今日は細田守監督の現在公開中の最新映画である『未来のミライ』を紹介します。
以前、『バケモノの子』のレビューで書いた通り、私は細田守監督の直近の作品は映画館で観てきたので、今作もと思ってはいたのですが、前評判が悪かったので、かなり躊躇をしていました。
するとタイミングよく、子育て中の男性から「斗比主さんの感想を聞きたい!」と背中を押されたので、それならと思い観てきて、本日レビューをする次第です。
すでに公開から時間も経っていますし、ネタバレはあまり気にしないで書きます。そういうのが気になる人や、私のブログを普段から読んでいない人は、そっ閉じをお勧めします。
タイトルにある通り、私は本作について相当モヤモヤしました。
ざっくりとしたストーリー
ざっくりとしたストーリーはこんな感じです。
現代日本で、3歳ぐらいに見える男の子くんちゃん(設定では4歳)が、下に妹ができ(名前は未来ちゃん)、お母さんが育休明けで会社で仕事をし始め、お父さんがフリーランスで自宅で働き始めたことがきっかけで、ちょっと放置され気味になり一人の時間が増えたため、妄想世界を飛び回り、ちょっとずつ親の知らぬところで勝手に成長していくというもの。冬から始まって初夏ぐらいまでの期間を描いています。
タイトルに『未来のミライ』とあるのでSFっぽい感じがしますが、色んな世界に飛ぶ原動力は、科学的なものではなく、くんちゃんの妄想力(+α)なので、ファンタジーに近い感じですね。また、未来のミライちゃん(妹)はキーパーソンとして何度か登場するものの、基本目線はずっとくんちゃんです。
この内容で、このタイトルはちょっとミスリーディングだと思いました。
どうにも物語に集中できない
このように、くんちゃんが主役の話なので、未就学児ではあるもののくんちゃんは結構言葉を喋ります。ただ、どうにも物語に集中できない。理由は、くんちゃん(男児)の声です。アニメ映画なので、声は誰かがあてるわけですが、くんちゃんの声は、若い女性が頑張って小さい子どもの声真似をしているという感じで、凄く違和感がありました。
※劇場予告です。くんちゃんの声がちょっと聞ける。
くんちゃんが自転車の練習をするシーンでは、少し年上の年長~小1ぐらいの男の子たちが登場するんですが、この子達の声はちゃんと子どもの声なんですよね。なのに、くんちゃんだけは若い女性が頑張って子どもの声を出してる感じだから、一人浮いてる。
くんちゃんの声の演技は最初から最後までほぼ変わらないため、この声は意図的な演出で、「くんちゃんは実は幼児ではない設定があるのではないか? 何か大どんでん返しがあるのではないか??」と思っていたのですが、最後まで何も起きませんでした。
この家で子育てするのはシンドい
くんちゃんが妄想を繰り広げるのはもっぱら自宅の庭なわけですが(未就学児で家から外に出る機会が幼稚園?保育園?ぐらいしかなく、家族との関係で嫌なことがあるときの逃避先が庭なので)、この家が非常に子育てしにくそうなんですね。
基本的には2部屋しかありません。4人家族で。1部屋はキッチン、居間、寝室が6段ぐらいの階段を経由してシームレスに繋がっています。お父さんが仕事をするのはキッチン。もう1部屋はくんちゃんが主に遊んでいる部屋です。くんちゃんが産まれたときに増設したもの。そして、2部屋の間に妄想の舞台となる庭があります。両部屋は庭に面しており、その壁が基本ガラス張りとなっていて、どちらからもよく見えるようになっています。玄関は庭から10数段の階段の下にあります。そこに車庫がある。
言葉で説明を聞いただけでは分かりにくいかもしれませんが、私は「この家、育児しにくそうだなー」と思って眺めていました。段差がたくさんあるから、ハイハイしたての赤ちゃんがいつ転げ落ちるか分からない。空調効率も悪そうだから、夏は暑く、冬は寒そう。窓ガラスは子どもの手の届くところにババーンと設置されてるから、子どもが割りそう。
この家、お父さんが建築家で自ら設計した家だそうです。
お母さんからは、お父さんはくんちゃんが産まれたときには何も育児をしていなかったとなじられるシーンが登場するので、こんな子育てをしにくい家になっているのは、お父さんが育児のことを何も考えてなかったからだということを観てる人に訴えかける演出なのかなと思いました。
お母さんの実母もこの家に来て、けったいな印象を抱いたようですし。年寄りが遊びに来るのもハードルがある作りですよね。
わざわざ階段だらけにしたのだから、くんちゃんかミライちゃんのどちらかが階段から転げ落ちるシーンは必ずあるはずだと思っていたのですが、結局ありませんでした。
微妙にリアルなだけに些細なことが気になる
『おおかみこどもの雨と雪』ではお父さんが狼男で、『バケモノの子』ではこちらも(育ての)お父さんがバケモノなわけですが、それと比べると本作は、お父さんは星野源で、一見普通です。
くんちゃんが子どもならでは(?)の妄想を繰り広げるところがメインで、この子どもならではというのを身近に感じさせるために、家族は意図的にむちゃくちゃ特徴的にはしないようにしたのかなと思いました。
ただ、家族の描写はリアルにしているので、上で紹介した過ごしにくい家もそうなんだけど、些細な演出が気になっちゃいました。両親の育児方針や会話が特に。
例えば、妹のミライちゃんが家にきて、お母さんがくんちゃんに「仲良くしてあげてね」「お兄ちゃんだから守ってあげてね」みたいなことを言うんですね。そう言いながら、両親はミライちゃんばかり相手にする。その上、くんちゃんが善意でやったことは悪戯だと思って怒るし、くんちゃんが嫉妬して悪さをしたことは当然ながらもっと怒る。
で、お母さんがくんちゃんに言うことは「お兄ちゃんなのに!」「なんで守ってあげられないの!?」なわけです。お父さんのフォローは一切なし。
お母さんが自己嫌悪する描写もあり、最後の最後は両親が「そこそこの子育てでいいよね」と確認しあうところもあるので、完璧な子育てをできているわけではない、普通の親を描いているというのは分かります。分かるんだけど、ちょっと年齢差がある子育てでの上の子の嫉妬というのは、あるあるなもので、対処策もよく知られています。
お母さんがしでかし、お父さんが(頑張ってる風だけど)何もしていないところを始終見させられて、一方で、くんちゃんは妄想の世界で勝手に成長し、勝手に妹を守れる立派なお兄ちゃんになり、その上で両親が「そこそこの子育てでいいよね」と確認して終わるのを見させられると、何だかなと思うわけです。
これだけじゃ伝わらないかもなのので、もう少し補足すると、くんちゃんが補助輪なしの自転車の練習をするシーンでは、補助輪を外した上で、お父さんが自転車の後ろを持つ昔ながらのスタイルで、くんちゃんは転けまくってやる気を失います。だけど、その後の妄想世界で勇気を与えてもらって、くんちゃんは再びやる気を出し、お父さんが何も手を貸さずとも自転車に乗れるようになる。で、お父さんは超喜ぶわけです。我が事のように。
でも、年齢差のある子育での上の子の嫉妬と同様に、補助輪なしの自転車の乗り方だって、対処策はあるし、結構知られています。ペタルを外して練習するのが効率がいいですよね。ストライダーとかへんしんバイクみたいな商品もある。
他にも、雛人形の片付けが遅れると婚期が遅れるという話。誰も信じているわけではないということになっているんだけど、それを未来のミライちゃん(女子高校生)が物凄く嫌がって、雛人形をちゃんと片付けるようにお兄ちゃんであるくんちゃんにお願いする。婚期が遅れるというのは結婚をすることが前提になっていますよね。別にミライちゃんがどう思うかは自由なんだけど、映画の中で結婚が既定路線みたいなものとして見させられると、何だかなと思う。
更に言えば、ミライちゃんに「女の子は(男の子のくんちゃんと違って)色んな服を買ってあげたくなるよね」みたいなことを周りが言っている描写もありましたし。確かに、女の子のほうが服の着せ甲斐があるというのは、巷でよく言われるのだけれど、婚期が遅れるのと同様に、ジェンダーを規定している感じがする。
この辺のところは、『サマーウォーズ』での旧態依然とした田舎の描写や、『おおかみこどもの雨と雪』での姉の放置プレーや、『バケモノの子』での俺について来い型の疑似親と共通するなと思いながら見ていました。子育て観が何か古臭くて、鈍感なところがある。それをちょこちょこ挟み込むから、どうも気になってしまう。
一つ一つは些細なもので、自分で書いていても、「そんな目くじら立てなくても」と思うものなのだけれど、それが積み重なっているから、こういう育児観っていいよねというメッセージを訴えているように私は受け取りました。
締め
ということで相当モヤモヤしました。
細田守さんの作品では、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』 も楽しかったし、『時をかける少女』は大好きで、『サマーウォーズ』も少々家族描写には微妙なところがあるものの戦闘描写はとてもワクワクしました。後になって見た、おジャ魔女どれみの「どれみと魔女をやめた魔女」は凄かった。
また同じ体験をしたいと思って、最新作を劇場に観に行くようにしていたんですが、『おおかみこどもの雨と雪』はちょっとどうかと思い、『バケモノの子』は苦痛で、『未来のミライ』は全体的に苦しかった。特に、もっぱら家族描写に邪魔されてストーリーを楽しめない。発言小町でのトピ主視点というのなら楽しめないこともないんですけどね。
愚痴愚痴言うのはこの辺にして、私が今の細田守さんの作品のターゲットではなくなったと思い、諦めることにします。