グラミン銀行の日本版として、シングルマザーの起業や就労支援、小口融資を行う一般社団法人グラミン日本。2023年から理事を務める中川理恵さんは、株式会社ミスミグループに20年在籍し、仕事に没頭してきた人生だったという。
彼女はなぜ、ビジネス中心の生活から、グラミン日本の理事に辿り着いたのか。淡路島で暮らしているという彼女の生活の中にあるウェルビーイングとは? Wellulu編集部プロデューサーの堂上研が話を伺った。
中川 理恵さん
一般社団法人グラミン日本 理事・COO
堂上 研
Wellulu編集部プロデューサー
1999年に博報堂へ入社後、新規事業開発におけるビジネスデザインディレクターや経団連タスクフォース委員、Better Co-Beingプロジェクトファウンダーなどを歴任。2023年、Wellulu立ち上げに伴い編集部プロデューサーに就任。
「鎧を脱げ」。病気を乗り越え迎えた転換期
堂上:中川さんは一般社団法人グラミン日本の理事を務めていらっしゃいます。グラミン日本に所属する前は何をされていたのでしょうか。
中川:ずっと製造業界で働いてきました。大学卒業後は父が経営している部品メーカーに入社し、会社のあるシンガポールに駐在。その後、父の会社を離れてからは、アメリカ系の半導体装置メーカーに6年、株式会社ミスミグループ本社に20年在籍しました。
堂上:ミスミといえば、製造業の大手商社ですね。ミスミではどのような事業に携わられていたのでしょうか。
中川:ファクトリーオートメーション事業を17年ほど担当しました。たくさんの挑戦の機会を与えていただき、企業体(カンパニー)社長も経験しています。そろそろ世代交代という時期となって別部門に異動となり、それまで忙しく働いていた日々から、急に落ち着いたリズムのある生活に変わっていったんです。そのタイミングで「このままで良いのかな」「一度自分の生き方を見直してみようかな」と思い始めました。
ちょうどコロナ禍と重なって在宅で働いていたのですが……他に何かやらなきゃという感覚に駆り立てられて、グラミン日本でのプロボノを始めたんです。オンラインでバックオフィス業務をお手伝いしていました。
堂上:新たな刺激としてグラミン日本を選んだのですね。グラミン日本に関心を持ったのはなぜですか?
中川:実は20代に大きな病気をして子どもを授かれなくなったので、精神的な落ち込みが大きくて、しばらく子どもや親子というものを避けて生活していたんです。でもこのまま逃げ続けることはできないなと思い、数年前から子ども食堂や、障がいを持った子どもたちと遠足に行くボランティアなどに参加してみました。いくつかトライしたのですが、やっぱり子どもに慣れていないから上手くコミュニケーションが取れなかったんです。仕事ばかりしてきたので、興味を持ってもらえる話題も出せないし、子どもたちと距離ができてしまう。
でもグラミン日本は、子どもを育てながら頑張っているシングルマザーの方たちが、自分で稼ぐ力を身に付けていくことをサポートしているので、これなら自分にもできるかもしれないと思って参画しました。
堂上:そうだったのですね。僕はよく子どもと遊んだことをSNSにあげているのですが、そういった投稿を見るのも辛かったですか。
中川:その当時は辛かったですね。3年ほど抗がん剤治療のために入退院を繰り返している時期があって、その時は親子関連のものを目にするだけで涙が溢れていました。そういったものがなるべく見えない場所にいるようにしましたね。自分の存在意義は仕事しかないと思っていたので、とにかく仕事に没頭しましたし、幸いにも海外出張もたくさん行かせていただきました。
堂上:それほど辛いことに向き合うには時間と勇気がいると思います。
中川:15年くらいかかっていますね。徐々に向き合えるようになりました。
堂上:向き合おうと思ったきっかけがあったのでしょうか。
中川:ミスミにいる時に、ある次世代リーダーを輩出する全人格教育プログラムに参画する機会があり、その創設者の方に「中川さんは鎧を被りすぎている、脱げ!」と言われたのがきっかけでした。もっと自分らしさを曝け出せ、と。
堂上:ウェルビーイングについてさまざまな方とお話ししていると、自分と向き合う時間がすごく大事だし、人との対話で新しい気づきを与えてもらうということがあるなと思います。それが中川さんにとっては、創設者の方の存在だったわけですね。
中川:はい、彼以外にも本プログラムでは、社会のさまざまな分野で戦っているリーダーの方々と出会う機会があり、彼らとの対話のなかで気づくことが多くありました。私の人生で一番の転換期だったと思います。
シングルマザーを支援する、グラミン日本の3つの事業
堂上:気づきを得て、そこから行動したということも素晴らしいと思います。一歩目を踏み出す、行動するということは難しくはなかったですか?
中川:そこは難しくなかったのですが、先ほどお話ししたように子どもを相手とするボランティアでは浮いてしまって、居心地は良くなかったです(笑)。ビジネスパーソンは名刺の肩書きイコール自分だと思っているといわれますが、私はその典型やわ、と痛烈に感じましたね。
堂上:でも、それは良い経験ですね。僕も企業のコンフォートゾーンにいる自分に安心感を覚えている時期が長かったのですが、『Wellulu』で対談をしていると、みなさんは主語が企業ではなく「個人」であることに気づかされました。ウェルビーイングな人たちにとって肩書きはいらないんだ、と思ったんです。対談をしてみなさんのお話を聞かせていただいているのに、自分は僕自身の「個」を主語にできているだろうかと考えさせられました。
中川:そうなんですね。私もこのボランティアの経験で気づかせていただきました。
堂上:中川さんはボランティアで居心地が良くないと感じながら、グラミン日本にも挑戦できたのはなぜでしょうか。
中川:グラミン日本は、子どもというより「お母さん」にフォーカスが当たっています。シングルマザーで、子育てをしながらパートを2つ掛け持ちしたり、土日に平日とは違う仕事をしていたりとずっと働き続けている方々がいらっしゃって。グラミン日本では新しいスキルを身に付けることで、より自分らしく働ける企業に行ったり、個人事業主で副業をやったり、起業して所得を向上させる、ということを目指しています。彼女たちがビジネスで成長し、経済的自立を目指すことをサポートするのは、私がこれまでやってきた領域なので、私らしく、親子に関われると思いました。
堂上:なるほど。グラミン日本についてもう少し詳しく教えていただきたいのですが、今はシングルマザーの方が対象なのですか?
中川:そうですね。以前はもっと対象を広くしてサポートしていたのですが、コロナ禍により活動のバリエーションを選択する必要があって、生活困窮リスクのあるシングルマザーの方への経済的自立支援に絞りました。親の貧困が子どもにも連鎖していく、いわゆる「貧困の連鎖」は深刻な社会課題ですし、女性活躍推進の文脈、少子高齢化・労働人口減少にも関わることなので、現在はそこに注力をしています。
堂上:具体的にどのような事業を提供しているのでしょうか。
中川:グラミン日本には、3つの事業があります。1つ目は、グラミン銀行で知られるマイクロファイナンスでの融資。日本ではこれまで延べ約60人(2022年9月末)への融資による起業支援を行っています。2つ目は、デジタルリスキリングによる就労支援。3つ目は、助成金を活用して、全国の支援団体への間接的支援です。シングルマザー支援を行っているNPOや企業など10団体と連携しています。
堂上:支援を受けられる方は、どのくらいの期間、グラミン日本と関わるのですか。
中川:デジタル就労支援に絞っていうと約3カ月間です。オンラインでのEラーニングが多いのですが、働いて、子育てをして、夜疲れて眠いなか、勉強に取り組むことになります。一人では生活と仕事と勉強のバランスが崩れてしまいやすいので、離脱しないように5人の仲間を作って伴走支援を行っています。勉強法を教えあったり、子育ての相談をしあったりして、3カ月の勉強が終わると就労支援に移ります。リスキリング修了後も、コミュニケーションツールでお仕事の情報を発信したり、グラミン卒業生のイベントを開催したりと研修時よりも少し緩めのコミュニティに移行していきますね。
堂上:仕事と子育てをしながら勉強をするというのは、なかなか大変だと思います。上手くいく人と離脱してしまう人の特徴はありますか?
中川:しんどい時期がきた時にも前向きにトライし続けられる人は、最後まで踏ん張れることが多いです。ただもちろん、学習するスキル領域での得手不得手はありますし、その時の家族や生活環境にもよるので無理を強いることは難しいですね。長い目で見た方向転換も含めて、ご本人と対話して進めていきます。
堂上:生き方を大きく変えてみて、今どのように感じていますか?
中川:これまで経験してきたこととは全く異なることばかりで、とても新鮮です。私が過去仕事を通じて得られたさまざまな経験や学びを、次の世代に返していこうという思いが今は強いですね。
堂上:グラミン日本で働くなかで、もっとこうしていきたいという課題や思いはありますか?
中川:課題としては、もっと企業に「インパクト雇用(※)」について関心を持っていただきたいということ。シングルマザーの方たちが働きやすい環境、たとえば労働時間、場所、賃金単価などの条件を、企業に創意工夫をして作っていただき、可能性のある人材を成長させていくことです。一時的には投資になるかもしれないですが、労働人口が減っていく日本において、中長期的に必ずメリットになっていきます。
※参考:グラミン日本note「インパクト雇用とは?人的資本経営との関係を整理」
一息つくために砂浜へ。心を解きほぐす淡路島での暮らし
堂上:今、中川さんは東京にお住まいなんですか?
中川:いえ、淡路島に住んでいるんです。グラミン日本の仕事は在宅・オンラインでやっているので、東京に出張に来ることはありますが、基本的には淡路島にいます。
堂上:そうだったのですね! なぜ淡路島を選んだのでしょうか?
中川:もともと関西出身ということもあり、淡路島はよく出かけている場所でした。いつか関西に戻りたいと思っていたタイミングで良い物件があったので移住しました。
堂上:淡路島での暮らしはいかがですか?
中川:自然があって、野菜も美味しくて、素晴らしいですよ。家のすぐ近くに海があるので、仕事中に少し休憩をしようとコーヒーを水筒に入れて、てくてく歩いて行って、砂浜で海をみながら、ふーっと一息ついているんです。
堂上:素敵ですね。地元の方々との交流もあるんですか?
中川:音楽コミュニティがあって、ウクレレや沖縄三線を習っています。よく喫茶店で生演奏で歌えるカラオケ大会みたいなイベントを開催していて、この前は私も飛び入り参加して歌っちゃいました。
堂上:すごくウェルビーイングじゃないですか! 仕事とはまた違うつながりも生まれているのですね。中川さんにとって、今一番ウェルビーイングを感じるのはどのような状態でしょうか。
中川:Welluluの21因子(※)を見て書き出してきたんですけれど……。
※参考:ウェルビーイングいろいろ診断
堂上:ええ!? ありがとうございます。取材前に見て、しかも書き出してきてくださるなんて、嬉しいです。
中川:改めて考えてみると、やっぱり仕事が好きだというのは私の中の上位にあると思います。仕事を楽しんでいる状態で、新しい挑戦ができて、それが新しい学びにつながっていくことにウェルビーイングを感じますね。
「Wellness(健康)」領域で言うと、キーワードは、「淡路島」「海・空・土」「瀬戸内海セーリング」「アート・音楽」「ジム」「よく寝られる」があります。
「Newness(新しさ)」領域で言うと、今まで接点がなかった多くの人との出会いを一番楽しんでいますね。たとえば、ソーシャルセクター、サステナ、コーポレートガバナンス、学校教育。そして「50代の新人として謙虚な気持ち」を持ち続けていたいと考えています。
「Community(コミュニティ)」領域でいうと、キーワードは、「利他的な欲求」「仲間との時間」「感謝の言葉であふれる現場」「創業理念・経営理念」「女性活躍」「先輩方が拓いてくれた道の上」「ギフトの循環」と思い浮かびました。
今までの生き方と、今の生き方がだいぶ変わっている。そして、仕事を通して出会う人が変わったことで、新たな発見につながっています。
堂上:主観的ウェルビーイング21因子でいうと「Newness(新しさ)」が強いのかもしれないですね。
中川:はい。そこにグラミンが入ってきたことで、すごくウェルビーイングのバランスが良くなったなと感じています。社会貢献や相互協力といった、利他に近い精神が入ってきたと思うんです。さらに淡路島で暮らすことで、仕事とは違うプライベートのコミュニティも自分の心地よさにつながっています。
堂上:新しい地元のコミュニティができると、そこでもまた新しい発見が生まれますね。僕もウェルビーイングとは何かを定義するのではなく、要素の掛け合わせなんだろうなと思っています。それは人によって違う掛け合わせで、それぞれのウェルビーイングがあると思うんです。中川さんは、近い将来、どのようなことをやっていきたいと考えていますか?
中川:まだグラミン日本に関わって数年ですから、自分が一番良い形で社会に対してできることを模索していきたいなと思っています。またせっかく淡路島に住んでいるので、グラミンとしてでも、そうでなくても、ビジネスの知見を活かして、淡路島のためにできることを探していきたいですね。
大阪府出身、関西学院大学商学部卒業。家業の部品メーカー、アメリカ系半導体装置メーカーを経て、株式会社ミスミグループ本社に20年間在籍。商品開発、生産調達、ECマーケティングなどを担当ののち、代表執行役員 FA企業体社長、サステナビリティ推進担当役員を務め、2022年12月に退職。
2023年1月一般社団法人グラミン日本 理事・COOに就任、マイクロファイナンスやデジタルリスキリングを通じてシングルマザーの稼ぐ力を向上する活動を行う。