読んだらなるべく早めに感想をまとめてみる、を漸く実践しはじめた。やはりこちらのほうがかなりスムーズなうえにきちんと思考がまとまる気がする。今年はこのスタイルの継続を目標にします。
1.ジグムント・バウマン 伊藤茂訳『自分とは違った人たちとどう向き合うか-難民問題から考える-』青土社
社会学者バウマンが最晩年に取り組んだ著作。ヨーロッパにおける中東などからの難民受け入れに関するさまざまな事象について、排外主義やナショナリズム、ポピュリズムなどの問題から検討している。
バウマンは欧米諸国の状況を例に、難民に向けられる不信感や敵意について整理する。そのうえで、「相互不信から抜け出す道に立ち塞がる最初の障害物は対話の拒絶である。言い換えれば、無視や無関心から生じると同時に、それらをいっそう強める沈黙である(p.23)」と指摘している。重要なのは「対話/会話」であり、会話こそが相互の合意や互恵的な協力の近道であるとバウマンは語る。
難民でなくとも、他国からやってきた人たちを見て、話が通じなくて怖いと思ったり、ときには「自分たちの仕事をとっていくのではないか」などと敵視してしまう現象は日本でも多く起こっている。私自身もそう思ったことがある。しかしたしかに、その不信感や敵意の底には「わざわざ彼らが日本にきた事情など知ったことではない」という「無関心」があるように思う。それを知ろうという態度をこちらが起こさないのであれば、壁は聳え立ったままなのかもしれない。世界の状況から自分自身の身辺を見直して、そんなことを考えた。
2.ゲオルク・ジンメル 清水幾太郎訳『愛の断想・日々の断想』岩波書店(岩波文庫)
『貨幣の哲学』を著した社会学者・哲学者ジンメルの晩年の遺構を集めたもの。
『愛の断想』は、基本的に異性愛を前提とした書かれ方をしている点に留意する必要があるものの、愛と性欲を区切り、それぞれを結構詳しめに考察していたりして興味深い。100年前に、既にこういう考え方を言葉にしていた人はいたんだなあ、という感じ。
「愛を知る人においては、愛は、生殖という目的から完全に解放されている──しかも、それが決して抽象でなく、自然であるという点、それが決定的なことであり、生命の形而上学の底に達するものである。」(p.12)
『日々の断想』のほうはテーマが幅広く、哲学のほか芸術、宗教などについて語られている。原稿の性質上、論拠などは示されていないものの、つい目を止めてしまうフレーズも多い。
「一般に、青年の主張するところは正しくない。しかし、それを彼らが主張するということは正しい。」(p.107。正しくないなんて言い切ってしまって大丈夫? とも思うが、大事なことを言っている気がする)
「一滴の水滴のために容器が溢れる時、流れ出すのは、この一滴より多くなる。」(p.124、もはや名言botの世界だが含蓄を感じてしまう。ジンメルなので……)
小説『夏の花』で広く知られる作家・原民喜。詩集は未読だった。
『夏の花』とならび原爆被災を記録した作品である「原爆小景」は文庫にして12ページというボリュームでありながら、極めて強い印象を残す。悍しい核兵器の惨禍が片仮名と漢字によって綴られ、本詩集のなかでも異質なページに見える。しかしながら最後の「永遠のみどり」(「ヒロシマのデルタに 若葉うづまけ」で始まる有名な詩)だけは平仮名が使われている。真摯な祈りの言葉。
一方、パーソナルな出来事や風景を題材にした詩も多い。例として、原は終戦の前年に妻を亡くしており、その経験を題材としているものがいくつか見られる。他にも、既にこの世にないものや祈りを主題とした作品が目をひく。うまく表現できているかわからないが、言うなれば死者と対話を試みるための、ある種のコミュニケーションツールとして作者は詩を書いていたのかも、とふと思った(などと考えていたら、若松英輔氏による解説中にヒントになりそうなことが書いてあった)。
「まだ邂合したばかりなのに既に別離の悲歌をおもはねばならぬ私
『時』が私に悲しみを刻みつけてしまつてゐるから」(p.61「讃歌」)
4.岡 真理『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』大和書房
現代アラブ文学の研究者である著者による、パレスチナの現状に関する2つの講演を書籍化した本。タイトルは『ガザとは何か』でありつつ、『パレスチナとは何か』、『イスラエルとは何か』を知ることができる本でもある。
本書では2023年10月7日以降に「起こっている」こと、そしてそれ以前に「ずっと起こっていた」ことが史実をもとに解説される。史料やリファレンスは充実していつつ、文章自体はわかりやすく、まずは1冊通して読み切ることも難しくないはず。
昨年末以降、パレスチナを取り巻く状況について自分なりに情報に触れてきたつもりではあったが、まだまだ知らないことばかりであったと実感した。しかしそのように落ち込んでいるよりも、著者がp.190で述べているように、学びを継続し、わからないことを調べるのをやめないことが大切なのだとも考える。
パレスチナ問題について知ろうとする人はもちろんのこと、危機的状況で文学言語が果たす役割について考えている人がいれば、(特にp.144「言葉とヒューマニティ」は)必読と思う。
一刻も早い停戦と、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、そして世界のあらゆる地域で起こっている不当な権利侵害の停止を切に願います。
5.カール・マルクス 長谷部文雄訳『賃労働と資本』岩波書店(岩波文庫)
マルクス、読むか……と思いはしつつ、『資本論』はいろいろな意味でハードルが高く感じていたところ、よいサイズ感の著作に出会った。「労賃」をテーマに、資本家と労働者の関係性や技術革新が労働者に与える(あるいは与えない)影響について論じられており、テーマは『資本論』と通じる。
元は新聞連載で、最終的に労働者向けのパンフレットとしてまとめられたものだそうだが、普通に「難し……」と思った。内容自体は整理すればわかりやすいのかもしれないが、言い回しや専門用語がテクニカルに使われていて、若干勿体ぶった印象も受ける。しかしそれゆえにというべきか、数ページおきに出てくる断言調の要約はインパクトがある。
「労働者階級にとって最も好都合な状態たるできるだけ急速な資本の増大でさえも、それがどんなに労働者の物質的生活を改善しようとも、彼の利害とブルジョア的利害すなわち資本家の利害との対立を止揚することはない。」(p.72)
あくまで理論の本であり、本の内容が現実とそっくり連動しているわけではもちろんないだろう。とはいえお金の流れを考えるための道の作り手として、マルクスはやはり偉大だったのだと思う。
6.矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中央公論新社(中公新書)
ハンナ・アーレントは、学生時代に『人間の条件』にトライしようとしたものの途中で読み止めてしまった淡い思い出がある。きっかけは大学のフランクフルト学派の講義だった。
アーレントの名前は大学卒業後もよく見かける。本や論文ばかりでなくSNSの投稿レベルでも頻出する哲学者だが、それゆえに彼女の理論/思想が無限定に濫用されているきらいがあるようにも思える(特に「凡庸な悪」)。しかし、それを批判できるほど自分に知識があるわけでもないので、少し勉強しなおしてみようと思った次第。
本書はアーレントの生い立ちと著作を並行して解説しているので、『全体主義の起原(本書表記ママ)』『人間の条件』といった主著がどのような時代を、あるいは人間関係を背景にして記されたかがわかる。特にその時々の人間関係はかなり重要だと感じた次第(というのも、アーレントはその生涯において、ユダヤ人という出自から多くの地理的・心理的な移動を経験している)。
アーレントがユダヤ系というアイデンティティにどう向き合ってきたかについても丁寧に示されている。いきなり本人の著作に入る前に、さまざまな前提を一読するにはかなりよい本なのではないかと思う。
戦後すぐ〜1970年代ごろの文学(小説や現代詩)を読み解くにあたり、学生運動や新左翼のムーヴメントを勉強しておきたいと思っていたところに出会った1冊。
大学自治や朝鮮戦争に関連する黎明期の学生運動から「全学連」の誕生、全共闘の時代への移行、その後の運動の荒廃期までを時系列で追っている。また、それぞれの活動のきっかけとなった歴史的事件や国の動き、学生グループの活動に対応する日本共産党の動きなども解説されており、読みやすかった。全体的に各時代にバランスよくウエイトを置きながら丁寧に解説されている本だと感じたが、学生運動で大きな存在感を発揮した東大と日大を比較して論じている部分があり、かなり興味深かった。
新左翼の停滞の原因にもなった激しい内ゲバの記述は、読んでいてとにかく重い気分になってしまった。自分、ないし自分の所属する派閥が正しいと信じ込むことが容易に暴力と結びつき、生身の人間に向いてしまうことの恐ろしさ。しかし、そうした暴力は形を変えて現在も息をし続けているように思う。
「全学連と全共闘」というタイトルどおりの内容について俯瞰的に読める良著だと感じたが、今のところ品切れ重版未定。
8.嶋浩一郎 松井剛『欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング』集英社(集英社新書)
マーケティング論の教授という「研究者」と、広告・PRの仕事を多く手がけてきた「実務家」による著作。
筆者は、「加齢臭」「女子力」といった、もともと辞書には載っていなかったが社会的に広く知られるようになり、テレビや雑誌でも見聞きするようになることばを「社会記号」と位置づける(p.6)。そして、「社会記号」がどう発見され、広まり、さらに人々に求められるようになっていくのかなどを解説していく。
本書はビジネス面に寄りすぎておらず、社会学や広告学の理論的な裏付けを交えてことばと人間の欲望(「欲しい」と思うこと−消費行動−マーケットの創出)とを論じていて、特に社会学を勉強していた身としては非常に面白かった。
雑誌という一種のオールドメディアが社会記号を生み出すプロフェッショナルである、という部分も興味深い。「人間は自らの欲望をそう簡単に言語化できない」(p.58)という前提のもと、雑誌編集者は「人間が潜在的な欲望を言語化してくれるプレイヤーに感謝し、親近感を覚える」(p.62)ことを知っているという。そこで読者は雑誌のファンになり、新しいマーケットも生まれる。もう少しマーケティングのことを勉強してみようと思った。
9.永井宏『夏みかんの午後』信陽堂
アーティスト・永井宏氏の文筆作品は、散文集『サンライト』に触れて以来ときどき読んでいる。本作は、都会を離れて湘南に暮らしはじめた人々を描いた小説作品。
小説として真新しいところがあるとか、あっと驚くどんでん返しがあるといった類の作品ではない。なんなら、登場人物の動きや女性の言葉遣いなどに関してはステレオタイプな部分もあり、少しムズムズしたぐらいである。「都会の喧騒を避け、海の近くで落ち着いて暮らす」というのも文字にすれば簡単だが、実際にはそうシンプルなことではないだろう(そうしようとして諦めた人も多くいるに違いない)。
しかし、そうしたこと以上に、永井氏が実際に日々眺めていたであろう逗子〜葉山の風景や食・住の描写の魅力に惹かれるのは事実で、だから自分自身彼の作品を追ってきたというところもある。合間に挟まれる写真も、現地での生活への想像力をかき立ててくれる。
よりよい生活を求めて(半)移住を決め、そこでの生活を綴る……という文章は、どうしてもそのことを「オススメ」するような形になりやすいと思う。しかし、この本にはそれがない。それが却って湘南の生活への憧憬を強めてやまない。
10.チョ・セヒ 斎藤真理子訳『こびとが打ち上げた小さなボール』河出書房新社(河出文庫)
韓国において長きにわたってベストセラーとなっている作品。大規模な都市開発をめぐるさまざまな出来事を労働者や市民、使用者(!)の視点から描いており、中心人物は数人固まってはいるものの、群像劇のような仕立てでもある。低賃金で肉体労働に従事する若者や、障害をもつ人物の声を通して経済や権力の不均衡を告発すると同時に、中流階級以上の人々(=本を読めるだけの教育と余暇をもった階層の人々、ともいえそうだ)も語りの目線におくことで、多くの読者を引き込んでいるのだろう。
執筆された1970年は軍事独裁政権のさなかで、検閲による発禁のリスクを分散するために別々の雑誌に不定期で連載したという。それぞれの物語も、互いに有機的な連帯をキープしている一方、1話完結で読んでも違和感はない。さまざまな面で緻密に組み上げられた作品。
作家は、本作が現在に至るまでリアリティを持って読まれている=格差や差別、弱者に対する暴力がなくなっていないことを「恥ずべきこと」とし、「この本がもう読まれない世の中が来ることを願う」とまで語ったらしい(p.442)。ロバート・キャパの「すべての戦場カメラマンの夢は失業することである」に通じる、(逆説的ではあるが)自作品を通じた未来への強い意志を感じる。
11.斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス
この2〜3年で少しずつ韓国文学を読んできて、ある程度それらの性格のようなものが見えてきたように感じていた。が、この本を読んでまだまだ気付いていなかったことが沢山あるなと再発見した。帯には「なぜこんなにも面白く、パワフルで魅力的なのか。その謎を解くキーは『戦争』にある」と記されている。ここでいう戦争とは、1950年から3年続いた朝鮮戦争であり、そこに繋がる第2次世界大戦以前の状況も含む。
韓国文学の歴史は20世紀前半の戦争と、その後の軍事独裁政権〜民主化運動と連動しており、政治・経済の歴史を学ばずに文学史を追うことは難しい(そのため、文学を表題に掲げた本ではあるが社会の動きを勉強できる本でもある)。「芸術に政治を持ち込むことの是非」が議題に上がる国がある一方、芸術(文学)と政治が表裏となって離れない国が、海を挟んで隣にあったのだ、と改めて実感する。
1月は上記チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』を並行して読んでいた。本作は韓国文学の最重要作品のひとつで、本書でも1章分とって解説されており、大きな助けになった。次はハン・ガン『少年がくる』を読みたいと思っている。
幸田文のエッセイは今まで読んだものどれも例外なく好きだが、これも例に漏れず好きな1冊だった。
特に、作家が飼っていた猫のことを記した「小猫」「ふたつボン」がいい。飼い猫のことを書いたエッセイというのは古今東西多くあり、まあ文字どおり猫可愛がりの日々を描いたものが多いように思うが、幸田文のものは独特の空気感があって興味深い。可愛がっていたことは確かなのだろうが、どこか超然としたドライさのようなものがあって、「猫は猫、人は人」という感覚と、猫たちに自分の身上を投影する柔らかな眼差しとが絶妙なバランスで成り立っている。ちなみに2匹の黒猫を飼っていたときは、2匹ともに同じ「ボン」という名前をつけていたらしい。故の「ふたつボン」。ヤバイ。
また改めて思うのは、幸田先生の文章は「古さ」はあるのだが「古臭さ」がないということ。本書は底本が出たのは1956年だし、「東京駅はオフィス街だから休日は人が少ない」なんていう記述もあったりする(p.119)。今、東京駅が空いている日なんてないだろう。しかし、妙なもったいぶりがなく、かといって無機質でもない文体はごく最近書かれたもののようにも思える。