アートがもたらすこころの豊かさや個人、地域社会への影響とは?
東京藝術大学が主導する「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」プロジェクトは、アート・福祉・医療・テクノロジーなど39の機関が連携し、人々の間につながりをつくる文化活動「文化的処方」を開発し、社会への実装を試みている。芸術を通じた社会貢献「文化的処方」についてやアートとウェルビーイングの関係性についてなど、今回、東京藝術大学社会連携センター伊藤達矢教授に詳しいお話を伺いました。
伊藤 達矢さん
東京藝術大学社会連携センター 教授/副センター長
本記事のリリース情報
参加者のWell-Beingを高めるアートコミュニケーション
── 「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」プロジェクトについて教えてください。
伊藤さん:これは、科学技術振興機構(JST)の「共創の場形成支援プログラム(COI-NEXT)」の一環として始まったプロジェクトで、本学が中心となり進めています。アートコミュニケーションの特性を活かして、人々が社会に参加していく新しい回路をつくり、誰もが「自分らしく」いられる共生社会の実現を目指しています。ここで重要なのは、大学が中心となって人と社会の変革を目指していることです。科学技術開発力に限らず、私たち芸術大学といった人文学系の大学も社会の変革に貢献できると考えています。
── 科学技術開発力に限らず、とのことですが、芸術大学が社会課題に取り組む意義を教えてください。
伊藤さん:本学は芸術家を輩出する大学として知られていますが、芸術を通じた社会貢献も大学の重要なミッションの1つで、SDGsの達成やウェルビーイングの実現、地方創生に貢献することが中期計画にも明示されています。2030年のSDGsのゴールを見据え、17の目標をただ達成するだけではなく、目標の背景にある価値を理解して、手段に捉われずにより豊かな社会を構築することが重要と考えています。
また、2030年以降においても、孤独や孤立といった社会的な問題は大きな課題です。超高齢社会の中で、「文化的処方」というアート活動を通じて地域社会にウェルビーイングをもたらす取り組みが解決策につながると考えています。
文化的処方とは?
── 「文化的処方」とは具体的にどのようなものか教えてください。
伊藤さん:「文化的処方」とは、人と人のつながりや地域資源の活用によって健康やウェルビーイングを地域や社会ぐるみで高めようとする取組である「社会的処方」から着想を得たものです。個々人が抱える諸課題や社会との関係性、地域の文化芸術資源や場所の特性などを踏まえつつ、アート活動と医療・福祉・テクノロジーを組み合わせ、人々が互いに緩やかにつながり自分らしさを保ちつつ、クリエイティブな体験を通じて楽しみや感動を味わうことを目的としています。
私たちは、「文化的処方」が、個人においては、活動する意欲や幸福感の増進および健康の維持・改善といったウェルビーイングの持続的効果、地域社会やコミュニティにおいては、より寛容で包摂的な環境やシステムを作り出すことを期待しています。
──文化的処方を実現する上で重要なことなどはありますか?
伊藤さん:文化的処方を実現するためには、アートと地域・企業が連携し、それぞれの専門知識や技術を組み合わせることが重要です。また、身体的な制約や家から出られない事情を抱える人々に対しては、テクノロジーを活用して、その人らしさを保ちつつ社会参加を促進するような仕組みを考案することも重要です。さらに、医療や福祉機関との連携も不可欠で、病気や困難に直面する前に、予防的なケアや社会参加の機会を提供することも文化的処方の重要な要素です。
文化的処方を実現する取り組み
──文化的処方の推進のための具体的な取り組みについて教えてください。
伊藤さん:まず、地域の中での居場所やプラットフォームを自治体と一つとなって作っていくことを考えています。地域コミュニティにおける居場所の創出は、文化的処方の重要な側面です。単に芸術活動を提供するだけでなく、社会参加の新しい機会を創出することも含んでいます。
もう1つは、どのような状況であっても、誰も取り残されないテクノロジーのあり方を企業と一緒に考えていくことです。これはSDGsや2030年の社会における心の豊かさとは何か?を考える上で、企業とともに考える大きなテーマだと捉えています。
地域全体の幸福度を上げる!新たなテクノロジーを活用したアートプログラム
具体的には、QDレーザという半導体レーザ技術を手掛ける企業と連携しています。この会社は視覚障害のある方の見えづらいを「見える」に変えられるような革新的な技術を開発しています。レーザー光線を網膜に直接投影することで、視力が極端に低い人でも、人の表情や掲示物を見たり、デジタルカメラを使って撮影したりすることが可能になるというものです。
また、大日本印刷(DNP)の技術では、「みどころウォーク」と呼ばれる、バーチャル空間における空間圧縮技術を活用して、限られた実空間でフランス国立図書館のような広大な仮想空間を歩く体験を実現しています。これは、ただのVR体験ではなく、人々が共有の空間で互いに交流し、芸術作品を鑑賞することを可能にする技術です。
※Photo©DNP Dai Nippon Printing Co., Ltd. 2021, with the courtesy of the Bibliothèque nationale de France.
文化的処方を普及させるポイントは、クオリティ・オブ・コミュニティ(QOC)
──文化的処方を実際に普及させる上で重要なポイントはありますか?
伊藤さん:企業だけでなく住民や市民と一緒になって地域に根差した文化的処方のプラットフォームを構築する「文化リンクワーカー」の存在も重要です。自分たちの地域で何が必要であるかを感じ取り、それに応じた活動を自ら形成します。文化的な活動を通じて、人々を繋ぐ橋渡しの役割を果たします。また、地域住民が自ら文化的処方のプロセスに関わることで、より持続可能で効果的な社会参加の方法が生まれる可能性が高まります。
── 個々人だけでなく、地域社会やコミュニティにも焦点を当てているということですが、その面についてもう少し詳しく教えていただけますか?
伊藤さん:はい。私たちは、単に個々人の生活の質(QOL)を高めるだけではなく、クオリティ・オブ・コミュニティ(QOC)を重視した社会を目指しています。ひとりひとりが幸せで充実した生活を送ることによってより良いコミュニティが形成されるという考え方です。こうした状態を作るためには文化的処方の取り組みをということなのですが、ただ文化的処方があればQOLが高い状態になるのかというと、その地域だけがそうなるということもあるかもしれません。なので、「こころの産業」を考えていく必要があると思っています。
SDGsの問題もそうだと思うんですが、2030年までに持続可能な社会、つまり続けていける社会みたいなものがあるとすると、2030年以降についてはどうでしょうか。その社会はギリギリ続けていけることもあれば、何か苦しい思いをしながら続けていけるなど、どんな気持ちで続けていく社会なのかについては、まだあまり議論されていないと思っています。
ただ、どんなことでもそれを幸せだと思って生きていく社会でないと意味はなくて、コミュニティのクオリティが非常に高い状態でウェルビーイングな社会を作っていくためには、どういう社会を目指していくのかが重要で、企業もその社会を目指した開発やサービスの提供というものが行われていく必要があると思っています。
例えば、単に便利さだけではなくて、本当に幸せなことは何か?何がこのQOCを作っていくのか?という部分に考えを巡らせる、共に生きるという視点を持ち、テクノロジーとの関係性を考え、QOCを作っていくというものです。
──なるほど。このような社会の実現のためには今後どのような取り組みが必要だとお考えですか?
伊藤さん:地域住民、企業、行政の協力が必要です。文化的処方の取り組みをさらに拡大し、多様な地域のニーズに応えるプログラムを開発すること、企業は社会的責任を果たし、持続可能かつ人間の本質的な幸せを重視した商品やサービスの開発に注力することが求められます。政策立案者や地方自治体は、文化的処方の支援や地域コミュニティの活性化に向けた取り組みを行うことが重要です。
アート・コミュニケーションで叶える異世代交流
── 実際に、これまでに東京藝術大学による文化的処方の実施例があれば教えてください。
伊藤さん:東京都美術館と東京藝術大学が連携して実施しているアート・コミュニケーション事業として、子どもたちのミュージアムデビューを応援し、すべての子どもたちが文化やアートを介して社会に参加し、つながりをもつことを推進する、上野公園の9つの文化施設が連携した「Museum Start あいうえの」と、子どもから高齢の方まで、歳を重ねてからも「ずっと」通いたくなる美術館をコンセプトにした「Creative Ageing ずっとび」というプロジェクトがあります。
2022年8月には、この2つの事業が協働し、異世代交流プログラム「みる旅」を開催しました。65歳以上のシニアと15~18歳のティーンズが一緒にアート作品を鑑賞しながら、自分の価値観や経験を参加者同士で共有し、互いの文化的背景について話し合うという体験をしてもらいました。はじめはティーンズとのコミュニケーションに不安を感じる方もいましたが、「アート・コミュニケータ」と呼ばれる橋渡し役となる方々のサポートもあって、活発な対話が実現しました。
東京藝術大学大学美術館「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」(2022年)/(photo: Yusuke Nakajima ※左下写真を除く)
このプログラムにより、世代や経験の違いを超えた交流が促進され、参加者は新たな見方を発見する楽しさを得られました。シニア層の参加者にとっては、豊かな人生経験を共有し、これからの人生をどう生きるかを考える機会に、若い世代の参加者にとっては、新しい価値観や社会参加の機会を提供し、人生の多様な側面を見る機会になりました。
また、互いの文化的な背景や価値観を理解し合うことで、相互理解が促進され、世代間のギャップを埋める一助ともなったと考えています。アートは、人々の心をつなぐ強力なツールであることを認識できる取り組みでした。
まずは小さな意識改革から。「こころの豊かさ」を育むためにできること
──普段の生活でも身近にアートに触れられる機会としてミュージアムがありますが、その役割について教えてください。
伊藤さん:実は昨年、ミュージアムの定義が変わりました。ICOM(国際博物館会議)の場で、その意義として包摂性が重視されたのです。これは、ミュージアムが単に作品を展示する場所としての役割を超え、その社会自体への文化的参加性、いわゆる社会装置としての役割が認知されるような内容でした。
──興味深いですね。日常生活において「こころの豊かさ」を育むために意識すべき大切なポイントがあれば教えてください。
伊藤さん:例えば、美術館に訪れた際の体験を友人や家族など身近な人々と共有し、自分の感じたことや考えたことを話し合ってみるなどです。このようなコミュニケーションは、自分の考えを深めると同時に、他者との交流を通じて新たな視点を得る機会にもつながります。
また、自分が大切にしているものや価値観を、日常の中で意識的に見つめ直し、言葉にしてみることも重要です。当たり前と思っていた日常の中に潜む、大切な価値や美しさを再発見することができます。可能であれば、さらにその気づきを他者と共有することで、互いの価値観を豊かにすることができるでしょう。
──貴重なお話ありがとうございました!
Wellulu編集後記:
東京藝術大学を中心とする共創プロジェクト「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」について詳しくお話を伺い、「文化的処方」がもたらす個人の幸福感や健康の維持・改善、コミュニティの質の向上、つまり個々人のQOL向上だけでなく、コミュニティの質の向上させるとのこと、大変興味深く、その重要性を感じる機会となりました。読者の方々がアートとのふれあいでこころの豊かさを育みながら、今後のよりよい生活、社会を目指したこの取り組みに、より一層の関心を寄せていただくきっかけとなればと思っています。
1975年生まれ。東京藝術大学大学院芸術学美術教育後期博士課程修了(博士号取得)。
東京都美術館×東京藝術大学のアートコミュニティー形成事業「とびらプロジェクト」など、多様な文化プログラムの企画立案に携わる。
現在、東京藝術大学が中核となる「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」プロジェクトリーダー。
共著に『ケアとアートの教室』(左右社)。