ヴァンダルとローマの同盟 | 時紡ぎ

ヴァンダル(4)~マルコマンニ戦争3~

東欧史

ローマ史を書いた史家は星の数だけいるでしょう。その中の、高名な一人を信じて追従すれば多少間違っていても時代的な整合性は取れる。でも、複数人、いや複数どころか十名以上、いやもっと多くのの史家の書を読んでしまうと何が正しいか全く分からなくなる。

当エッセイは、古スラヴ(プロトスラヴ)のヴァンダル族が、どのようにしてローマと仲良くなり、そして打倒していく流れの中で最も重視すべきマルコマンニ戦争を取り上げています。でも、先述の通りで不肖私のエッセイは、多説を無理矢理繋いでいるので・・・

基本的には、ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』と、155年生まれのカッシウス・ディオの『ローマ史』(の2次、3次編纂もの)を参考にしています。カッシウス・ディオの『ローマ史』は、ディオさんが20年以上もの歳月を費やして書き上げた秀作なのに、半分以上は早い時期に失われたと云われる。惜しいよね。実際に同じ時代を生きたディオさんの原書を読めたら、雑文と言えどももっとマシな話を”作文”出来たかもしれませんが、きっと不整合極まりないよね?今更ながら、ちょっと謝っておきます・笑 (あ、あと地図の右二つはWikipedia先生に拝借を・・・)

ヤジゲス

イラン系遊牧騎馬民族集団サルマタイ=ヤジゲ族を率いていた族長ヤジゲスは、伝説では百歳を超えていた大長老。故に、この戦争の実際の指揮はヤジゲスの孫子達が執っていたという。名前は分からない。

戦争指導者の名前がポンポン出て来るローマやマルコマンニなどに比べると、サルマタイやゴートやヴァンダルなどの(古い時代の)指導者名は殆ど出て来ない。記伝ではなく口伝が多いのでそれは仕方がない。にも関わらずヤジゲスだけは出て来る。伝説の仙人かな?

大首長が超高齢ゆえか自由奔放で統制が取れない(規律が通じない)ヤジゲ族は、ダキアに侵入しては略奪を繰り返した。それを何とか阻止しようとするローマ軍ですが、パルティア王国のような大国家の騎馬隊には対応出来た第5軍団「マケドニカ」でも、自由奔放な戦い方のヤジゲ族には苦しめられた。そればかりか、下モエシア総督というかなり高い地位にあったクラウディウス・フロントも戦死した。

ローマにとって属州ダキアは猶予ならない状況となり、行動を共にしていたヴァンダル族への攻撃は二の次にして、ローマは、ヤジゲ族への集中攻撃に踏み切った。対ヤジゲ戦の切り札として、皇帝マルクス・アウレリウスは、新しい娘婿であり(多分、皇帝の方がずっと若い)、執政官でもあり、パンノニアの軍事総督でもティベリウス・ポンペイアヌスを副将とする(総司令官は皇帝自身)。しかし、ポンペイアヌスを以てしても神出鬼没のヤジゲ族を捕らえることはままならず、ローマ軍は疲弊していく。

トラキア陥落

ダキア防衛に注力するローマはどうしても他の属州の防衛力が薄くなる。手薄になった属州トラキアを襲ったのがポントス・カスピ海草原の遊牧民系騎馬部族のコストボキ族。ハスディンジィ・ヴァンダル族の支族かヤジゲ族の支族かはハッキリしない。取り敢えず、後者かな。コストボキ族は属州トラキアに侵入するとそのままバルカン半島北部までを征圧した。凄まじい掠奪が繰り広げられ、トラキアは無惨な姿になったと云われる。コストボキ族による侵略は収まらず、バルカン半島を更に南下してアテネ市を陥落させるとエレウシス神殿などを破壊した。

マルコマンニ族とは?

マルコマンニ族の出自についても様々な説があるけれど、基本的にはスエビ族の支族で間違いない。マルコマンニ族はローマとの共存共栄に協力的だった。と言うより、ゲルマニアの諸部族でローマに対して初めから協力的な部族など皆無に等しい。

マルコマンニは、紀元前10年のネロ・クラウディウス・ドルスス(第2代ローマ皇帝ティベリウスの異母弟、以降・大ドルススと記載)に敗北した。

蛮族嫌いで知られた大ドルススは、マルコマンニの有力どころを処刑した上で人質を要求。王族の少年マルボドゥスス(紀元前20年代~西暦37年)が差し出された。ローマで教育を受けたマルボドゥススは初代皇帝アウグストゥスに気に入られ、マルコマンニ族がマルボドゥススを族長とすることとローマの協力者として共に行動することを条件にマルボドゥススを戻した。が、ティベリウスと大ドルススはマルボドゥススを信用していなかった。と言うより、嫉妬した?事あるごとに忠告の言葉を口にした。

ローマに学んだマルボドゥススが族長となって以降、マルコマンニ族は軍を組織化して周辺の反ローマ少数部族を吸収し領域を拡張していく。すると、アウグストゥスは方針転換しマルコマンニ族を要警戒対象と位置付け、大ドルススに命じて攻撃した。ところが、属州イリュリアと属州ダルマティアで大規模な内乱が起こる。マルコマンニ族との戦争は中止され、ティベリウスと大ドルススは反乱鎮圧の任を受けた。マルコマンニとの停戦協定として、マルボドゥススがマルコマンニの王であることをローマは承認した。つまり、ローマはマルコマンニを部族ではなく王国として位置付けたことになる。

逆に考えれば、マルコマンニの「国域」がローマによって決められた形となり、「それ以上はローマに近づくな(ローマの領域を侵すな)」という警告の意も込められた。マルコマンニとローマが領域を設定し合った事に対してケルスキ族を率いるアルミニウスは、マルボドゥススに翻意を促す。が、元々仲が悪かったケルスキ族とマルコマンニ族であり、マルボドゥススはアルミニウスの警告を無視する。

そして、アルミニウスはマルコマンニ以外のゲルマン部族と連合して反ローマ戦争=トイトブルク森の戦いに挑み、ローマ軍を壊滅させた(参照記事)。アルミニウスは、マルボドゥススに対してゲルマンはゲルマン同士で組むべきだと同盟に加わることを促すが、マルボドゥススは聞き入れずにローマと共にアルミニウスと敵対する。

ところが、帝政ローマはゲルマン諸族との戦いから全面撤退した。マルコマンニ族は孤立無援となり周辺のゲルマン族達の全てから敵視された。そしてアルミニウスと雌雄を決したが敗北(西暦17年)。マルコマンニ族は元のボヘミアの森の中へ戻る。マルコマンニ族は、親ゲルマン派のカトゥアルダを族長としマルボドゥススを追放。マルボドゥススはローマに救いを求め、第2代皇帝ティベリウスはマルボドゥススの為にラヴェンナに邸宅を用意し受け入れた。

それ以降のマルコマンニ族は基本的には反ローマだったが、マルボドゥススの指導を受けた者達も少なくなかったことで、ローマとの戦争を望むような部族ではなかった。

ローマも、ゲルマン諸族との仲介・交渉役としてマルコマンニ族とは友好関係を保ち、この戦争当初も、マルコマンニ族はローマに協力していた。が、ダキアやバルカン半島の情勢を見て、マルコマンニの王バルロマルは、ローマの力を見限った。

マルコマンニ軍による本陣(カルヌントゥム)攻撃にアウレリウス率いる親征軍は大混乱し、壊滅的大敗を喫した。命からがら逃げ伸びたほんの僅かなローマ軍を追って、マルコマンニ軍は属州ノリクムを経由して(ノリクムは凄まじい掠奪に遭った)イタリア内部へ進撃しアクイレイアを包囲した。

ローマ市民たちは、経験したことがないような出来事に恐怖した。この時のローマにとってのバルロマルは、嘗てローマを恐怖のどん底に落としたカルタゴのハンニバルの再来のように思えたでしょうね。

ヴァンダルとローマの同盟

ローマ帝国は、風前の灯火と化そうとしていたが、嘗てカルタゴに対して奇跡の大逆襲をやってのけたように、此処でもローマは大反撃を成した。殆ど全ての属州から精鋭部隊が駆け付けた。それこそ、属州防衛を捨てて、本土決戦へ向かったわけだ。

それでも、ダキアやパンノニア方面から蛮族が侵入して来たらもうそれでローマはアウトだった。が、ティベリウス・ポンペイアヌスは命がけの交渉に臨み、ヴァンダル族を説き伏せて不戦協定を成した。この裏では、行動を共にしていたラクリンギ族がローマに寝返ったことがきっかけのようにも云われている。が、詳しくは分からない。この後、ヴァンダル族はバルカン半島を荒らし回っていたコストボキ族を攻撃し一掃する。

ローマは、東からの脅威を減らせたことでアナトリア~バルカン経由で次々と援軍を呼び寄せた。マルコマンニ軍は、大軍勢と化したローマに敗北しアクイレイアの包囲網を解いて退散した(172年)。

マルコマンニの反撃

翌173年。ボヘミアへ引き揚げたマルコマンニ族が、近接するクアディ族を引き連れて属州パンノニアへ攻撃を開始した。これに対したのはパルティア戦争で活躍した第12軍団「フルミナタ」でしたが、初期の戦いではマルコマンニ軍に包囲され窮地に立たされた。此処で有名な逸話「雨の奇跡」が起こる。

カッシウス・ディオの著作によれば、『フルミナタは、クアディ軍に完全に包囲されて食料や水を断たれた。兵士達は死に瀕したが、突如、豪雨となる。この雨で喉を癒すことができた。反対にクアディ軍側には激しい雷雨が襲い、こちらは雷光の凄まじさに大混乱に陥った。そして形成は逆転。反撃に転じた第12軍団の攻撃により、包囲軍は総崩れになった』。

カッシウス・ディオは、メルクリウスによる加護ではないかと記述しているが、実際、世界最古にして最初のキリスト教国家アルメニアを保護する目的で結成されたとも云われている第12軍団では、多くの兵士がキリスト教の洗礼を受けていた。そして、この時の奇跡の勝利により、ローマでは、キリスト教徒に対する迫害禁止令が発せられた・・・と云われるがこれは真偽の程は分かっていない。

また殆ど同時期に、ガリア・ベルギカ総督ディディウス・ユリアヌスは、カッティ族とカウキー族の同盟軍が起こした二度目の侵攻を撃退した。

サルマタイ敗北

ローマは、クアディ族を追撃して彼らの領地をほぼ征圧して駐屯地化した。クアディ族は、ローマ軍の監督下に置かれたが、戦争の終わりを受け入れた。

175年。同盟相手のヴァンダル族がローマ側に着いたことで戦争継続が厳しくなったヤジゲ族はローマとの和睦に応じた。属州ダキアに於ける約10万人のローマ人捕虜は全て解放された。更に、大量の駿馬と共に、騎馬隊6千騎がローマ軍に加わることになり、後に、属州ブリタンニアへ派遣された。

ヤジゲ族としても、パルティアの状況が落ち着いたので戦争を長引かせることは得策ではないと判断したのでしょう。その後もヴァンダルとの友好関係は続くので、そんなに怒ってもいなかった?

結果的にサルマタイに勝った皇帝マルクス・アウレリウスに対して、元老院は新たな称号『サルマティクス』を贈呈した。アウレリウスは崩御するどころか新たな称号を得たことで、戦争への自信も手に入れた。そして、自分に取って代わろうとしたガイウス・アウィディウス・カッシウスを討伐した。

176年。ローマ元老院は、皇帝アウレリウスと嫡男ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス(161年生~192年)の為に凱旋式を用意した。更に、マルクス・アウレリウスの記念柱建造が約束された。

左から コッケイウス トラヤヌス ハドリアヌス アントニヌス・ピウス マルクス・アウレリウス ルキウス コンモドゥス

最終戦争(177年-180年)

177年になると、クアディ族はローマに対する反抗を開始した。それに呼応しマルコマンニ族が援軍を差し向けローマ駐屯軍を追い出した。アウレリウスと元老院はゲルマニアへの親征軍派遣を決定し、178年にマルコマンニ族への集中攻撃が開始される。マルコマンニが撤退したクアディ領は、179年半ばくらいまでに完全征圧された。

マルコマンニ族とクアディ族は北へゞと追い詰められていき、親征軍は両族を滅亡させる事さえ可能だった、かもしれない。ところが・・・

180年。皇帝マルクス・アウレリウスは、ウィンドボナの陣営地で病に倒れそのまま崩御した。ローマを混乱させない為に、元老院は、嫡男コンモドゥスの皇帝即位を支持する。

親征軍も元老院も戦争継続を求めたが、新皇帝コンモドゥスは、更なる長期化の懸念と軍事費膨張を理由に戦争終結を宣言。マルコマンニとクアディに対しては、ヤジゲ同様に兵の提供を約束させ、更に、毎年の税徴収も承諾させた。

コンモドゥスと姉ルキッラ

左から ルーヴル美術館貯蔵の(ルキッラをモデルとした)「軍神マルスと女神ウェヌス」、、、真ん中上左=ルキッラ、、、ヴィーナスとアンドロメダ(美貌のルキッラを想像するとこうなる・笑)、、、右、剣闘士

壊滅状態のマルコマンニを滅亡させずに救った。一見、気の優しい皇帝のようでもあるがとんでもない。映画『グラディエーター』でも描かれたように、左利きの剣闘士として実際に数百試合に出場した剣闘士皇帝である。この事は、同時代の元老院議員で史家のカッシウス・ディオが『ローマ史』に記している。

人殺し、動物殺しを趣味のように楽しみ、数百名の女を集めては饗宴に勤しんだ。血生臭く、性欲旺盛だったが、唯一頭の上がらない存在が、姉であり、アウグスタ(皇后)でもあり、女神ウェヌス(=ヴィーナス)或いはアフロディーテの生まれ変わりとも称された美貌の持ち主ルキッラ。

コンモドゥスが父マルクス・アウレリウスの次期共同皇帝として指名されたのは5歳の時だとも云われている。実際に共同皇帝として即位したのは177年。17歳の時だった。そして180年にアウレリウスが崩御して単独皇帝となる。

その時、姉婿のティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌスが強く反対したにも関わらず、マルコマンニ族とクアディ族を許したばかりか、彼らの元の領地をほぼ回復させた。結果的に言えば、その事に感謝したマルコマンニ族とクアディ族は、近接したブリ族を加えてやがてフォエデラティとしてイベリア半島へ移住。親ローマであり続けた。西ローマ帝国終焉後、ガリシアにスエビ王国を建国。ポルトガル王国やカスティーリャ王国誕生の源となった。

そこまではいいが、兎に角、政治より自分の趣味を優先した。その事を案じた夫・ティベリウス・ポンペイアヌスこそ皇帝位に相応しいと本気で思っていたか、或いは、史上初の女性皇帝になりたかったのか、ルキッラの美貌に魅了されていた愛人達を使ってコンモドゥス暗殺計画を企てた。が、相手はやわな男ではなく剣闘士皇帝である。側近も名うての剣闘士が揃っていた。というわけで、暗殺者(刺客)は逆に返り討ちにあった。暗殺計画に加わった全ては処刑されたが、ルキッラを実の姉としても(近親相姦の相手という噂がある)としても実は愛していたと云われるコンモドゥスは殺せなかった。それでルキッラだけは殺さずにカプリ島へ流刑となった。尚、ティベリウス・ポンペイアヌスにも嫌疑が懸かったが、何も関与が無かった。しかし妻ルキッラが皇帝殺し(未遂)の罪人となったことで政界を引退。

この事件には、元老院議員がかなり関与していたというし、カッシウス・ディオもその一人だった可能性があるけれど、ディオはこの件に関してはあまり触れたくなかったのか真実は闇の中。

でも、コンモドゥスは結局最期は毒を盛られた上で剣闘士ナルキッソスに暗殺された(192年)。

ハスディンジィ・ヴァンダルのその後

ローマを勝利に導いたハスディンジィ・ヴァンダル族は、ローマの協力者としてダキアの西半分と現在のハンガリーが領地として保障された。それに加えて、ローマの市民権を望む者にはそれに見合う教育を受ける条件で移住が認められるなど、ローマと共に歩むようになった。シレジアのヴァンダル族に対してもローマは協力者として認めた。

ローマとハスディンジィ・ヴァンダルの蜜月関係は続いていくが、ローマとゴート=ロンバルド族の関係はそれほど好転はしない。ということで、親ローマのヴァンダルとゴート=ロンバルドの関係も極めて不安定だった。尚且つ、アラン族に対しても関係改善は容易ではなかった。

先行き不透明なヴァンダル族ですが、この後、西ローマ帝国軍の最高司令官となるフラウィウス・スティリコの話、ゴートとの戦争、フン族襲来、ヴァンダルとアランの王となるガイセリックの話~西ローマ占領~ヴァンダル王国建国~滅亡~・・・ポーランド建国など様々なことが起きていくのですが、ちょっと間を空けて続きを書きます。

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