お世話になります。
う〜しま〜です。
今回は、私のお勉強回です。
私の趣味全開なので、長めです。
最近、サウナに関する本を読んだ。
『至福の北欧サウナ 知られざる歴史と文化の全て』(イェンス・リンデル著 2024)
という名前の本である。著者は名前からわかる通り(?)、多分スウェーデン 人である。スウェーデン 人ではないとしても、Jens Lindelという名前は、元祖フィンランド 系ではないのは間違いない。
何も考えずにパラパラとページをめくっていると、
この本の中で気になる記述を見つけた。
(私は、こういう本は読みたい章から読む傾向がある。)
フィンランド で発掘された最も古いサウナは13世紀ーーつまり北欧の中世ーーのもの
(p.29「北欧と東欧のサウナ小屋」)
と書いてあるのに対して、
北欧最古のサウナと思われる遺跡はスウェーデン で発見された。スウェーデン のメーラレン湖に浮かぶヘリエー〔「聖なる島」の意〕で見つかった3世紀の建物の痕跡は、おそらく一種の浴場だったと考えられている。
(p.32「北欧と東欧のサウナ小屋」)
と書いてあったのだ。
つまり、現存する遺跡レベルで言うと、スウェーデン の方がサウナ(スウェーデン 語ではBastu)の歴史の方が古いのだ。
な、なんだと??
フィンランド のサウナ愛がスウェーデン に負け、、た、、、、??
なんだか、私までがスウェーデン に負けた気がしてくる。
いや、フィンランド のサウナ愛は、スウェーデン には負けんっ!!
私はスウェーデン に負けん!
ところが、私の気持ちに負けまいと著者も対抗しているのか、ヴァイキング もサウナを愛していたという描写までしてきた。
ヴァイキング はサウナ浴に熱心で、旅を通じてこの入浴習慣を他の地域にも広め、なおかつ外部からの影響も取り入れた。
(p.33「北欧と東欧のサウナ小屋」)
しかも布教活動まで?
ヴァイキング 時代に生じた言葉にlördag(土曜日)がある。これはlögar(体を洗う)dag(日)と言う意味で、入浴する日のことだったのだ。
(p.33「北欧と東欧のサウナ小屋」)
サウナの日も制定していた?
ま、待ってくれ。
サウナ愛が強いヴァイキング だと?!
しかも、サウナの日を作った?!
情報のパワーがありすぎるだろっ!!
なんだかすごくスウェーデン に負けた気がしてくるではないか!
このままでは、これまで私が考えていた、「フィンランド のサウナ愛>>>>>スウェーデン のサウナ愛」の図式が崩れてしまう。
しかも、このヴァイキング のサウナ文化は、アメリ カ大陸まで届いている。
カナダのラブラドール州にあるランス・オ・メドー のヴァイキング 集落からは、サウナかスウェットロッジだったと思われる煤けた石が発掘調査により見つかっている〔この集落の形成は1000年頃だと推定されており、ヴァイキング は〕こんなにも早い時期に北極海 と大西洋を越える旅をしていたのだ!
(p.33 「北欧と東欧のサウナ小屋」)
愛が強すぎるぜ、ヴァイキング !
こんなの敵わないのではっ?? 勝てないよ、助けてドラ○もん!!
しかも、サウナ愛が強いのはスウェーデン だけではなさそうなのだ。
907年、ビザンツ帝国 に勝利すると、ルーシの支配者オレグは和平交渉で(かなりの量の銀の他に)、コンスタンティノープル に到着したルーシ人にはパンや魚やサウナ浴を好きなだけ与えられるよう要求した。
(p.32 「北欧と東欧のサウナ小屋」)
和平交渉でサウナを要求!?
『ネストル年代記 』(12世紀編纂)には、スラブ国を旅する聖アンデレの記録が残されている。それを抽出してみよう
「不思議な話である。スラブ国に滞在していた私は、彼らの木造の浴場の見学を許された。浴室を温めると彼らは服を脱ぎ、体に獣脂を塗り、細長い枝の束で体をむち打つ。あまりに激しく叩くので、彼らの命が心配になるくらいだ。そして最後に冷たい水を浴び、しゃきっとする。自ら進んで、この苦行をおこなうのだ」
(p.32 「北欧と東欧のサウナ小屋」)
しかも、vihta(ヴィヒタ)で体を叩く苦行文化がある!?
な、なに!?
ロシアでは、「セルフむち打ち超気持ちぃ〜!!」文化まで、そっくり同じであったらしい。歴史書 に載るレベルの凄まじい叩きっぷりであったことがよくわかる。
いや。
冷静になろう。
そもそも待って欲しい。
サウナはフィンランド の文化だと思っていたけど、もしかしてスウェーデン やロシアのサウナの歴史も結構古いんじゃね??
フィンランド 発祥って、聞いていたのだけれども、、、ども????
あれれれれれれれれ????
よく読んでみると、本にはちゃんと、「スウェーデン の発汗浴の習慣は、フィンランド 、エストニア 、ロシアから伝わったに違いない」と書いてある。
これは私の妄想だが、多分、フィン人の発祥経路的に考えて、ノヴゴロド 、エストニア 、フィンランド などを含む、今のサンクトペテルブルク 周辺の地域がサウナやバーニャ発祥の地域だとされているのではないかと思う。
なので、ロシアのバーニャはフィンランド のサウナのマブダチですな。あるいは、フィンランド のサウナの愛弟子的存在かもしれない。
そして、フィンランド のサウナの歴史は間違いなく、スウェーデン より長い。
答えは最初からこの本に書いてあったわけである。
いや、最初からよく読めよっ!!
ふざけんなよっ、わたし!!
でも、よかった。
ほっとした。フィンランド はサウナ発祥の地で間違いなさそうだ。
ちなみに、この本に書かれている世界のサウナ史について、まとめてみたので、気になる方はどうぞ!
サウナの世界史(見えにくい時は頑張ってズームしてください)
この表を見てもらえば、フィンランド のサウナの歴史はずば抜けて古いことが一目でわかるはずだ!!
どうだ、参ったか!
ちょっと話を戻そう。
そうなると、気になるのが、スウェーデン のBastu(サウナ)文化である。そんなに歴史が古いわりに、スウェーデン のサウナのイメージは薄い。
愛の強さだと言えばそれまでだが、歴史的に考えれば、フィンランド のサウナとエストニア のスモークサウナがユネスコ無形文化遺産 に選ばれたけど、スウェーデン も混ぜてもらってもいいのではないか。(まあ、ロシアも混ぜて欲しい気がするけど、政治的問題な気がするので、ここでは脇に置いておく。)
その答えに当たるのか、なんなのか。
この本の中では、ヨーロッパの大都市で、梅毒の発症を原因として、16世紀以降、浴場が禁止され始めた流れの中で、スウェーデン で公共浴場でのサウナ浴も禁止されていった話が紹介されている。
18世紀のスウェーデン 行政はサウナ浴にますます反対するようになり、ここでも不道徳な点を強調した。国内であれ国外であれ、年におけるサウナは性的な出会いの場として堕落しており、売春や性病の蔓延を招くと主張したのである。この結果、17世紀末から18世紀にかけて、貴族階級と平民階級の両方で脱サウナ化が進んだ。
(p.48「罪と禁止」より)
ちょっと面白い。
ヨーロッパで、かつて浴場が衰退した流れ自体は知っていたが、北欧(スウェーデン )にもかつて公共サウナがあり、そのサウナの衰退も、それに乗じていく形で起こっていたからである。
18世紀後半には、フィンランド 人が多いヴァルムランド、ダーラナ、ノルボッテン、ラップランド 地方を除いて、スウェーデン の農民のあいだでサウナ浴はほとんど行われなくなった。
(同じくp.48「罪と禁止」より)
フィンランド 人のサウナ欲がすごかったのか、なんなのか。その詳細はよくわからないが、フィンランド 人在住地域では、サウナが根強く残ったようである。
ちなみに、ロシアのバーニャ浴についてはこんな記述があった。
ロシアでも、サウナを撲滅しようという動きがあった。ピョートル大帝 (在位1682〜1725)はロシア風サウナに課税し、正教会 はサウナを非難した。しかし、期待したほど効果は得られず、ついに教会は転向しバーニャ浴を祝福するようになった。
(同じくp.48「罪と禁止」より)
やはり、ロシアのバーニャ愛も中々強そうである。
さすが、フィンランド サウナのマブダチ。
さて、少しだけ現代に戻る。
日本人留学生界隈だとたまに話題に上がるのだが、フランスやドイツなど、一部地域のヨーロッパ人がお風呂に入らないどころか、シャワーも数日置きにしか浴びなかったりするという話を聞くことがある(もちろん地域や人によるけれど)。
この原因として言われるのが、「ヨーロッパ人には、シャワーやお風呂に入る習慣が元々ないみたいだよ」という話だ。
でも、その習慣は、原初の昔からずっとなかったわけではなくて、途中でなくなったのだと思われる。というのも、いくつか本を読んだりしていると、中世にはこれらのヨーロッパ諸国でも入浴の習慣があったという記述が見られるからだ。
例として、阿部謹也 の『中世を旅する人々』(1982 第16刷)を見てみよう。
この本の中で、阿部謹也 は共同浴場 に関して一章分をかけて説明している。
その一部を引用してみよう。
入浴は当時の人びとにとって今日では考えられないほど大きな楽しみのひとつであった。「一日楽しく過したければ風呂へ行け。一週間を楽しく過したければ*刺胳せよ。一月を楽しく過したければ豚一頭を屠り、一年を楽しく過したければ若い妻を娶れ」と十六世紀初頭にフランクフルトではいわれていた。
「6 共同浴場 」p.89より
*刺胳=刺絡:「漢方 で、瀉血 (しゃけつ) 法の一。皮下 の小静脈を刺して悪い血を流し去ること」(goo国語辞書 より)。ここでは漢方と書かれているけど、漢方だけでなく、西洋医学 でも使われる療法。吸血ヒル を使って行う治療も、瀉血 とか呼ばれているので、原理はほとんど一緒だと思う。
しかも、湯銭(入浴手当に当たるもの)もあったらしい。
手工業者の徒弟は土曜日には一時間早く仕事につき、早仕舞して浴場に走った。彼らはそのために給料のほかに「湯銭」をもらった。それは少額でブレーメン 市参事会堂建設帳簿によると二○人ぶんで四〜六**グロッシェンであった。
「6 共同浴場 」p.89より
**グロッシェン→プラハ・グロシュ - Wikipedia 参照のこと。銀純度933パーミル とかめっちゃうらやまっ!
私も入浴手当ある会社に入りたい! 温泉手当とかあったりしないだろうか?? とにかく羨ましい限りだ。
まあ、湯銭は置いておくとして。
つまり、サウナ本にも書かれていたが、ヨーロッパでも16世紀ごろまでは共同浴場 が存在し、生活の一部として利用されていたのだ。
中世の浴場(「6 共同浴場 」p.85より) 梅毒流行も頷ける絵である。
面白いのは、当時のヨーロッパでは蒸気浴の類もあったらしいことだ。
スイスのカントン、アッペンツェル 、ザンクト・ガレン 、トゥールガウなどには「パン焼竈風呂」とよばれる浴場があった。パン焼竈の真上が浴場になっていて、熱気が穴を通って浴室の床に登り、あるいは栓のついた金属パイプで上の階に導かれ、そこには周囲に腰掛がしつらえてあった。パン屋は風呂の準備ができると角笛を吹きならした。この習慣は一八六六年までのこっていたという。
「6 共同浴場 」p.86より
「パン焼竈風呂」なんて、興味しか湧かない。
匂いとか最高なのでは?と思ってしまう。
他にも、以下のような記述もある。
ヨスト・アンマンの『身分と手工業者』(一五六八)は、ハンス・ザックスの筆になる次のような面白い呼び声を伝えている。「お金持も貧乏人も風呂屋 へおいで、お湯は熱いよ、香り高い石鹸で肌を洗うよ。さてその次はたっぷり汗かく部屋へ御案内、さっぱりと汗を流したら御髪の手入れ、悪い血は流し、仕上げはたっぷり揉み療治、いい湯かげんの上り湯もあるよ。」
「6 共同浴場 」p.86より
この「汗かく部屋」の描写がどうもフィンランド のサウナと酷似しているのだ。
熱せられた石に水がかけられて蒸気がいっぱいになる。その間、***三助が白樺の枝の束などで皮膚をたたく。たっぷり汗をかいたあとで再びぬるま湯をかぶり、身体をこする。
「6 共同浴場 」p.86より
***三助は現代の銭湯ではイメージがないと思うが、背中を流してくれる人のこと。時代劇系の小説を読むと出てきたりするので、是非探してみて。
中世の蒸し風呂(「6 共同浴場 」p.87より)
これが衰退していった背景として、梅毒の流行が挙げられることが多い中で、
阿部謹也 は、「それだけとは思えない」と主張している。
この本の中では、ヨーロッパの共同浴場 衰退の要因のして、
・「木材(燃料)の価格騰貴」
・「梅毒の流行」
・「浴場が堕落頽廃したこと」
・「浴場での治療が禁じられたこと」
・「浴場が教会と国家に対する反体制派の溜り場になったこと」
・「浴場主が差別の対象とされたこと」
を挙げている。
現代チックに考えて見ると、EVの普及の広まり方が、単なる環境問題に対する意識の変化によるものだけだとは思えないのと同じで、普及していたモノがなくなるにも、名目的な理由はあれど、その実、色々な理由が隠れているということだ。
まあ、細かい理由や真実はどうであれ、私は専門家ではないので、「男女が交流に勤しみ過ぎたせいで、お風呂禁止になった」くらいのふんわりザックリ触感で受け取めていいと思っている。そっちの方が人間臭くて笑えるし。
ただし、ヨーロッパと言っても、先程のロシアのバーニャの例のように、入浴文化が消えなかった国も存在したのではないかと思う。たとえば、イタリアとかオーストリア のような温泉大国(新期造山帯の上にあるような国)は別だったのではないか(入浴と文化が切り離せなかった地域もあると考えられる)。
代々のローマ法王 は、ローマからちょこーっと北に行ったところにある、教皇 御用達の温泉地Terme dei papi(直訳:papaたちの温泉。"papa"は英語の"pope"で教皇 の意)に通っていたと言うし。
フランス革命 で、「みんな、ケーキ食べよ〜ぜ」発言をしたとかなんとか云われる、マリー・アントワネット は、オーストリア から嫁いできたおかげで、入浴の習慣があったらしいしね。
(一応説明しておくと、当時のフランスでは、入浴の代わりに香水でクサいのを誤魔化していたと言われる。つまり、アレだ。大学生が風呂入らないで、クサいのをファブリーズで誤魔化すようなものだ。入浴をサボっても怒られない御フランスに来ても、「ファブリーズで誤魔化す的行為」をしなかったマリー姉さんは偉大である。私も毎日シャワー浴びないと落ち着かないので、私も偉大である。ちなみに、姉さんが使っていたバスタブの痕跡がヴェルサイユ宮殿 には残っているらしい。見たことないけど。)
あと、日本も温泉大国だから、お風呂禁止するわけないしね。
江戸の銭湯は混浴だったけど、おばちゃんガードが強かったおかげで、若い女 性も守ってもらいながら入浴できたという話を杉浦日向子 先生の本で読んだ気がする。とはいえ、性に奔放な時代に、不純な行為が全くなかったとも思えない。結局、混浴のお風呂が消える要因は、政治的・宗教的なものに思えてならない。
さて、サウナの話に戻ろう。
何が言いたいかというと、
宗教とか政治の問題で、お風呂もサウナも北欧社会(フィンランド は1809年までスウェーデン王国 に属していた。Cf. Wikipedia )から排除されたのだ。
ただ、フィンランド は偶々、政治や宗教的に影響力の弱い(or 影響を与える必要の薄い)地域だったから、サウナが”生き残った”とも読み取れる。あるいは、フィンランド のサウナ愛が強すぎた結果、サウナが”生き残った”のかもしれない(強いサウナ愛のおかげだと考えた方がなんだか素敵で気持ちが良いので、私は「サウナ愛は勝つ 説」を推そうと思う)。
これが、ヴァイキング 時代には既にサウナ文化が存在していたにもかかわらず、現代スウェーデン でサウナ文化が希薄に感じられる理由だろう。そして、フィンランド では、サウナ文化が生活の一部として息づいている理由である。
私は単純に「サウナがフィンランド から伝来したもの」と思っていたが、どうもそれだけではなさそうだ。サウナは北欧やヨーロッパから一度なくなって、再導入されたのだ。『至福の北欧サウナ(以下略)』にも書いてあったが、サウナのルネッサンス が起こったのである。
サウナが生き残った国、フィンランド 。
サウナを最後まで愛していた者が勝ちなのだ。
つまり、私も勝った。
私は満足だ。
いや、勝ちってなんだよ?
ちなみに、サウナが生き残った国の一つがフィンランド だよ、という話もこの本に書いてあった。自分で発見した気になっていたけど、ちゃんと読めよっ!!
サウナ本(『至福の北欧サウナ(以下略)』)には、フィンランド 人のサウナ愛を表す小噺(20世紀後半のもの)もあったので、最後に紹介したい。
「フィンランド の宣教師が人食い人種に捕まり、蓋をかぶせた大きな鍋の中で茹でられた。数時間後、フィンランド 人宣教師は蓋をノックし、こんなに素晴らしいサウナは久しぶりだと感激を伝えた」
(p.104 「聖霊 と妖精と呪文」)
ちょっと、ステレオタイプ っぽくもあるけど、Finnish jokeっぽい。楽しい。
はい、ということで、
実生活にこれっぽっちも役立たない、サウナ談義でした。
ふぅ〜。また無駄な知識を増やしてしまった。
フィンランド に行って、サウナに入れればいいから、由来やら背景なんてどうでもいいのにね。
あと、大層な困難が伴うとは思いますが、本を読むときは、あまり文字を飛ばさないで読むように気をつけようと思います。
反省、反省、超反省。
めっちゃ反省できた〜!!
それでは〜。