ヒト付き合いのコツなんてものを熟知しているワケじゃないが、それでも昔よりは判ることが多くなった。ような気がする。かもしれないねもしかしたら。 - wHite_caKe

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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

ヒト付き合いのコツなんてものを熟知しているワケじゃないが、それでも昔よりは判ることが多くなった。ような気がする。かもしれないねもしかしたら。


「包丁で刺されそうになったりする話(私がでは無い)」という記事を読んだらなんかもう、すごくいろんなこと考えちゃったのですが、そのとき不意に、以前自分が作成した
「指導者のためのハウツー」
という文書のことを思い出しました。


私は学生時代マジックサークルに所属していまして、引退して卒業した後も、ワケあって延々とサークルに顔を出し続け、大勢の後輩の演技指導(というほどたいそうなものではない)をした人間です。
で、そういうことを続けていると、なんとなくナニカが見えてくるのですよ。
「熱心で真面目で善良なOBがやみくもに後輩の演技指導をすると、たいていの場合嫌われる」
というのは、私が数年間の指導経験もどきを経て、得た実感の一つです。


なんでそういうことが起こるかというと、これは正論ちゃんが疎まれるのと理由は同じで、そういう人間はしばしば押しつけがましいんですよ。だから嫌がられちゃう。
これは非常にもったいないことです。どんなに有益で素晴らしい意見を述べても、「押しつけがましいから」という理由で、中身が吟味されることなく、切り捨てられちゃうんですから。
んで、なかなか押しつけをしている本人はそのことに気付かなくて、正しくて有益な意見なら受け取って貰えて当然、いやむしろ相手は喜んで素直に受け取るべきだ、とか本気で考えちゃっているんですけど、はい、それが既にすんげー大間違いです。


中身さえよければ、どんなかたちで相手に意見を言ってもいいっていうのは、ケーキが入っている紙箱でキャッチボールして中身をぐちゃぐちゃにした後、
「はい、味は変わらないでしょ。おいしいから食べて」
とか言って渡すようなものです。相手は気分を害するだけで、ケーキに手をつけてくれなかったりしますし、仮に食べてくれたとしても、あまりおいしく感じられなかったりするモノです。
洒落た皿にケーキを置き、皿とデザートフォークは事前に冷やしておいてきちんと並べ、紅茶はもちろんあたためられたカップで、テーブルの上には真っ白なテーブルクロスが糊のきいた状態で広げられ、脇には季節の花が美しく飾ってある……みたいな食べやすく美しく、相手にとって喜ばしいかたちでケーキを供することには、大きな意味があるのです。それは相手に対する思いやりでもありますしね。
有益な意見(=おいしいケーキ)を相手に対してどうしても伝えたくて、その良さを判って貰いたいのなら、そのためにはどう提供するべきなのか、しっかりと考えることが大切だと、私は考えます。
というわけで私は一時期、
「どうすれば後輩を演技指導する際に押しつけがましさを回避して、相手にとって好ましい形で関わっていくことができるか」
ということを自分なりに真剣に考えて、自分用の覚え書きとしてまとめたことがあったのです。
今回、それをアップしてみます。
これはあくまで、演技指導の際に考慮すべきこと、というちょっと特殊な用途で書かれたものですが、ニンゲンカンケイ全般に通じる要素を持っているのではないか、と私は考えています。

コツのその一。欠点指摘は最大三つまで。できれば一つに絞りましょう。

後輩の演技を見る。そうすればその演技の欠点というのは、たくさん目につきます。
ざっと数十点は気付いてしまう。
ここで、善意と熱意あふれるOBは思わず自分の気付いたすべての欠点を後輩に伝えたくなってしまうのですが、これが最大の間違い。
大体において、欠点などというのは、一つ克服するだけでもけっこうたいへんなものなのですから、数十にのぼる欠点などというものを指摘されても、本人はどうしようもなくなるだけなのですよ、はっきり言って。*1
でも、本人は指摘された以上はその欠点を直したくなるのです。なのに直せない。だから四苦八苦するし、自分に対して苛立つ。そこを更に
「この間言ったところが、まだ直ってないみたいだけど」
とか言われるから、ストレスが利子つきでたまってしまう悪循環。最後にはストレス回避のために、指導者自体を疎み、避けるようになります。そもそも多くの人間は「他人に欠点を指摘される」ということをそれだけでストレスに感じるということを思い出しましょう。
一度の指摘で直せる欠点というのは、最大で三つまで。できれば一つに絞りましょう。一つの欠点を克服すれば、本人は達成感を得ることができますから、次の課題にも前向きに取り組めます。
どうしても複数の欠点を指摘したいときは、
「まずコレは直そう。そんで、余力があったら、ココを直そう。そして、更にそれでもなんとかなるようなら、出来ればコレも直すといいと思うよ」
という風に、優先順位をはっきりさせましょう。そうすれば、優先順位の高いものから一つ一つこなしていくことで、本人のストレスも減り、達成感も得やすくなります。
そもそも、どんなことにせよ「完璧」などということはあり得ません。欠点というのは、ないほうが望ましいかもしれませんが、あっても良いものなのです。全ての欠点を自分の意見で矯正してやろう、などと考えるのは、驕りです。

コツのその二。減点法より加点法。美点を見出し、そこを伸ばすことは、欠点の指摘よりもよほど難しいものですし、時にはずっと重要です。

そもそも、自信に満ちあふれ、自分のやることなすこと全てに間違いなし、完璧だ、などと確信している人間はほとんどいません。大抵の人間は、「コレでよいのかな、大丈夫かな」という不安な気持ちを抱えながら生きているものです。
そして、その不安が表面に現れ、結果として演技の質を下げてしまうことはよくあること。
欠点を克服していけば、不安をなくすこともできますが、欠点というのは必ず克服できるものではないのも本当。
美点を見出し、きちんと誉めましょう。本人が自分の美点に気付いていないことも珍しくありません。
ただし、「いいよ、とてもいいよ。よかったよ」と言われれば、嬉しいかもしれませんが、無根拠で無責任なタダの社交辞令にも聞こえます。どこがどのようによかったのか、それを本人に納得できるかたちで伝えてあげることで、本人は自信を持てますし、自分の演技の方向性をしっかり掴むことができるようになったりもします。
ただ、このような誉め方というのは、実はたいへんに難しい。日頃から加点法の考え方を採用して、他者を認め、その美点を見出す訓練を行うことをオススメします。
演技者がおのれの美点を知り、不安を克服し、自信を取り戻すためのお手伝いをしてあげましょう。それが出来れば、演技者は堂々と振る舞うことが出来るようになり、結果として演技の質は向上します。

コツのその三。この言葉は自分が気持ちよくなるためのものじゃないのか、ということを常に疑いましょう。

「ああなるほど、そうですか。それは気付きませんでした。ありがとうございます」
などと言って耳を傾けてくれる相手に、自分の言葉を聞かせるのは、かなり気持ちの良い体験です。
そして、その気持ちよさに酔った人間は、自分を更に気持ちよくするために、延々と相手を指導し続けたくなったりするから、本当に危ない。
最初は重要なことを伝えていたはずなのに、だんだん自分が上の立場にいるということを噛みしめるためだけに、くだらない些細なことまで偉そうに演技者に向かって語り始めてしまうことって、けっこうありがちです。
そうなってしまうと、演技者はだんだん
「このひとって、どうでもいいことでも、喋り続けるよなあ」
と思って、あなたの言葉に注意を払わなくなってしまったりします。表面の態度は変わらなくてもね。
それならばまだよいですが、もっと恐ろしいのは、あなたのくだらない指導まで演技者が真に受けてしまうことです。どうでもよいことに足をとられて、演技者が前に進めなくなってしまいます。

コツのその四。演技者のスタンスと個性を掴む努力を怠らないようにしましょう。

長所と短所は裏返しというのは、よく言われることです。
たとえば「男性的で力強く、ダイナミックな演技」というのはしばしば、繊細さに欠けるものです。
だからと言ってここで、
「君の演技には繊細さが足りない。もっと丁寧で細やかな、小さな動きを心がけて」
などという指導をすれば、欠点は克服されるかもしれませんが、それ以上にその演技が本来持っている力強い味わいは消えてしまうでしょう。
演技自体のレベルが上がれば、現時点では欠点としか思えないものが、一つの味わいに昇華されるというのは、よくあることです。
現時点で欠点に思えるモノを全て指摘するのではなく、演技の総合的なバランス、味わい、個性、本人が目指している方向性などをまず掴み、その上でその方向性を伸ばしていくためにはどうすればよいのか、しっかり考えてからモノを言いましょう。

コツのその五。なすべきことは駄目出しや強制ではなく、あくまで提案です。その際、「何故か」ということも説明するのが望ましい。


ただの駄目出しというのは、相手にストレスを確実にかけるんですよ。
ストレスをかけることがすべて悪ってわけじゃありませんが。かけられたストレスを跳ね返すことで強くなる人間もいますし、あえてそういう方法で指導したほうが、のびる人間もいます。
ただ、「一割のやる気があって打たれ強い人間は飛躍的に伸びるが、残り九割の凡人は脱落するシステム」よりも、「一割の人間の伸び率は若干落ちるが、九割の凡人も伸ばすことが出来るシステム」のほうが優れているというのが、私の考えです。*2
そして、ならばなるべくストレスをかけずに同等の効果を得られる方策を模索した方が、脱落者を減らすことができるのです。
そのためには、演技者に一つ駄目出しをするときには、「そうじゃなくて、こうしてみたら?」と自分から提案を行うことが大事です。これはストレスが低くなる。
また、そうすることによって、同じ一つの問題を、演技者と指導者が、近い立場で一緒に考えることも出来ます。お互いの意見を尊重しあいながら、一つの課題に一緒に取り組むという経験は、双方の信頼感を深めることに繋がり、たいへん有益です。


駄目出しをしたいときも、提案をするときも、必ず何故自分は駄目出しをしたのか、提案をしたのか、その理由を演技者にきちんと説明しましょう。そうすることで、演技者は「納得」ができます。「納得」している人間は、前向きに、熱意を持って動きます。「納得」できずに強制されただけの人間は、熱意を持ちにくく、後ろ向きになりがちです。まず「納得」してもらうことで、演技者のモチベーションを高めましょう。

コツのその六。最後に。私たちは対等です。そのことを決して忘れずに。そしてそうである以上、決定権は相手にあります。


最終的に自分の演技に関する裁量権を持っているのは、演技者自身です。指導者ではありません。
複数の方法のメリットとデメリットを演技者に教え、その上で指導者が好ましいと考える方法がどれであるかを伝え、最後に演技者自身にどの方法を採用するか選ばせるというのが、私の採用していた方法でした。
私はたまたま数年、後輩よりも早く生まれただけの人間に過ぎず、その結果、後輩よりちょっとマジックに詳しくなっただけです。
指導者、演技者という言葉を使ってきましたが、実際にはどちらが上でも下でもないのです。私には知識と経験のアドバンテージがあるというだけで、そのこと自体は本来、立場の上下に繋がらないのです。忘れてしまいがちなことですが。私たちはあくまで対等。
対等である以上、私がどれほど「○○すべきだ」、「○○するのが望ましい」と思っても、そのことを相手に強制することはできません。
後輩の人生を、私が代わって生きてあげることは出来ません。後輩の代わりに私がステージに立つことも出来ません。
ならば、私が後輩の代わりに勝手に何が望ましいか判断してはならないのです。私は後輩の人生に何の責任も持てないのですから。
指導という言葉は、立場の上下を強く感じさせますが、実際に出来ることは、あくまでちょっとした手助けみたいなものなのです。当然、自分が相手に助けられることもあるでしょう。そのことを忘れずに。
そして、「ちょっとした」ものとはいえ、手助けができるということは、とても素晴らしいことであることも忘れずに。

てな具合で

いやー、すんごい長文でしたね我ながら。しかもなんか青い。ような気がする。まあいいや。
この長文が誰かへの「ちょっとした手助け」になることを願います。
ここに書かれたスタンスを参考にするかどうかも、あなた自身が決めることです。

*1:たまに能力が高いひとだと、数十だろうが数百だろうが、言われたことは全部直せるひとがいるが、これは数十人に一人いるかいないかのレアケース。

*2:もちろん、理想は「一割の打たれ強い人間も、九割の凡人も、最大限伸びるシステム」です。しかし、その場合には、個々人の資質を的確に見抜いた上での柔軟性の高い対応が必要となりますし、それはかなり難易度が高い。