今月はGWに旅行したり、出張があったりして長距離移動に恵まれ、そこで何冊か本を読み進めることができた。と、ここまで書いて思ったが長距離移動って「恵まれる」ものじゃないか、別に。とはいえこの感覚、移動時間に読書をしたり、映画を観たりと、何かに没頭する習慣のある人にはけっこう通じるんじゃないかと思っている。
1.宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』新潮社
5月の頭、滋賀に行くことにしたので(初上陸)、せっかくだから何か滋賀にゆかりのある作品を……と思って手にしたのがこちら。少し前から各地の書店で猛プッシュされていたので気になっていたところでもあった。ひとつ個人的に間違ってしまったこととしては、本書の主な舞台はあの琵琶湖の見える大津だったということである。私が滞在したのは、大津とは琵琶湖を挟んで反対側にあたる東近江市であった。
結論から言うととても面白い本で、新幹線で東京から読みはじめて名古屋に着くころには読み終わっていた。もちろん滋賀に着くずっと前である。主人公の成瀬あかりの突飛な行動がいちいち面白いが、彼女らの世代(本書のなかで中学2年生から高校生にまで上がる)特有の空気感や、「正解」とされる人間関係の距離感などの手触りは妙にリアルで、そのコントラストがなんとも癖になる。
自分の学生時代を思い出してみても、なんとも超然とした、一本芯の通った自我をもった成瀬のような子はたしかにいたものだ。そういう存在に憧れはしつつも、なんとなく周囲の目が気になってそれなりのポジションを守っていたのが私である。成瀬の言動にワクワクしつつも、自分はこうはなれなかったな、という一抹のサウダージを感じる読後だった。
2.埴原一亟 山本善行撰『埴原一亟 古本小説集』夏葉社
「忘れられた作家」と、本書の帯には記されている。実際のところ私などは、はにはらいちじょう、という作家の名前を知ったのがそもそも本書であって、周囲の年長者や文学好きからもついぞその名を聞いたことはなかった。それでも読んでみようという気になったのは、撰者と出版社に対する全幅の信頼と敬意にほかならない(撰者の山本善行さんとは今月、京都に行った折にご本人とお話を交わすことができた。ありがたいことである)。
「古本小説集」とあるように、街の一角で古本を売る人々の生活を描いた小説がいくつか収録されている。解説にも「やはり資質として一亟は、私小説作家と見ていいのだろう(p.253)」とあるように、その多くの作品はおそらく作家自身の体験に基づいているもののようである。作品に出てくる人物や場所には妙にくっきりとした臨場感があり、埃っぽい古本屋の店頭が目に浮かぶような印象を受ける。
樺太(サハリン)からの引き揚げ一家の、気丈な妻の姿を描く「ある引揚者の生活」や、現在でいう廃品回収業で生活する人々にフォーカスした「塵埃」も作家の真摯な人間観察眼が感じられて好きだが、ライトなサスペンス風味の「生活の出発」にはかなりドキドキさせられた。古本をテーマにここまでのものを書けるとは。しかしこれも、「一銭でも多くの金を」と人々が奮闘した時代の偽りないフィルムなのだろう。
旅先の書店で目に入った本。著者のオリガ・ホメンコ氏のことは、以前読んだ『現代ウクライナ短編集』の編訳者として名前を連ねていたので知っていた。こちらも同じく群像社の刊行である。著者が生まれ育ったウクライナの人々や場所について日本語で(!)綴ったエッセイで、ところどころに入った挿絵も素敵である。
「おばあちゃんの優しさ」(p.28)は、シンプルで短いが温かい一篇で、とりわけ印象に残った。
「生活がいくら大変でも、贅沢なものがひとつあると違うよ。どんなに暗くても心が温かくなる。それは何でもいいの。たとえば、花、ネックレス、きれいなドレスなど。あなただけの心を喜ばすものでなければいけないけど……(p.31)」
そんな祖母の言葉とまったく同じ言葉を、成人した著者は日本の老人から聞き、「おばあちゃんというのは、どこでも一緒なんだ」と言う感慨に至る。
現在も戦争の最中にあるかの国だが、著者の「おばあちゃん」の世代もまた長く暗い時代を経験しており、そのことも作中でしかと触れられている。
本書は2014年刊行だが、地名の表記は「キエフ」「オデッサ」─そして「チェルノブイリ」─である。2022年2月以降、多くのことが変わり、失われてしまった。今やいつ何が起こるかわからない状況になってしまった世界だけれど、一刻もはやい平和的解決がなされることを願ってやまない。
4.椋本湧也 編著『26歳計画』
じつはこの本を手にとるのは2回目だ。1回目はまさに26歳のとき─と言いたいところだが、27歳のとき。そのときはたしか人からお借りして読んだのだった。それゆえ手元にはしばらくない状態だったのだが、これまた旅先の書店(東近江市・六月の水曜日)にて購入。ベージュの紙に金の箔押し、という表紙デザインに改めて惹かれる。
本書冒頭にはこの企画の「ルール」(「26歳」をタイトルにした文章を自由に書いてください。書き終えたら、あなたがいちばん魅力的だと思う「26歳の知り合い」にこの企画をつないでください」)が記されている。いわゆるリレー企画である。
書かれている文章は本当に多様で、厳密には執筆時点では26歳ではない人もいるようだけれど(そこも自由というか、「これから26歳になる人」「かつて26歳だった人」という意味で解釈すればよいのだと思う)、共通していることとしては各人が「26歳」という補助線から、自らの生に「まじめに」向き合っているようだということ(それがただ一言の文章だったとしても)。さまざまな価値観にもとづき、ときに相反するようにみえる言葉どうしが、しかし反発することなく、それらそのものとして1冊に同居している感じが不思議で、魅力的だ。
私はいま28歳だけれど、次に歳を重ねてから読んでもまた新たな発見がありそうである。
5.井上彼方 紅坂紫『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジー』
滋賀に行った話ばかりしているが、同じタイミングで岐阜にも行っている。岐阜の目当ては本屋メガホン(https://booksmegafon.stores.jp/)。いまの日本においてマイノリティに属する人々の声を増幅して届ける、というポリシーをもつ書店である。事前にオンラインショップで何冊か本を探していて、特に目についたのが本書だった。
「アセクシュアルでデミロマンティックの狼男の物語…」という書き出しで始まる紹介文に、アセクシュアルである自分としては惹かれずにはおれなかった。なんとなくここ数年でアセクシュアルの人物が登場するフィクション作品は増えているように思うものの、それは漫画・アニメ・映画が多く、小説という形ではあまり見たことがなかった(もちろん私が気づいていないだけである可能性は高い。あと漫画や映画はそれはそれで好きです)。そんななかでSFというスタイルでアセクシュアル(や他の性的少数者)をピックアップした作品はとても新鮮に映った。作品自体も(こういってよければ)SF小説として面白かった。
またこの作品集は、セクシュアリティだけでなく作家の出身地や民族的なアイデンティティも多様で、括弧付きの「文学」の世界を覆っている帝国主義・植民地主義からの脱却を明確に意図している。なかなか翻訳が出ない地域・言語の小説が読めるので、そういった意味でも類まれな本なのではないかと思う。
6.呉基禎『ソナチネ』
そこで初めて出会ったのにどういうわけか妙に心惹かれ、手にとってしまう本というのがときどきある。この詩集もそうした本の1冊である。面白いのは、この本を手元に迎える人の多くが、私と同じように詩人の名前も書名も知らず、ただその場で惹かれていくらしいということだ。
とはいえ、カリグラフィでSonatineと記された表紙は、クラシック音楽を少しでもやっていた人間、殊にピアノを習っていたことのある人間ならどこか懐かしく感じることだろう。そういう意味では、少なくとも自分がこの詩集に目を留めたのには一応理由づけができるかもしれない(もう弾けないが)。
詩はあくまでやさしい表現で描かれつつ、具体と抽象を柔らかに往来し、初めての言葉に目を走らせるときのときめきと、そこで想起される情景に対する懐かしさに似た感慨とを同時に味わわせてくれる。ある意味では不思議な文章であるともいえる。
世界中を旅し、万物を潤わせる水の偉大さを讃えながら「とはいえ こんな日は わが家にて/シャワーの口から会いたいものだ(p.27)」
と締めくくる「水の人格」のユーモア。
「あしたは決してやってこない/明日という日は来たことがない/それなのに/ある日振り向くと/過去が しだいに増えているのだ(p.147)」
これは時間の哲学のよう(「現在」)。
「千年前の人よりも/僕らはなるほど 新しい/でも 千年前の人よりも/僕らが優しいわけじゃない(p.177)」
このあっけらかんとした悲しみ。
この本に「呼ばれ」て、よかったと思う。
7.李恢成『またふたたびの道・砧をうつ女』講談社(講談社文芸文庫)
「なぜこの本が品切れのままなんだ……?」と思う本はいくつもあるが、こちらもそんな本のひとつとなった(尤も、電子版は発売されている)。
李恢成は、1935年に樺太(現:サハリン)に朝鮮人の両親のもと生まれた作家である。終戦後、家族とともに日本に引き揚げ、以降日本語で執筆した。樺太から日本に至るまでには、馴染みの土地から離れただけでなく、家族との別れもあり、幼少期より幾重もの喪失と併走してきた人生であることが窺える。こうした作家自身の経験と、在日朝鮮人としての視点は当然、明確なかたちで小説にも反映されている。
ひとつ、とくに印象に残ったシーンがあった。『またふたたびの道』で、主人公の趙哲午が、大学で出会った日本人の友人・西条に自身のルーツを打ち明ける場面である。哲午が、普段名乗っている「千代田」は通名であり、本名を「趙」という朝鮮人なのだと話すと、西条はこう返す。
「なら、それでいいじゃないか。(中略)日本人だって朝鮮人だって、どっちだっていいじゃないか。(中略)おれの前にいるのは要するに君なんだ。それでいいじゃないか(p.120)」
そこで哲午は「(西条が)自分にたいして少しも態度を変えなかったこと(p.120)」に一瞬嬉しさを覚えつつも、こう返す。
「ちがう。どっちでもいいじゃないんだ。おれはやはり朝鮮人でなくちゃ困るんだよ(p.120)」
社会における少数者、あるいは被差別者の打ち明けを聞いて、「そんなことは気にしなくていい。君は君なのだから」と答えることは一見穏やかな解決法のように見える(実際、引用にあるように、このことに哲午は前向きな感情も抱く)。そこに悪意があるわけでももちろんない。しかしそれは裏を返せば、相手よりひとつ高いところに立つ者、より余裕がある側の者の論理であるともいえる。そうではなくて、真に必要なことは、少数者の属性を透明化するのではなく、見えるまま受け止め向き合うことなのだろう。少なくとも「そういう場合がある」ことは間違いない。
この作品は在日朝鮮人としての固有の生を描いたもので、そこで参照すべき歴史的背景や地理的知識などは当然ある程度決まっている。一方で、上記のシーンは現代を生きるマイノリティの存在について考えるときにも指針となってくれるような、普遍的な強度をもったシーンであるように思った。
8.渡辺克義『物語 ポーランドの歴史 東欧の「大国」の苦難と再生』中央公論新社(中高新書)
本年3月からの歴史の本を読んでこうシリーズ、ヨーロッパ第3弾はポーランド。先月バルト3国の歴史を読んだので、視線をやや南にスライドさせた。
改めて読んでみるとポーランドの歴史も紆余曲折どころの話ではない。著者の専門が近現代史ということで、本書では3行でさらりと書かれているのだが13世紀にはモンゴル帝国の侵攻を受けて国土が荒廃しているし、中世にはオスマン・トルコやコサックと戦っている。1795年にはロシア・プロイセン・オーストリアに分割される形で地図から「ポーランド」という国が消える。第一次大戦後に独立を回復するや否やすぐにソ連と戦争。第二次世界大戦は日本の世界史でも勉強するとおり、ドイツ軍のポーランド侵攻がきっかけである。周囲を強国に囲まれているとはいえ、あまりに混乱が多すぎではないだろうか。
一方で、そういった歴史を追っていくと、成功・不成功はありつつも、常に侵略者に対する抵抗が組織的に、あるいは市民レベルで起こっていることがわかる。ポーランドのナショナリズムはこうした運動の歴史とも強固に結びついているのだろう。
また興味深かったのは、戦後長期間に渡った社会主義の時代の話。旧ユーゴスラヴィア諸国やルーマニア、ハンガリーあたりほど旧社会主義国のイメージがなかっただけに、その成立の経緯から崩壊までを(概観だが)追うことができたのは勉強になった。
9.ハン・ジョンウォン 橋本智保訳『詩と散策』書肆侃侃房
詩人である筆者による、「散歩」を主題とするエッセイ集。飾り気のない文体で綴られる冬の朝や森の道といった情景は、一度もそこに行ったことがないのにもかかわらず、妙に鮮明に脳内にイメージされる。不思議だ。
「寒い季節の始まりを信じてみよう」(p.13)。筆者は冬の寒さに凍った川を眺めながら、「凍った川の上を馬に乗って渡った人々が、翌春に氷が解けたその川で、馬の蹄の音を聴いた」という故事を思い浮かべる。川が凍るときに封印された「音」が、その融解とともに時を超えて飛び出したのだ。そして、こんなことを思う。「私は生きていくうえで幻想は必要だと思っている。(中略)想像は逃避ではなく、信じる心をより強く持つことだから(p.14)」。
「ひと晩のうちにも冬はやってくる」(p.88)では文学を「門と窓」に喩え、内から外、あるいは外から内をうかがうための覗き穴ととらえる。「猫は花の中に」(p.120)では、「春が短いと嘆くのは、もしかしたら春に咲く花だけを見ているからかもしれない」と気づきを示す。こんな具合に、ただただ冬の景色を書き取るだけの「エッセイ」でなく、そこから想像され、内省されて生まれる言葉たちが読み手の心を掴む。
「日本の読者のみなさんへ」を読むに、これが最初の単著とのことだ。詩集はその後に出たらしく、日本語訳もまだ刊行されていない。エッセイのなかに織り込まれるかたちでいくつか登場する詩はどれも魅力なので、早く読みたいところだ。
10.佐々木敦『ニッポンの思想 増補新版』筑摩書房(ちくま文庫)
今ひとつ「批評」というものをうまく捉えきれていない人生である。そんなことを考えていたら、書店の店先で本書に出逢ったので読んでみることにした。
浅田彰、中沢新一、柄谷行人、蓮實重彦……。名前はそれぞれ聞いたことがあるし、多分著作を読んだことのある人もいるのだけれど、結局彼らのどんな思想が、戦後日本の「思想史」においてどんなポジションを得たかというのはよく知らなかった。そういった意味で、それぞれの思想家(本書においてはニアリーイコール批評家となる)に焦点を当て、各人の考えたことを要約してくれている本書はわかりやすく、自分の関心に合致するものだった。思想家らの著作の内容だけでなく、どの層にどのように「読まれたか」といった社会の反応も記されているのが面白い。
90年代の思想家はサブカルチャー批評のフィールドでも大きな存在感を持っている人々なので、その辺の具体的な作品と関連づけた批評の紹介があっても面白かったかもしれない(まあそこは自分でリサーチせよということでもあるのだろう)。
もともと講談社現代新書から『ニッポンの思想』として刊行された本書だが、増補新版ということで新たに2章加えられている。國分功一郎と千葉雅也の存在について触れられているほか、成田悠輔らの「人工知能民主主義」に対する東浩紀の批判が解説されており、興味深かった。
11.久保亨『シリーズ中国近現代史④ 社会主義への挑戦 1945-1971』岩波書店(岩波新書)
中国近現代史シリーズ、ついに中華人民共和国の成立までやってきた。「人民共和国の成立は,必ずしも社会主義政権の樹立を意味していなかった」と紹介文にはあり、しっかり「そうなの!?」と思わされる。
人民共和国は共産党政権による国家であるものの、まずは社会主義国の形成より前段階として「新しい民主主義」を構想していた。そこから急進派の動きが先鋭化し、世界史でも教わる「大躍進政策」や「文化大革命」などの政策につながっていくわけなのだが、当初むしろ急進派は少数派であり、党内でもかなり紛糾があったというのは自分の知らないところであった。
大躍進政策や文化大革命については、主に数的データや概要が示されており、各地域の詳しい実情などは新書ということもあり略されているのかな、とも思った。しかしながらこれらの政策の「どうしてこうなった」の「どうして」の部分はしっかり書かれているし、あとは「文化大革命」がなぜ「文化」なのかの理由なども記されており勉強になった。
本書では、当時、毛沢東に寄せて書かれた王蓉芬という学生の手紙が紹介されている。
「文化大革命は民衆運動ではありません。一人の人間が銃によって民衆を動かしているだけです(p.184)」
党は、この手紙を受け取るや王を逮捕してしまう(その後、長きにわたって拘留された)。この事件について著者は、
「我々は、一通の書簡によって突き崩されてしまうほど、文革が脆弱な思想的基盤の上に展開されたものであったこと、また一九六〇年代の中国には王蓉芬のような確固とした個性も存在していたことなどにも、注意を払っておくべきだろう(p.185)」
と語る。大事な視点だと思う。
12.飯村大樹『サッド・バケーション』
昨年訪れたTokyo Art Book Fair(TABF)で友人のブースを見に行った折、お名前を知った方。フリーランスとして書籍のデザイン・組版をされている方で、本書は書き下ろしのエッセイと日記をまとめたもの。
本を買う前に著者情報をみて、年齢が近いのと出身地が同じであるということから勝手に(本当に勝手に)親近感を覚えていたのだが、文章を読んでみると、よい意味でそのことも忘れてしまうぐらいに惹きこまれた。
読書をしていると、作家のごく個人的な出来事が書いてあるはずなのに、なぜかどうしようもなく自分自身の記憶や体験とリンクしてしまって、不思議な気持ちになることがある。とくにエッセイは、パーソナルな内容が多いにもかかわらずだ。この本はその現象がしばしば起きた。
「祝福の生クリーム(p.35)」というエッセイでは、それまでなかなか実感できなかったという結婚式のすばらしさについて語っている(婚姻制度そのものについての意見も、同じエッセイのなかで別途ご説明されている)。
「結婚式はみんなから無条件に祝福されるための式なのだ。誕生日だってそうだ(p.31)」
「人生には定期的に甘い生クリームを食べてもいい日が必要なんだと思う(p.31)」
私は今年から、Xとインスタで毎日不特定多数の人の誕生日を勝手に祝うというふざけた試みをしている。そんなこともあってまたまた勝手に親近感を覚えてしまった。
13.秋峰善『夏葉社日記』秋月圓
吉祥寺の「ひとり出版社」、夏葉社でアルバイトとして一年を過ごした筆者によるエッセイ。これほどにタイトルと内容がぴたりと合致している本というのも、ある意味珍しい。夏葉社の本は私自身も何冊ももっていて、何年もお世話になっている。
夏葉社代表の島田潤一郎さんは、その写真に見える柔かな笑顔と、その文章に見える穏やかなお人柄が印象的だが、実際にそのイメージ通りの方だそうである。自分自身は会ったこともないのに、その事実に勝手に納得する。
本書は「日記」であり、基本的には著者である秋さんが体験されたことが記されているが、ときにそれがそのまま読書論・編集(者)論にもつながるような文章になっている。それだけ秋さんと島田さんが深く、真摯な会話をしていたことの証左なのだと思う(もちろん普段はサッカー関係の雑談などもよくしていたそうだ)。
「すでにライターさんにはお願いをしていて、待たせているんです。そういう義理は通さないといけないと思うんです」
「いや、いい本をつくることが大事です」「ぼくたちは読者のために本をつくっているんです。いちばん見るべきは読者です」(p.68)
また、夏葉社には「読書タイム」があるらしい。昼休みのあとにさらに1時間をとり、特に日常的に読まない難解な本などに取り組む。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本が売れるぐらいの世の中で、編集者もまた「多忙」と言われる仕事であり、ついつい他の本を読むということを忘れがちである。こういう時間、いろんな会社であればいいのになあ。
14.岡 真理『アラブ、祈りとしての文学』みすず書房
パレスチナで起こっている侵攻や虐殺を知っているいま、文学をとおしてかの地について学んだり、知ろうとすることがいったい何のためになるのか、という思いがずっと自分のなかにあった。少なくとも、自分が屋根のある丈夫な家で読書することが、かの地の人々の直接的な助けにならないだろうことは直感的にわかる(だから署名をして、寄付をしている)。では、パレスチナについて、あるいはアラブの人々が歩んできた道について文学から近づこうとすることはやはり根本的に無力なことなのだろうか。
この本は、上記のような疑問(あるいはこう言ってよければ諦め)を抱く読み手に、なんらかの形での回答、もしくは道標を示してくれる本だと思う。
本書はパレスチナ問題(とくにキーワードとなるのは「ナクバ〈大惨禍、大破局を意味する。パレスチナにおいてはとくに1948年のイスラエル建国に伴う多くのパレスチナ住民の難民化・虐殺をさす〉」である)を基軸に置きつつ、いくつかのアラブ文学の解説・批評を通して、アラブ世界で不可視化・透明化されてきた存在(それは女性であり、イスラエルにおけるアラブ人であり、子どもたちであり……)について記述する。そこから、しばしば絶望的な状況として存在する現実と、小説なる創作物がいかに関係していくか、というロードマップが立ち現れてくる。
「(前略)小説が書かれても、起きた出来事はとりかえしがつかない。小説の中で、いかに事実とは違う結末を描いたとしても、現実が変わるわけではない。とりかえしのつかない出来事の、そのとりかえしのつかなさこそを小説は証言する(p.303)」
文学を、小説を読むことは「無力」である、との思いにはこれからもときどき駆られることになると思う。一方で、この本を読んだいま、文学を読むことが「無意味」ではけっしてないという確信が、私個人のなかにはある。
本書はけっして楽観的な本ではない。また、解説対象の本質や多様性(アラブ、イスラーム、ユダヤ、イスラエル……。どの言葉ひとつをとってもまったく「一枚岩」ではない)に向き合い、検証しているからこそ内容的にも難しく、知識の補強を要する部分もある。しかし、「現前する危機や惨禍に対して文学に何ができるのか」ということを少しでも考えたことがある方、そしてパレスチナで起きていることについて何か少しでも知りたいという方には、是非読んでいただきたい本である。