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ウルトラマンは、いつ神永新二に追い付いたのか(『シン・ウルトラマン』についての思い付き)

映画『シン・ウルトラマン』を観てきました。
とてもユニークで面白い作品だったので、少しでも興味のある方はぜひ観にいってください。
特に、予告にも出ていたメフィラス星人のキャラクターは必見です。

以下はネタバレを含みます。

とても楽しめた作品だが、ストーリーに関して、ウルトラマンがなぜあそこまで捨て身で敵に立ち向ったのか、その理由付けが乏しいのではないかという意見も見られる。
人類を愛していたから、バディである浅見弘子(長澤まさみ)を初めとする禍特対のメンバーとの絆のためだからとすれば、その根拠となる描写が足りないのではないか、と。

私も観終わってしばらくはそのように感じたが、考えを巡らせてみて一つの可能性を思いついた。
ウルトラマンが自己犠牲を払った最大の理由は、人類全体や周りの仲間のためではないのではないか、と。

神永の体を借りたウルトラマンが一時失踪している間、図書館に通っていたシーンと並んで、森の中で神永の死体に向き合っていた描写が印象に残っている。
彼はその時、何を考えていたのだろうか。
もしかしたら彼はずっと「この神永という人間が、自らの命を捨てる時に何を考えていたのだろうか」という疑問に憑りつかれていたのではないか。
自己犠牲の概念を持たない外星人は、その奇妙で衝撃的な行動原理に心を囚われてしまったのではなかろうか。
数多の書物に自己犠牲に関する説明はあっただろう。しかし、表層的にその理路を知ることはできても、その場の当人の心情を想像することは同族にさえ難しい。
普段から自己犠牲の尊さを唱える人物がいざとなったら逃げだしたり、一見臆病に見える人間がその身を投げ出すことを厭わなかったり、究極の選択の場において言葉はしばしば無力である。
だからウルトラマンはこのような結論に至ったのではないか。「彼の思いを知るためには、彼の行動を模倣し、自分も見ず知らずの人間のために命を捧げるしかない」と。

そうして彼は、一人では歯が立たないと知りながらもゼットンに立ち向かった。
圧倒的な火力に打ち倒され、死を覚悟しながら墜落する中で、ようやく彼は自己を捧げた者にしかたどり着けない、神永と同じ境地に立てたと確信したのだ。
落下しながらウルトラマンの姿から神永の姿へ、流れるように自然に移り変わるシーンは痛ましくも誇らしげで、彼が心身ともに神永と一体化した瞬間を捉えているようだ。
もちろん、神永自身が死の瞬間に何を思っていたかは実際には知りようがないのだが、命を賭して到達した場所で生まれたウルトラマン自身の思いは、神永と同等の重さを持つはずだ。

何万年もの寿命を捨ててまで誰かのことを知りたいという願いは、間違いなく愛の一種だろうし、模倣という形で愛を表現するのがテーマだとすれば、とても庵野秀明らしい脚本だとも言えるだろう。

そういう風に考えれば、色々と納得できるとてもいい映画だったと思えた。