歴史の流れを見ると、時代のぼう大さ複雑さにくらべれば、個人の生涯などほんの小さなひとつの点にしかすぎないのだが、 その小さなひとつの点を逆に拡大していくと、
そこに圧縮されていた時代のすがたが再び時代の大きさ複雑さをそなえてあらわれてくる。・・・
土屋文明さんは、「新しき光の中に置きて思はむ」と詠みました。いま私たちは、逆に伊藤千代子の短かったがまっとうに生きた生涯に 「新しき光」を照射して、見直しているということになります。そのことで、新しい時代の展望・眺望を見定めていきたい。
伊藤千代子の墓碑と顕彰碑のある丘に登れば、諏訪湖と、その周辺に広がる一帯(諏訪盆地の西半分)を展望することができます。この地が、18歳までを過ごした千代子の故郷です。
当時の長野県諏訪地方は、国内有数の生糸生産地として製糸業が活況を呈していました。
その契機は──対米生糸輸出の増加(第一次世界大戦の影響)と、中央線の岡谷までの開通(輸出港・横浜との直結)――二つの追い風を受けたためでした。
農村から供給される繭と、若い労働力としての工女が、生糸製糸業を支えていました。
千代子は1905年(明治38年)7月21日、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)真志野に生まれました。ちょうど日露戦争が終結し、中央線が岡谷まで開通した年でした。
2歳で母と死別、3歳の時、父は協議離婚し、祖母に育てられました。しかし、9歳の時、中洲村(現・諏訪市中洲)の母の実家(岩波家)に引き取られ、祖父母のもとで育てられました。
小学校も湖南小から中洲小下金子分教場へ、さらに中洲小本校へと移りました。
千代子は、もの静かな読書好きの少女でした。幼友達は「背が高くて、とてもきれいな人」「あだ名は弁天様だった」 「庭球をよくやりました」「成績は抜群、面長で色白、クラス一の美人でした」などと回想しています。
上諏訪町(現・諏訪市上諏訪)の諏訪高等女学校(現諏訪二葉高等学校)へ入学した千代子は、教頭として赴任して来た歌人・土屋文明と出会います。在学中、文明から英語・国語・修身の授業を受け、文明夫人からは自宅で英語の補習を受けています。千代子が3年生の時、文明は同校の校長に就任しました。
土屋校長のもと、自由な雰囲気だった同校の校風も、千代子の思想形成に影響を与えました。諏訪高女は、〈自由と個性尊重〉を信条とする白樺派文化運動の風の、諏訪における発信地でした。同校では千代子在学中だけでも、柳兼子独唱会、ブレーク版画展が開かれ、近くの温泉寺では岸田劉生展が開かれています。図工教師の紹介で会場を訪れた千代子たち学生に「麗子の像」は、鮮烈な印象を与えました。
千代子は諏訪高女時代、島崎藤村、ツルゲーネフ、ゴーリキー、トルストイなどを愛読し、ヒューマニズムに開眼。豊かな知性と感性を身につけた千代子は、卒業式の総代にも選ばれ、文明の記憶に残る生徒でした。
ちょうど千代子卒業の年(1922年7月)に日本共産党が創立されました。
当時の日本は、天皇絶対の専制政治のもと、国民は「臣民」(天皇の家来)とされ、貧困と無権利状態にありました。千代子はしだいに、社会の不公正に目覚めていきます。千代子は後年、獄中から従妹にあてた手紙で、女学校時代をこう振り返っています。
「諏訪の先生達は藤村や赤彦の詩や歌をよく教えてくれましたが、これから世の中に立ってほんとうに自分の新しい道をみつけなければならない子どもに、実際の社会はどんなものかという事については、一言も教えてはくれませんでした。その為に私はどんなにまわりまわって苦しんだかしれません」
諏訪高女を卒業した千代子は、その後2年間、代用教員として上諏訪町(現・諏訪市)の高島小学校で教鞭をとりました。高島小は、諏訪教育のリーダーを自認する中心校で、白樺派の教育には批判的、男子には奮闘的精神を、女子には天真さを指導方針としました。
千代子先生には、〈弁当さえ持って来られない子どもたちに、自分の弁当を分けてやった〉というエピソードが伝えられていて、温かい心配りが偲ばれます。
千代子の諏訪での18年間は、大逆事件・第一次世界大戦からロシア社会主義革命・米騒動・関東大震災とつづく、まさに激動の時代でした。 千代子は18年間暮らした故郷・諏訪の地から、いよいよ大きく飛び立つ決心をします。
千代子の高島小退職は突然のことでした。千代子は親友に宛てた手紙で「〈これからこそ、お前は一人行くのだ!〉、昼も夜もその声が聞こえるようになったのも近頃です。私は、ある小さな目論見の準備として、英語を専心やっております」と吐露しています。
千代子が飛び立った先は、遠く離れた東北・仙台。仙台市の尚絅(しょうけい)女学校英文予科でした。尚絅女学校は、アメリカの若い女性宣教師たちによる家塾にはじまるミッション・スクールです。民主的で自由な社会人を育てる教育方針のもと、第一次世界大戦後は平和教育が重視されました。進学を目指していた千代子は、寮から出て教師宅へ寄留。英語などの受験勉強に力を集中した1年間でした。
千代子は、故郷の友人に望郷の歌を書き送っています。
〇異郷(とつくに)の都の秋のかなしさに 山 に登りて一日なぐさむ
〇信濃なる故里の山に教え子を 思い出す日は泣かまく思う
〇はるばると信濃より来し梨の実の 皮むく 指をしみじみとみき
治安維持法と男子普通選挙法がセットで公布 された1925年、東京女子大英語専攻部2年に編入学した千代子(20歳)の、東京での活動がいよいよ始まりました。なお、治安維持法の成立には信濃国諏訪郡御射山神戸村(現・長野県諏訪郡富士見町)出身の小川平吉(当時、加藤高明内閣の司法大臣)が深く関わっていました。
そのころ、社会進歩の道を模索した先進的な学生たちは、科学的社会主義の理論を学びはじめ、1924年には学生社会科学連合会が結成されています。 「まわりまわって苦しんだ」千代子にその苦しみをのりこえさせたのは、社会の矛盾の根源を明らかにし、解決の道を示した、この科学的社会主義の理論でした。
千代子は東京女子大に入学した春、他の3人の学生と学内に社会科学研究会を結成。マルクスの『資本論』、エンゲルスの『空想から科学へ』などを旺盛に学びました。学内の社研に参加するなかで思想的に大きく成長。中心メンバーの一人として社研組織拡大のために活動しました。さらに21歳で学外のマルクス主義学習会に参加、22歳で女子学連結成に参画、委員として活動しています。
千代子は後年、郷里の6つ年下の従妹・岩波八千代あての手紙にこう書きます。 「これからこの社会に生き、この社会で仕事をしていこうとする青年男女にとって、真に真面目になって生きようとすればするほど、この目の前にある不公平な社会をなんとかよりよいものにしようとする願いは、やむにやまれぬものとなってきます。私の勉強もそのやむにやまれぬ所から生まれて来ました」
1927年に東京女子大に入学、千代子の誘いで社研に入った塩沢富美子(後の野呂栄太郎夫人)は、回想しています。「秋も深まるころ、突然千代子さんは寮を去られましたが、その空いた小室に私が移りました。窓ぎわの作りつけの机の引出しをあけてみると、そこにおびただしいローソクの燃えたれが残っておりました。寮は10時の消灯で、マルクスやレーニンの本を読むことは大っぴらにできませんでしたので、夜ローソクをともして勉強していて、私たちはローベンと称していましたが、千代子さんがいかに勉強していたかということを思いました」(「信州への旅」)
学習を通じ社会変革に生きることを決意した千代子が寮を出たのは、女子学生の社研活動を指導していた日本共産党員・浅野晃との結婚のためでした(浅野には諏訪中学で英語教師として教鞭をとっていた経歴があります)。
結婚後、千代子は学外活動に力を注ぎました。野呂栄太郎主宰の「産業労働調査所」や「無産者新聞社」へ足を運んでいます。また、「東京本所の紡績工場で働いた」という説もあります。救援会諏訪支部準備会の出した「呼びかけ」(追悼文)には「学校をやめ、私たちの生活をよくするために自分も東京本所の紡績工場に働きながら勇敢にたたかってくれました」とあります。
22歳のとき千代子は、平野村岡谷山一林組製糸争議を激励するために帰省し、ビラ配布などをします。これは、工場の8割以上の労働者が結集した大争議でした。
このとき労農党から立候補した藤森成吉候補(上諏訪町出身・現諏訪市)応援のため、千代子は、ふたたび帰省しています。藤森成吉候補は、当選には至りませんでしたが大健闘し、世間を驚かせました。
当選した山本宣治は、この年提出された治安維持法改悪案(最高刑が死刑)に強く反対し、翌年、右翼の暴漢に刺殺されています。
帝国主義戦争反対などの主張が「国賊」「非国民」扱いされた時代、郷里の祖父母は千代子の歩んだ道を心配します。これにたいし千代子は、さきの岩波八千代への手紙に書きます。
「働いても働いても貧乏している人達の味方になって、そんな悪い社会を何とかよくしたいために勉強していることは、あなたもよく知っていてくださることと思います。私は正しいと信じたことは、どこまでもつき進まずにはいられない性質です。皆様のおなげきは、私のしようとしている事のほんとうのことがわからない為だと思います。大きな、長い目で見た時、私自身の持っている才能を一番よく発揮し得た時、お祖父様方のご恩に最もよく報いられるのだと思っています。何か新しい、ほんとに世の中のためになる仕事を始めた人々は、だれでも初めは社会からつまはじきされたものです。私は強い確信を以て、正しい勉強をし、やがて皆様へのご恩返しになるようなものになる準備をしていることをあなたに信じていただきたいのです」
千代子が願った社会変革の方向は、国民の苦しみの解決と民主主義的変革、主権在民と社会的平等が保障される社会でした。
日本共産党員となった伊藤千代子は、すぐ党中央事務局の任務につきます。具体的には「27年テーデ」にもとづく党の方針を印刷するためのガリ版を切る仕事でした。
「27年テーゼ」──この天皇制国家における日本共産党の方針をまとめた綱領的文書は、君主制の廃止による民主主義革命を強調するとともに、日本帝国主義の中国侵略を鋭く予見し、糾弾していました。また、大衆組織を発展させ、統一戦線の方針を持つよう提起したこともテーゼの新しい特徴でした。党はテーゼにもとづく方針と体制確立にむけ、28年2月の総選挙後、第4回大会開催を準備していました。
これに対し天皇制政府は、総選挙をつうじて国民への公然とした宣伝活動を展開した日本共産党の前進を恐れ、同年3月15日、全国一斉弾圧。1、600人に及ぶ日本共産党員と党支持者を検挙しました。〈3・15事件〉です。
その前日から徹夜で原紙を切っていた千代子は15日朝、原稿の文字不明箇所を聞きに、滝野川にあった党の秘密印刷所へ出向いたところを、張り込み中の警視庁滝野川署の特高警察に襲われ、路上で逮捕されてしまいました。
事件報道は6ヵ月も遅れて解禁され、新聞は「農村と工場赤化を計った本県の共産党一味」(夕刊「信濃毎日新聞」9月16日付)などと警察情報をいっせいに垂れ流しました。
千代子の取り調べを担当したのが、のちに小林多喜二への拷問を指揮し、宮本顕治元日本共産党議長にも拷問を加えた毛利基警部でした。特高警察は、殴る蹴るの拷問にくわえ、若い女性には衣服を脱がせるなどのはずかしめでショックや動揺を与えようとする「身体検査」など、卑劣なやり方で取り調べました。しかも市ヶ谷刑務所の待遇は、粗末な食事など不衛生で非人間的なものでした。千代子が獄中から友人にあてた手紙にも、「独房はちょうど蒸風呂のようです」とか「暗くてシケ臭くてたまりません」などの文字が見られます。
千代子はこうした扱いに耐え、獄中では他の人々を励ますとともに、出獄の日を展望し、『資本論』などの学習に励みました。しかし刑務所のひどい待遇は、千代子の身体をむしばんでいきました。さらに29年、信頼していた夫・浅野晃が天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加。検事は、千代子を毎日呼び出し、夫らの主張への同調を迫りましたが、彼女はそれを拒否してたたかいます。
獄中から義母に出した最後の手紙で千代子は「私も真剣に準備しています。・・美しく晴れた夏の朝。又」と書き、革命運動の前途に希望をつなぎつつ、自らもふたたび立ち上がる決意を伝えていました。
しかし、同年8月、苛酷な獄中生活に精神的な圧迫が加わり、心身ともに衰弱しきった千代子は、病院に移されました。千代子は当初、取り調べを受けている錯覚をしていて、「嫌だ、嫌だ、知らない、知らない」と連呼したり、「先生(文明のこと)のところへ行きたい」と問診を拒絶したりした、と担当医師は記録しています。
後にこの病院に残された多数の患者カルテを分析した秋元波留夫医師(精神科医)は、〈拘禁性精神病〉と規定し、「特高の拷問・虐待・転向の強要・精神的苦悩といった限界状況が発病の原因と考えてよい」と語っています。
一ヵ月後の9月24日、満足な治療も受けられないまま、千代子は急性肺炎で、24歳2ヵ月の生涯を閉じました。
千代子研究者の藤田廣登さんは「治療は放置されたままであった疑いが残る、突然の死だった」と書いています。死の直前、千代子の精神状態は平静に戻り、義母と夫が病院を訪ねたとき、党と国民を裏切った夫との面談を拒む態度を示したといいます。
中学2年生になっていた千代子の教え子の一人は、「獄死を新聞で読んだときのショックは、忘れることができない。あのやさしい先生が赤になっていたことを、そのとき初めて知った」と回想しています。
千代子のたたかいは、人々の胸に刻まれました。
信州の製糸女工の組合=日本製糸労働組合と救援会諏訪支部準備会は、命日一ヵ月後の10月24日を「工場で働く者の真の味方伊藤千代子さんをたたかいで弔う日」とするよう呼びかけます。
〇まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へ られ獄に死にき五年がほどに
〇こころざしつつたふれし少女よ 新しき光 の中に置きて思はむ
〇高き世をただ目ざす処女らここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき
土屋文明が千代子をこのように歌ったのは、千代子の没後6年、中国への侵略戦争が拡大している最中のことでした。
千代子の後輩・塩沢富美子は、自伝『野呂栄太郎とともに』にこう書いています。
「こういう極度に抑圧された世に、こころざしつつたおれし少女を憶い、その少女のこころざしを新しい光の中に歩ませたいと歌った文明の、権力者に対する抵抗の心を思うとき、一人の生徒であった伊藤千代子がその師に投げかけた大きな力を思わずにはおられない」
千代子の遺骨は親族にいだかれて帰郷し、龍雲寺墓地に葬られました。千代子の遺骨は、3人の特高に見張られての帰郷でした。
墓は、伊藤家の親戚にあたる伊藤善知さんの手によって立派な墓に改修され、ずっと守られてきました。伊藤善知さんは「千代子さの葬式のとき、近所の人たちは桑畑の向こう側から遠巻きに眺めていたそうです」と話しています。お悔やみに行く人々を見張る特高の眼が、ここにも光っていたのです。
日本共産党の宮本顕治議長(当時)は1992年、若くしてたたかい途上でたおれた伊藤千代子ら4人の女性活動家を次のように紹介しました。
「全党のほこるべき不屈の活動家であり、こうした人々の業績は日本社会全体への大きな寄与であった」(第6回中央委員会総会)。―これは湾岸戦争・ソ連邦解体の翌年の発言です。
その3年後、藤森明さん(諏訪地域民衆史研究者)の著『千代子のこころざし いまに生きて』(学習の友社)が発刊されました。その出版記念会で顕彰碑建立が呼びかけられ、《伊藤千代子顕彰碑》は1997年7月、千代子の墓碑の近くに建立されました。
顕彰碑には、千代子の経歴とともに、千代子を詠んだ土屋文明自筆の歌3首(前出)が刻まれています。
その2年後、「千代子のこころざしを継承し、今日に生かすこと」をめざして「千代子・こころざしの会」が結成され、墓前・碑前祭がつづいています。
2005年には、獄中からの千代子生前最後の手紙4通が北海道苫小牧市立図書館で公開されました。
同年、郷里の諏訪では生誕100周年記念事業が行なわれ、「証言者としての千代子」と題する澤地久枝さんの記念講演が盛大に行なわれました。
(伊藤千代子こころざしの会)会員・今井清水
参考文献
『こころざしつつ たふれし少女(おとめ)』(日本共産党中央委員会出版局)
『今、新しき光の中へ』1~5号(伊藤千代子こ ころざしの会)
『こころざしいまに生きて』(藤森 明著)
その他 資料
「中洲小時代の川上茂」今井清水2008.09.29
http://www.zenrourenkaikan.jp/tosho/?page_id=279
労働図書資料室 憲法とたたかいのbrog 治安維持法のもとでたたかった人びと伊藤千代子
https://blog456142164.wordpress.com/2018/12/04/治安維持法のもとでたたかった人びと%EF%BC%9D伊藤千代/
治安維持法を理解するために
「思想犯」にされた日々 95歳と96歳 治安維持法を語る
https://news.yahoo.co.jp/feature/741
年月日 | 年齢 | 伊藤千代子関連の主な出来事 |
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1905年(明治38) 7月21日 |
0歳 | 伊藤千代子、長野県諏訪郡湖南村南真志野(現諏訪市)の農家に生まれる |
1907年(明治40) 2月20日 |
2歳 | 千代子の母・まさよ死去、養祖母・よ祢が母親がわりになる |
1908年(明治41) 2月17日 |
3歳 | 婿養子であった若い父・義男、妻・まさよの死去により協議離婚 |
1912年(大正 元) 4月1日 |
7歳 | 千代子、湖南尋常高等小学校へ入学 |
1914年(大正 3) | 9歳 | 亡母の実家で千代子を養育することになり、中洲村(現諏訪市)中金子の岩波家へ移る。 転校した金子分教場で平林たい子と同クラスになる。生徒24名。 |
《第一次世界大戦はじまる》 | ||
1916年(大正 5) 9月1日 |
11歳 | 金子分教場併合で、新築の中洲尋常高等小学校へ。担任・川上茂の「早教育」(特別授業)を受ける |
1917年(大正 6) | 12歳 | ひきつづき、川上茂の、「早教育」(特別授業)を受ける。 読書・勉学すすむ |
《ロシア10月社会主義革命》 | ||
1918年(大正 7) 4月1日 |
13歳 | 小学校を卒業し、諏訪高等女学校へ入学 歌人・土屋文明、同校へ赴任 |
1919年(大正 8) | 14歳 | 土屋文明から英語・国語・修身の授業を受け、大きな影響を受ける |
1920年(大正 9) | 15歳 | 土屋文明、諏訪高女校長となる |
1921年(大正10) |
16歳 | 千代子、土屋テル子夫人宅で英語補習を受ける(文明着任以来) 千代子、軽い肋膜炎で学校を少し休む |
1922年(大正11) 4月1日 |
17歳 | 千代子、諏訪高女を卒業。生徒総代で卒業証書授与 高島尋常高等小学校の代用教員になる 土屋文明、松本高女へ移る |
《日本共産党創立》 | ||
1923年(大正12) | 18歳 | 女子英学塾を2回受験(不合格) |
《治安警察法による第一次弾圧》 | ||
1924年(大正13) 3月31日 |
19歳 | 小学校教師を突然退職 |
5月 | 仙台の尚絅女学校高等科英文予科へ入学 | |
1925年(大正14) 4月 |
20歳 | 3月 尚絅女学校高等科を退学 東京女子大学英語専攻部2年へ編入学 大学内の社会科学研究会結成に参加 |
《治安維持法公布 男子普通選挙法公布》 | ||
1926年(昭和 元) | 21歳 | 学外のマルクス主義学習会に参加。浅野晃を知る 学内の「社研」組織拡大。講師活動で塩沢富美子らを指導 大学内の社会諸科学研究会につづき、マルクス主義学習会を組織し活躍する |
1927年(昭和 2) | 22歳 | 女子学連結成に参画、委員になる |
8月~ | 岡谷の山一林組製糸工場大争議を支援 秋、労働農民党オルグの浅野晃(元諏訪中学校教師)と結婚 |
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《日本共産党「27年テーゼ」決定》 | ||
1928年(昭和 3) 2月20日 |
23歳 | 初の総選挙に労働農民党から立候補した藤森成吉らの支援活動 |
2月29日 | 《「赤旗」創刊。普選初の総選挙(山本宣治ら当選)》 | |
〃 | 千代子、日本共産党に入党し、中央事務所の活動任務につく | |
3月15日 | 《3・15弾圧事件。〔長野県下で80人検挙〕》 | |
〃 | 千代子、3・15事件の大弾圧で検挙され、警視庁滝野川署に連行される。 悪名高い毛利基警部の取調べ・拷問を受ける。 市ヶ谷刑務所に収監される。 獄中で学習をつづけ、同志を励ましたたかう |
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6月29日 7月 3日 |
《緊急勅令による治安維持法改悪(最高刑を死刑に)》 《特高警察を全府県に設置》、 |
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1929年(昭和 4) |
24歳 | 《3月5日、山本宣治、右翼に刺殺される (改悪治維法強行可決 に反対したため)》 《4・16事件、検挙者約1000人。〔長野県下20人検挙〕》 |
浅野晃・水野成夫ら、天皇制権力に屈服し獄中転向 千代子、転向強要攻撃が強まるなか拒否してたたかう |
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8月 1日 | 千代子、拘禁精神病発病 | |
8月17日 | 松澤病院へ収容される | |
9月 | 千代子の身内・伊藤一郎氏ら面会。正常に回復という | |
9月24日 | 千代子、急性肺炎により病状悪化 誰にも看取られることなく24歳2ヶ月の生涯を閉じる ◇ 千代子の遺骨、帰郷し、長野県諏訪市湖南の龍雲寺墓地に葬られる |
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