グーグルに淘汰されない知的生産術
「中央公論」編集部の田中正敏さんからメールが届いた。「『ウェブ時代をゆく』を語る」をまとめてくださった田中さんである。
「グーグルに淘汰されない知的生産術」ですが、『読売新聞』書評同様、もしよろしければ販売期間終了後(5月9日)を目処にブログにて公開していただいても、と思います。非常に充実したお話でしたので、より多くの方の目に触れればと思う次第です。
ありがたい申し出をいただいたので、ここに全文を公開することにします。
「中央公論」五月号の「特集・知的整理法革命」(野口悠紀雄、梅田望夫、外山滋比古、佐藤優、勝間和代、茂木健一郎)という文脈で、田中さんの取材を受け、勉強や仕事の仕方について僕が二時間ほど話をした内容をもとに、彼が文章にまとめてくれたものです。
さすがにこのテーマだとほぼすべての人が、それぞれの観点からグーグルを論じていて面白かったです。
どうぞお楽しみください。
旧来の整理法は無意味に
ウェブ時代に生きる私たちは、日々膨大な情報と接しています。そこから本当に有用な情報を選択し、後に必要になったとき、そのエッセンスを素早く引き出せるように整理できるかどうか。これが知的生産の効率を大きく左右します。
情報の整理については、これまでもさまざまなテクニックが紹介されてきました。しかし、グーグルの登場が情報整理のあり方を根本的に変えました。頭の片隅に残っているいくつかの言葉で検索すれば、探していた情報に辿り着けるようになったからです。今はまだ最初からウェブ向けに書かれた情報が中心で、本や雑誌など活字の情報は限られていますが、全世界の本をすべてデータ化してしまおうという「グーグル・ブックサーチ」プロジェクトがさらに進めば、古今東西のあらゆる本もその対象となるでしょう。
変化は急速に進んでいます。『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォールストリート・ジャーナル』のように、記事への課金にこだわり、そのためグーグルの検索の手が及ばなかったメディアも、前者は全面的に、後者は徐々にという違いこそあれ、開放へと舵を切っています。この流れは止まりそうにありません。グーグルの検索が活字の世界まで覆うことを前提に、本当に効果のある情報整理だけを行う。そういう心構えが必要でしょう。
つまり、気になった記事や論文を切り出して、ファイルに保存して……といった旧来の整理法はもはや無意味で、自己満足にしかなりません。これは紙によるアナログなものだけを言っているのではなく、デジタルのデータを自分のパソコンに保存するとしても同じことです。グーグルが全世界規模でブルドーザーのように情報整理を行っているので、印象に残った記事や論文全体を読みたいのなら、関連するキーワードを三つくらい入力してグーグルで検索すれば、すぐに呼び出せるようになります。
情報の「肝」を書き出す
それでは、今意味のある情報整理とはどういったものなのでしょうか。
僕は近年のグーグルの急成長を受けて、グーグルで一から探すよりもずっと早く必要な情報のエッセンスに辿り着けるよう、情報整理の技術を磨いてきました。
カギを握る考え方は、グーグルが扱う情報の単位、つまり記事、ウェブサイト、論文といった単位よりも、粒度の高いレベルでの情報整理を、情報処理の時点で行っておくことです。
まず、情報全体をそのまま保存するのではなく、元の情報を凝縮したものを書き出します。それは要約でもいいと思いますが、僕の場合はその文章の「肝」だと感じた箇所を抜き書きするようにしています。
書き出す先は、非公開設定にしているグループウェア上のブログです(長い引用をした場合、著作権の問題も発生するので、公開していません)。こうしてウェブ上のプライベートな空間に、精選・凝縮した情報を集めることで、脳の外部記憶装置の役目を持たせています。ウェブ上にあるので、その後の検索や閲覧、管理も容易ですし、研究や仕事の仲間との共有も簡単です。
某か凝縮した内容を「書き出す」という点が重要です。梅棹忠夫が『知的生産の技術』で、知的生産とは「あたらしい情報をつくりだす作業」だと喝破していましたが、情報の「肝」を書き出すという、より粒度の高い、きめ細かな整理を行うことで、整理の段階から知的生産を始めることができるのです。情報を整理し、それを元に知的生産を行う、と分けて考えがちですが、単純な整理はグーグルが担ってくれる今、両者は不可分なものになっています。
裏を返せば、「肝」以外を捨てる技術だと言えるかもしれません。とりわけウェブの情報量は無限大で、かつ玉石混淆なので取捨選択が重要ですし、本を精読するにしても、その情報を使いこなすためには凝縮が必要です。いい寿司屋は、魚の本当にいい部分だけを残して、他は惜しげもなく捨てますよね。自分でルールを作り、同じことを情報について行う。するとウェブ上のプライベート空間に、最高のネタがびっしり敷き詰められます。グーグルに淘汰されない情報空間を自分で作るわけです。そしてそのネタを使って最高の寿司を握る、つまり知的生産に繋げていくのです。
本から「肝」を抽出する方法
では実際に、僕は一冊の本をどのように読んでいるか。本を読むときに欠かさないのは、読んでいて気になったページの上端を折ることです。こうしないと後でその箇所を探すときにムダな時間がかかってしまう。線まで引くと思考が途切れるので、読書中は上端を折るだけです。
読み終わると、その必要がある優れた本であれば、言葉を抽出し、プライベートなブログに書き写す作業に入ります。折り目のついたページが一五ページあるとすると、そこだけを再読し、「これが肝だ」という箇所をカギ括弧で括ります。すると二〇から三〇程度の箇所が残る。パソコンに向かって打ち込む際に、さらに選別して、特に心に残った箇所だけを書き込みます。
一連の作業には時間をとられるので、その時間投資に見合うだけの、本当に精選・凝縮した内容を抽出するように気をつけています。後からその本の内容を参照するときには、書き写した文章をまず見ます。原稿を書くときに引用するのも、決まってそのうちの一文です。万が一、それに満足できなければ、だんだん戻っていけばいい。つまりカギ括弧で括ったけれど書き写さなかった箇所、そして折ったページ周辺、それでも見つからなければ本全体をもう一度確認するわけですが、そこまで戻ることはまずありませんね。
本を読む際にこういう作業をしていると、書く側に回ったとき、絶対に捨てられない文章ばかりで全体を満たすというのが目標になります。だから、「全ページに折り目をつけてしまった」とか、「すべての文章に線を引きたくなった」といった感想を読むと嬉しいですね。『ウェブ進化論』を出して以来、二万以上の感想を読んできましたが、本のありとあらゆる箇所に対していろいろな角度からたくさんの感想が述べられるということは、それだけ密度の濃い本を出せた証拠じゃないかと感じています。
しかし、他人の文章を読んでどんどん切り落としていく厳しさで文章を書くことを自らに課すと、それまでの一〇倍や一〇〇倍の努力が必要になることがわかりました。費やす時間を考えたとき、経済的につりあうかというと……(笑)。ただ僕の場合、経済合理性は本業であるコンサルティングや投資のビジネスに置いて、著作活動に対しては、あえて採算度外視で思いきった時間投資をしています。それが本当に好きなことだからです。
組織ではなく時間の勝負になる
また、これからの知的活動において、どこの組織に属しているかという要素は、これまでほど重要ではなくなると思っています。なぜなら、グーグルなどウェブの力により、誰もが無料で多くのことを勉強できるようになってきたからです。現時点では、あらゆる分野に敷かれているわけではないですが、「学習の高速道路」と呼ぶべき、構造化された知のシステムがいろいろな分野で構築され、提供されています。世界中の大学の講義もどんどん公開されています。
これからの知的生産は、組織ではなく時間の勝負になるのではないでしょうか。僕は「在野の時代」が来ると思っているんです。大学などの組織に属していなくても、時間が自由に使える状態にあれば、それはとても大きなアドバンテージになる。早期にリタイアした人や、結婚して仕事を辞めた主婦などに、高度な知的能力を備えた人が少なくありません。事務処理や会議に忙殺されて知的生産の時間がとれない大学教授よりも、時間を自由に使える在野の人が輝く時代が訪れるのではないでしょうか。
大学の先生は「一般人に負けるわけがない」と思うかもしれないけれど、じっくり考える時間が持てずに、本当に知的活動ができているのか、真摯に考える必要があると思います。もちろん専門分野の知識では、一般人は勝てないかもしれないが、より総合的な知的能力や言語化する能力、その結果の知的生産物という点では、どうでしょうか。これからの時代、知的活動において、時間がない人こそが圧倒的な敗者になるのではないかと思います。
僕の場合はある時から、自宅のあるアメリカのシリコンバレーでは可能な限り人に会わず、物理的な移動をしない、というルールにしたことで、知的活動に割ける時間が一気に増えました。今は一日中研究したり勉強したりしていると言ってもいいくらいです。そして、そこで得たものをムダにしないよう情報の整理に心を砕いているのは、既に述べたとおりです。
書くことにおそろしく時間をかけるので、テーマ選定には細心の注意を払い続けています。現代において自分が取り組むべき重要なテーマは何か、それは自分の固有な経験が活き、誰も手がけていないことだろうか、といったことに、パラノイアのようにこだわっていますね。他の人と同じ内容を書くことで、時間をムダに費やすのが嫌なんです。情報の選択と抽出というミクロな作業の一方で、自分の立場を俯瞰的に見たマクロな判断が欠かせません。
僕は年に、日本語、英語あわせて一〇〇〇冊ほどの本を買っているのですが、しゃぶり尽くすように読み、細部の抽出にまで至る本は三〇冊くらいです。何が書かれているのか、内容を確認するための読書が多いです。読書というより、扱っているテーマや書き方を把握するだけの、まさに「確認作業」ですから、一冊あたり五分や一〇分で終わります。特にITや経営など、僕と専門が重なる著者による本は、自分が他人と同じことを書かないで済むようにくまなくチェックします。こういった作業を素早くできるという意味で、ウェブに比べて本の俯瞰性がとても役に立ちます。この点は本という形態の強みですね。「俯瞰」ということも、グーグルを超えて、私たちに求められるキーワードでしょう。
グーグルという「知的エンジン」
ちなみに自宅と会社には、本が合計一万五〇〇〇冊ほどありますが、本の整理についても、どういう配置にすると必要な本に辿り着くまでのアクセス時間を短縮できるか、いつも考えています。
本棚ごとにジャンル分けをしており、たとえば会社の本棚にはITや経営、経済、シリコンバレーに関する本を、それ以外は自宅に置いていますが、それよりも重要なのは、すぐにアクセスする必要のある、その時点で自分にとって重要な本を、手に取りやすい位置に出しておくということです。だいたい手前から奥へ本を二、三列にして並べているのですが、必要性が薄れるごとに後ろに下げて、二度と必要ないと判断すれば処分するようにします。もちろん机の上に置いてある本は、そのとき一番重要なものですね。
本棚はその時々の自分の写し絵だと考えています。だから、年に一度くらい、大規模な配置替えを行いますね。果たして配置替えの時間を投資するほど、自分の関心は変わっただろうかと常に注意していて、あるとき見極めて、一気に取り掛かります。配置替えが終わった本棚を俯瞰して眺めることで、自分のテーマが浮かび上がってくることもあります。本棚というのは、そもそも大量の本を俯瞰して眺める道具でもあるわけですから。
何事についても、僕が考えるときの軸はまず時間なんですね。いわば「唯時間論」。知的生産の工夫についても、全部時間を切り口に説明できます。自分の自由にできる時間をいかにたくさん生み出すか。そればかり考えている。
そのための核にあるのが、情報を選択・抽出するためのミクロな技術であり、一方では自分にとってなすべきことかどうかを判断する俯瞰的な、マクロな技術です。これらのグーグルが担わない技術を確立している人こそが、グーグルに淘汰されず、グーグルを本当に使いこなせるし、その登場に興奮できるのだと思います。
僕はグーグル以前から、そういった技を身に付けてきたつもりです。だから、旧来の整理が必要なくなり、知的生産の始まりとしての整理に集中できるようになったことで、自分の力が急激に増幅され、知的生産の効率が飛躍的に高まりました。グーグルが僕にエンジンをつけてくれたような感動があります。その結果、僕は『ウェブ進化論』のような本を書けた。僕は最近寿命が延びたような感じさえするんですよ。効率がよくなって時間がますます凝縮されたから、でしょうね。
万人に開かれた時代
最後に読者に伝えたいことがあります。広く「知的生活」と言いますが、知的生活というのは知的消費と知的生産を含んだ概念です。梅棹忠夫が述べているように、本を読むだけで終わるなら、それは知的消費であり、感想文を書くなりして初めて知的生産になる。その差は突き詰めて言えば「書く」かどうかにある。知的生活を充実させるにあたり、最初の関門は「書く」ことだと思います。
次の選択肢は、書いたものをオープンにするか、それともクローズにするかということでしょう。かつてならば、広く一般に発表するには出版社を探すなり、それが難しいなら仲間を集めて同人誌を作るなどの、乗り越えなければならない壁がありました。しかし、今はブログなどのサービスを利用して、ウェブ上で手軽に文章を発表できるようになりました。ぜひ文章をオープンにしてみましょう。すると今度はあなたと関心や志向性の近い人たちとの結びつきが生まれ、新たな知の創造へと繋がります。
つまり、まずは旧来の整理をグーグルに任せ、知的生産のスタートに必要な情報の整理に集中し、知的生活のための時間と「ネタ」を確保しましょう。そして次に文章を書き、ウェブで公開する。すると創発的な、知の共同作業のような状況が生まれる。今度はそれをフィードバックし、新たな知的生産に繋げる。
こういった知的活動のプロセスが万人に開かれ、個の知的生産能力が大きくパワーアップされたのが今の時代です。グーグルの創業者たちが「世界はより良い場所になってきている」「興奮すべき素晴らしい時代だ」と言うのは、こういう状況を指しているのです。