることは容易ではないだろう。

そこで、まず力を入れたのが住民との交流だった。日常のあいさつは当然のこと、集落の飲み会には必ず顔を出し、立ち話に3時間かけることもたびたびあった。そうして少しずつ住民の信頼を得ていったが、それでも新しいことをやろうとすれば心ない言葉をかけられることが多かった。その度に住民の話を素直に受け入れて、軌道修正していったという。

「選ばなければ仕事はある」。住民の期待に素直な気持ちで応えていけば後継者不足は解決する

その甲斐あって、今では七つ以上の仕事を掛け持ちするまでになり、十島村への移住者はもちろん、役場の職員も竹内氏に相談するほど信頼されるようになった。とはいえ、住民との対話は移住者にとって当たり前に過ぎる心得でもある。それだけで誰からも信頼されるようになるとは思えない。

竹内氏は繰り返し「宝島にいたいだけだったから、物事に対してこだわりがなかったのが良かった」と語るが、それ以上の「何か」があるはずだ。

▲農業だけでなく小型漁船を操り漁に出かけることもある

「島には後継者がいないから、後継者を求められる。ただそれに応えているだけ。地方には、選ばなければ仕事がいっぱいあるんだから」

それが答えだった。つまり、移住前にも後にも自分本位な夢を描くことはせず、地元の声にひたすら耳を傾けていたのだ。

地方移住を成功させるためには、確固とした信念が必要だと思いがちではないだろうか。もちろん、信念がなければ何も始められないだろう。しかし、住民の声を一切受け付けないような信念は時に障害となる。一見すると芯が無いように見えるかもしれないが、宝島にいたいという軸がブレることは一度もなかった。それが結果的に住民との潤滑剤になったのだ。

トライ&エラーの連続。日本初のプロダクト「バナナファイバー」を島の基幹産業に

竹内氏が関わったものでひときわ目を引くのが、同氏が中心となって設立した「一般社団法人宝島」によるバナナファイバー・プロジェクトだ。

これは、宝島のバナナ繊維で作った紡績糸(バナナファイバー)で、さまざまな商品を生み出すというものだ。現在、日本でバナナファイバーを生産できるのは宝島だけ。珍しいだけでなく、天然素材ならではの肌触りの良さや涼感を感じられるという。そのため、宝島の基幹産業となり得る大きな可能性を秘めているのだ。

▲宝島で生産されている島バナナ

実は、バナナ繊維で作られるものとしては「芭蕉布」という布が古くからある。着物や座布団、蚊帳などに利用され、現在でも沖縄や奄美群島のごく一部で継承されているが、機械をまったく使わない伝統工芸品のため高価だ。一方、一般社団法人宝島は、伝統工芸の復活ではなく、あくまでも「産業化」を考えた。

伝統工芸として芭蕉布を復活させることを目指すと、特殊技能を持つ者を育てることになるため、ごく限られた人しか関われない。それでは将来の移住者のための持続的な産業として成立しないと考えたからだ。そのために最適だと考えたのが、小物から衣服まで作れる「紡績糸」として量産化することだった。

一見、簡単そうだが、実はバナナ繊維だけでは紡績糸は作れないのだ。バナナファイバーを作るためには、それなりの工夫があった。

糸口は、宝島に現存する芭蕉布の着物だった。着物を電子顕微鏡で解析したところ、バナナ繊維だけでなく綿糸も交ざっていたことが判明したのだ。竹内氏らは、そこに着目した。バナナ繊維も綿糸と交ぜれば紡績糸にできる。さらに、バナナ繊維単体で織られた芭蕉布よりも肌触りが柔らかくなることも分かった。そして何より、宝島の伝統的な芭蕉布の要素を継承できることに魅力を感じたという。

▲宝島で発見された芭蕉布の着物

しかし、その時点でバナナ繊維で作られた紡績糸は日本に存在しなかった。量産化にこぎつけるまでには、数知れない困難や障壁と向き合うことになった。

最初に躓いたのは、バナナから繊維を取り出す作業だ。最初は簡単だと高を括っていたものの、実際にやると大人1人が一日中作業して、たった30gの繊維しか取れなかった。これでは試験的に紡績糸を作ることすらままならない。

そこで、協力を依頼したのが学生ボランティアだった。竹内氏は、離島や農山漁村で住み込み型ボランティアを実施している「村おこしNPO法人ECOFF」と移住当初から協働しており、宝島でさまざまなプロジェクトを行っていた。そこで今回も協力依頼し、総勢50名近い学生と2カ月をかけ、ようやく5kgのバナナ繊維を取り出した。

▲学生ボランティアがいなかったらバナナファイバーは完成しなかった

だが、それだけの人員と時間を投じていては量産化は夢のまた夢。繊維を抽出できる機械が必要だ。栃木県に天然麻用の機械があったので、はるばる宝島からバナナの木を丸ごと1本運んで試したこともあったが、結果は大失敗に終わったという。

最終的には、機械を探す範囲を海外にも広げた。求めたものはインドにあった。3カ月後に宝島に届いたその機械を試したところ、今度は予想を裏切らない大成功を収めた。総勢50名を超える人員で2カ月かかった量を「わずか半日で取り出すことができた」と竹内氏は興奮気味に振り返る。文字通りの産業革命が起こったのだ。

伝統工芸の産業化の鍵は、アレンジにあり

ひと安心したのも束の間、次に立ちはだかったのは、アルカリ製錬(紡績の前に繊維に付着したゴミを除去する工程)と、紡績を請け負ってくれる会社が見付からないという問題だった。

それでもめげずに、それらしき会社を探し出しては問い合わせ、そこから他の会社を紹介してもらうという作業を数カ月にわたって続けた。その結果、国内で初めてバナナファイバーの量産化に成功したのである。

▲バナナファイバーを用いて作られた商品

数多くの困難を乗り越えて誕生したバナナファイバーは、宝島の伝統的な芭蕉布をベースとしながらも、紡績糸として量産化することで、イヤリングやブローチのようなアクセサリーから帽子まで幅広い商品に使えるものになった。芭蕉布とは比べものにならないほどの汎用性のある製品として現代に蘇ったのだ。

伝統工芸を復活させたのではなく、新たな産業として発展させられるようにアレンジしたことで、宝島の未来を織りなす存在に仕立て上げたことは見事としか言いようがない。

もし、伝統的な作り方や芭蕉布そのものにこだわっていたら、宝島にあった芭蕉布の文化は消えていただろう。その時の状況に応じた柔軟な判断、つまり竹内氏の「良い意味でのこだわりのなさ」が、宝島の芭蕉布文化の復活につながったのだ。

どんな地域にも独自の文化は存在するものだ。しかし、そもそもそれらは産業化の波に乗れずに廃れてしまったのだから、単純に復活させるだけでは産業にはできない。バナナファイバーの事例は、固定観念を捨てて考えることの重要性を教えてくれる。

大変なことも楽勝だと思わせる。自分の背中を見せることが移住者を定着させるコツ

実は、十島村は全国に先駆けて移住者の収入を保障したことで、人口減から人口増への転換に成功した村の一つだが、先見性はそれだけではない。

先輩移住者による後輩移住者へのサポートの重要性にも、いち早く気付いていたのだ。十島村では、先輩移住者が後輩移住者を支援するためのマイスター制度を設けている。これは単なる称号ではなく対価が支払われるため、マイスター側にとってもサポートされる側にとってもWin-Winの制度だ。

当然、竹内氏もマイスターの1人。具体的にどのような支援を行っているのか聞くと「住民に怒られても気にしないこと」という意外な答えが返ってきた。いったいどういうことだろうか。

竹内氏によると、都会の住民と十島村の住民とでは、話し方も考え方もまるで違う。都会では物腰柔らかに話す人が多い一方、十島村の住民はぶっきらぼうに話しがちだし、新しいことをしようとすれば、どんなに仲の良い住民からでも頭ごなしに否定される。「それが勘違いを引き起こし、引っ込み思案になってしまう」(竹内氏)。

▲移住当初は見向きもされなかった島ラッキョウだが、今では十島村を代表する農産物になっている

竹内氏が移住したばかりの頃、象徴的な出来事があった。同氏が現在抱える仕事の一つに島ラッキョウの栽培がある。しかし、移住当初は島ラッキョウの栽培をしている人はいても、あくまでも自家用に過ぎなかった。一方、東京にいる仲買人に相談すると、宝島が島ラッキョウ栽培に適していることと、東京に十分な販路があることが判明した。

それでも住民は「島ラッキョウなんて売れないから作っても無駄」というすげない反応だった。人によっては、「間違っているわけではないのに、なぜ一方的に怒られるのか」と思い悩むかもしれない。何カ月もかけて信頼関係を構築した住民達に否定される毎日が続いたら、耐え切れずに逃げ出してしまう人もいるかもしれない。だが竹内氏は、「東京のスーパーだと1日で売り切れになっていたから大丈夫」とへこたれずに自身が経験したことだけを答えていたという。

そうした姿が後輩移住者に勇気を出させることにつながった。

「大変なことはたくさんある。けどそれを楽勝だと思わせることが一番大切」

島ラッキョウの栽培を始めた時のように、否定されて怒られても諦めない姿を後輩移住者に見せ続けているうちに、島民の空気感も変わっていったという。今では新しいことをしようとする移住者に対し、頭ごなしに否定する人は減った。それでも問題が起きることはある。そういう場合は、当事者の後輩移住者ではなく竹内氏のせいにする。そうすることで後輩移住者を守るのだ。

もちろん、後輩移住者にやりたいことがあれば、それを宝島で実現しようとしたらどんな問題が起きるのか、どのような手順でやれば良いのかといった相談にも乗る。それができるのは、宝島での一次産業から三次産業まで、ありとあらゆる仕事に挑戦して成功させてきた実績があるからこそだ。

それ以外に意識していることは、社会人としての最低限のマナーくらいだと語る。そんな竹内氏の姿勢は多くの移住者の手本になっている。今では宝島だけではなく、七つの島、つまり十島村にやってくる全ての移住者に頼られているといっても過言ではない。

「十島村の成功の要因」を言葉にすれば、移住後の収入保障と移住者を支援するマイスター制度だと説明することもできる。しかし、もっと大切なことは、どんなことがあっても前向きに取り組む心を、竹内氏が移住者に身に付けさせたことだろう。

「こだわりすぎない」というこだわりが地方創生を前進させる

竹内氏に今後の展望を聞くと、次は和紙を作るための機械を導入したいと話す。

多くの困難を乗り越えて量産化に成功したバナナファイバーだが、バナナから取れる繊維のうち紡績糸に加工できるのはわずか1割で、9割はゴミになっている。ところが、そのゴミも木槌で叩くことで和紙の原料にできるという。現在は、学生ボランティアと協働して人海戦術で和紙作りをしているが、これでは産業化には程遠い。機械を使うことで、バナナの実から幹まで100%活用できる仕組みを作りたいと夢を膨らませている。

必要な機械そのものは和紙作りで使われているものと同じなので、バナナ繊維を抽出する機械の時のような困難はないだろう。だが、高価なためすぐに手に入れることはできない。それまでは手作業で試作品を作っていくそうだ。

「宝島は人材不足だから、何をやるにしても学生ボランティアが必要。それに、宝島にはいない若い世代の人達がいるだけで島全体がエネルギーで満ちてくる」

▲木槌で繊維をひたすらたたくことで、ようやくバナナから和紙の原料を生み出すことができる

竹内氏が宝島に移住して10年。今は人口が140人近くに増えたが、圧倒的に人材が不足している状況に変わりはない。

そんな条件でも、国内で初めてバナナファイバーの量産化を実現させたり、島ラッキョウを新たな特産品にするなどの実績を上げられた背景には、自分の夢に意固地になるのではなく、臨機応変に対応してきたことが功を奏したという。逆に、高い目標を掲げていた人ほど、住民との折り合いが付かずに島を離れてしまうという。確かに、他地域の移住者からも同様のケースはよく聞く。

住民に否定されれば、反論せずに事実を確認したり他の方法を探る。労働力が不足していれば、外部の団体と連携して解決する。伝統工芸品を掘り起こしても、継承されていないのなら無理に復活させることを考えずに、伝統を受け継ぎながらも現代技術を活用して産業化する。技術や機械が日本で見つからなければ、血眼になって海外を探す。そして、自分自身が時には道化役になることで新たな移住者を安心させる。そのいずれにも共通するのは、「一つのことに固執しない」という信念だ。

今、地方創生の現場で活躍している人の中には、自分が叶えたい夢を追うあまり周囲をないがしろにしてしまっている人もいるかもしれない。そんな時は原点に戻って、なぜ自分がそこにいたいのかを考えれば突破口が見付かるはずだ。

宝島をはじめとする十島村の人口は、今もじわじわと増え続けている。自分のやりたいことだけではなく、住民の声も大切にし、後に続く移住者達が伸び伸びと挑戦できる環境を整えることで、七つの島の行く末を支えている竹内功氏を創生する未来「人」認定第21号とする。

(取材・文:宮坂大智 編集:杉田研人 企画・制作:SAGOJO 監修:伊嶋謙二)

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