にっき

諸々の記録どうすっかなっちゅう話ですよ

 気がつけば年の瀬も近い。2024年も楽しいこともあれば、どでかい溜息が出るようなこともあり、ああついに終わってしまうのねということもあれば、こんなことまだ続けんのかよということもあった。

 まだ続けるのか、ということでいうと、このブログがそれに該当する。ブログそのものを閉じるとか、今後当面更新は控えるとかそういう話ではないのだが、内容とか頻度とかをどうしていこうかというお話である。

 

(こんなものはおたくが勝手にやってるだけなんだからわざわざ書かんでも自分の判断で自由にやったらいいじゃろ、と言われればそれまでである。たしかに本ブログの原点は完全自己満足の雑記である。原点というか、今でもそうである。しかし翻って本ブログ、わりと読まれて、否読んでいただいている。そう、ほかでもない画面の前の貴方にです。この記事を読んでいただいているということは、他の記事もきっとお読みいただいていることでしょう。そういった方々に何のお知らせもないというのはまあちょっとアレかな、と思った次第なのであります。なんならこれに続くお話に関してちょっとご相談申し上げたいぐらいなのであります)。

 

 現在のコンテンツは(何を偉そうに)、読んだ本と音楽の記録と、適当な日記である。適当な日記の方は本当に分量も時期も適当なので、これは一旦置いといて大丈夫。

 問題は記録の方である。いちおう2年ほど続けてみたのだが、正直に申し上げてちょっとしんどくなってきた。読書や音楽リスニングがしんどいというのではまったくなくて、プラスで時間をとって感想を言語化→整理→書影貼って更新、という作業がしんどいというお話。それもメンタル的にではなくてスケジュール的・フィジカル的にである(PCの前に座ってカタカタ作業するのが予想外に体力を使うということは皆さんもよくご存知かと思う)。

 

 そういうわけなので、来年からは「読んだもの・聞いたものすべてを毎月更新!」はしなくなると思います。やめはしないけれど、やり方は変えたいと思う。今のところ下記のようなのを考えている。

 

1.シンプルに分量or頻度を減らす

 例えば本だったら、その月に読んだものの中から特に好きなものを3冊選んで書くとか、あるいは10冊分まとめて書くのだったら更新は2〜3か月に1回にするとか(雑誌でいうところの隔月刊・季刊というやつですね)。

 まあこの感想は後から自分で読み返すのにも役立っているので、なるべく読んだもの聴いたものすべてに対してやりたいんだけど。少なくとも文章の形にまとめるのは一部にして、あとはメモとか抜き書きといった形で(差し当たりは)ライトにまとめるのもよいのかも、と思っている。読む量/聴く量自体も(あんまり減らしたくないけど)変わるかもしれないし。

 

2.週報形式にする

 アジカンのGotch氏がnoteで更新されているドサ日記に着想を得ている

https://note.com/gotch_akg/m/m2087392cc945)。世界で活躍するミュージシャンの日記を引き合いに出してどうこうというのは烏滸がましいことこのうえないが、実際自分も毎週楽しみに読んでいるし、ペース・分量ともに仕事をしながらでもうまい具合に続けられるのではないかと思った。この場合、本や音楽の感想だけではなく日々の雑事も織り込んでいくことになると思う。日記ですのでね。

note.com

 

3.ラジオにする

 結構チャレンジであるが、わりと前向きに考えてはいる。こちらは最近、Shutaro Tsujimoto氏がやはりnoteで実践されている(https://note.com/ts1995)のをみて、いや聴いて、「ありかもなあ」と思い始めた次第である。

 内容は週報形式と近い感じになるのかなと思う。自分がしゃべればよいので、PCに向かってカタカタする時間が減るのはよいことだし、自分の話す声を定期的に聴き直すというのも面白い経験になるかもしれない。トーク力は必要だけども。

 引っかかるところといえば録音環境とプラットフォームだろうか。普通にiPhoneインターフェイスがあればいいんだろうかとか、はてブよりはnoteのほうが音声コンテンツを載せるのには向いてるんだろうかとか、その辺の話である。まあそこいらは追々調べていこうと思う。

note.com

 

 

 年末までには一応どれか選んで、来年から実践してみようと思う。もし本記事をお読みの皆さまからも何かご意見くだされば参考にします。

 

 あと、完全に気分で始めた「毎日Xとインスタでその日が誕生日の人を祝う」というアレ、アレも継続希望の声が出始めている。アレは単純に画像のストックがなくなってきて厳しくなってきている。アレは全然大変じゃないのでやってもいいんだけど、TLに変なリズムが生まれるという副産物はあるんだよな。まあ考えます。

2024年10月 Books

 10月。なんだかんだで9月までずっとじわじわと暑かったから、10月にしてようやく秋が来た実感がある。と言うてる間に冬が来る。

 今月はSILENT BOOK CLUB@箱根行きの電車から始まって読書タイムにエンジンがかかり、久々に課題図書めいたものもできたりして、楽しかった。言うても本関連のイベントが増える時期であり、積読もまた増えてしまった。

 

1.キム・ミンジュ 岡裕美訳『北朝鮮に出勤します─開城工業団地で働いた一年間』新泉社

www.kinokuniya.co.jp

 このところ韓国と北朝鮮の間で穏やかでないニュースが続いている。2020年以降、相当緊張が強まっている時期じゃないだろうか。

 そんなときに、この本のタイトルで「開城(ケソン)工業団地」という場所がかつて北朝鮮にあったことを知った。2000年代の南北の歩み寄り(!)を象徴する存在で、北朝鮮が土地と労働力を、韓国が技術と資本を提供した造られたそう。21世紀に入ってから、南北が合同で産業を動かしていた時期があったとは……。まるで知らなかった。

 本書は、この開城工業団地の食堂で1年間勤務した韓国人栄養士の手記である。そもそも、著者のキム・ミンジュ氏は南北の統一にかかわる仕事を志しており、その過程で「北の飢餓問題を解決するために栄養の専門家になろう」という動機で栄養士になったそう(p.186)。そういう(栄養士という仕事への)たどりつき方もあるのか、と思った。

 内容は主に北の職員らとの「交流」を書き留めている。言うまでもないことだが、日本に住んでいるとまったくもって実像が見えてこない北朝鮮という国にも「普通の人々」が住んでいて、仕事をして食料を求め、生活をしている。そういった「普通の人々」のことを書いた本として、本書はかなり貴重なものなのではないかと思う。彼女ら(食堂の職員は女性が多い)がどのように仕事に出て、家族を養い、韓国人である著者に接するのか。それらが虚飾なく、平易な筆致で記されている。

 「北の人はほとんどの場合、一人だけでいるときは純朴そうに笑いながら頭を下げてあいさつし、二人以上になると目を伏せて無表情で通り過ぎる」(p.81)

 南の人間と親しげにしているところを誰かに見られてはいけないのだ。一方、他人の目がなければ南の人間であれごく普通の振る舞いとしてあいさつをする人々らしい。

 「北」にまつわるニュースのあれこれを眺めながら、本書に登場する「普通の人々」のことをふと考えた。

 

2.千葉雅也『センスの哲学』文藝春秋

books.bunshun.jp

 音楽をやっていると「センスがいい/悪い」という話題は必ずついてまわる。この歳になれば表立って人に「センス悪いね」なんて言うことはそうそうなくなっては来るものの、褒める分には「センス」という言葉はけっこう無限定に使われることが多い印象がある。しかし実際のところ「センス」とはなんぞや、あるいは「センスがいい」とはどういうことか、と説明しろと言われたら、できない人が多いのではないか。私もできない。

 そこで『センスの哲学』。これまでに数冊と読んできた千葉雅也先生の著作であり、前作(?)の『勉強の哲学』もとても印象的だったので、これだ、と思って手に取った。

 結論、とても興味深く、また何かポジティブな気持ちになれる本だった。センスという言葉から出発して、音楽や絵画、さらに餃子に至るまで話が展開され、全体としては芸術論という形になっている。「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである」(p.44)というのが比較的冒頭に出てくるキーワードだが、これなどは『勉強の哲学』で出てきた「ノリから降りること」「ノリ悪くあること」あたりの議論にも繋がってきそうだ。

 リズムというものを様々な経験に当てはめてみる箇所も面白かった。音楽におけるリズムはもちろんだが、本書では餃子を食べるときのテクスチャや味の変化の過程をリズムに置き換えて解説していく。それが「美味しさ」だったり「味の楽しさ」あたりの話に繋がっていくと。音楽人間としては「リズム」というと必ず音楽から話を始めてしまうので、眼から鱗である。リズムに関するキーワードとしては、「面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なバラツキで起こることである」(p.171)となっているが、ここに至るまでの議論も面白いので気になる向きは実際に読んでみてほしい。なお、「差異」と「反復」という語はジル・ドゥルーズのそれを踏襲している。

 章を追って展開していく本書そのもののリズムも(こういってよければ)たしかなセンスのもとに組み上げられていると思った。

 

3.三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社集英社新書

www.shueisha.co.jp

  ありそうでなかったタイトルの本だと思う。そして、読書の習慣がある/あった人ならば間違いなくム、と気になる秀逸なタイトルである。この時点で新書としては「勝ち」と言ってもいいぐらいかもしれない。……ゆえに、実際に買って読むまでにワンテンポ遅れてしまった感がある(春にこの本がSNS上でバズっているのを見て、なぜか知らないかなんだか満足してしまった)。

 まあそれは言い訳として、タイトルどおりに働いていると本が読めなくなる理由を探っていく本書は、サブタイトルをつけるのならば「サラリーマンの読書史」とでもいうべき内容である。明治時代に始まって高度経済成長期、バブル、そしてスマホやインターネットが普及した現在に至るまで、経済的・政治的・文化的なキーワード(例えば明治期だったら「立身出世」とか)と絡めて、働く人がどんな本を買ってどのくらい読んでいたか、ということを調査していく過程は、端的に言って勉強になり、面白い。また、「読書ができなくてもインターネットができるのはなぜか」といったあるあるの疑問への回答も丁寧だと思ったし、「知識」と「情報」の差異から、「ノイズ」という軸で平成以降の読書という営為に関する位相のねじれを検討していく部分も興味深かった。

 最終結論に関しては「実際それができたらいいんだけどね…」と少し思わなくもないが、特に最近は敢えて言語化されてこなかったことというか、改めて口に出してみると大事なことだよなあと気づかされる内容ではある。

 

4.岸 惠子『ベラルーシの林檎朝日新聞出版(朝日文芸文庫)

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 久々に立ち寄った横浜・日吉のとある古本屋で入手。女優、テレビレポーター、そして文筆家と、さまざまな顔をもつ著者による紀行文集である。

 『ベラルーシの林檎』というタイトルにまず惹かれ、さらに背表紙の「イスラエルパレスチナバルト三国──人は国境と同じ歩幅の動きを強いられる」という一文で始まるあらすじに、これは買って読まねばという思いをたしかにした。本書の文庫版の刊行は1996年。この時期、パレスチナ(それもガザ)に入った日本人の記録はきっと数少ないはずだ。

 岸さんはフランス人の医師・映画監督のイヴ・シァンピと結婚してパリに渡った人で、その地での経験からユダヤ、ひいてはイスラエルへの関心を深め、実際に取材に訪れている。本書にもイスラエルパレスチナ、双方での体験が書かれており貴重である。

「ふと、デヘイシャ難民キャンプで、私たちスタッフを取り囲んだイスラエル兵の中の一人が言った言葉を憶い出す。

『もうたくさんだ。投石は恐怖です。かと言って彼らに催涙弾を撃つのもほんとにいやです。お互いにもう憎み合うのはうんざりです』

 では、なぜ?

 国なき民ユダヤが独立国を持ったそのときから、パレスチナ・アラブは国なき民の不幸を肩がわりしてしまった」(p.109)

 このほかに、バルト三国や東欧諸国など、政治体制の過渡期にあった国々を多く回っており、行先ゆくさきでのできごとがときにリズミカルに、ときにシリアスに綴られている(1932年生まれの岸さんは、ご自身も戦争を体験されている。当時の体験は本書の冒頭で語られているし、それは全体の筆致にも無関係ではないだろう)。

 そして自身の、日本とフランスの狭間で生きるうえでの「アンコミュニカビリティ」の話。紀行文ではなく自伝的なフェーズが最後に入るのだけれど、これが本書全体のキーになっているよう。

 単なるルポエッセイの枠を超えて、さまざまな思考・関心への広がりの窓口になってくれる、そんな本だった。

 

5管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』筑摩書房ちくま文庫

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 はからずも『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に対するアンサーのようなタイトルの本を手に取ってしまった(もちろんこの2冊の発行に因果関係はなく、こちらの出版のほうが『なぜ働いていると〜』よりも先だ。

 これまでに読んだ本のなかでもかなり風変わりというか、自分が今までに出会ったことのないタイプの本だった。冒頭で本書の前提、つまり「本は読めないものだから心配するな」という話が提示される。読めないものだし、読んだそばから忘れていくものだ。そのことを気に病む必要はないと。また、筆者は「本に『冊』という単位はない(p.13)」という。「あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることを繰り返している(同)」からだ。これも面白い考え方だと思うと同時に、言われてみればなんとなく実感がある。

 これ以降は、各段落において古今東西、さまざまな本をテーマに据えつつも、話題は筆者が世界を旅して見てきたものやその国の歴史、政治、大学制度に至るまで自由に飛び回る。まとまった章や項目といったものもなく、左上の柱にはすべて異なる言葉が記されている。1冊が大きな川、それも大小取り合せ、色とりどりの船が浮かぶ川のような本である。あるいは多種多様な樹々に周囲を囲まれた森のような本である(という意味でも惣田紗希さんのカバーイラストが本当に良いんです)。

 前述のとおり、章という章もなく、目次もないので、どこでどんな本の話をしていたのか(メモでもしていない限り)あとから見つけ出すのが困難である。また、膨大な情報量と多岐にわたる話題は、本書を「この本はこんな本だよ」と一言で言いあらわすことを難しくする。しかし、それこそがとりも直さず「本は読めなくて大丈夫」「忘れても大丈夫」という前提のたしかさを証明しているように思う。

 それでいて、数ページに一度は心を惹く文章がぽ、と出てくるのがまた楽しい。結構たくさんメモしたが、特にこちらが好きだ。

 「心がどのような言語で語られるどのような文によって育てられるかは個々の人の自伝に属することだが、その心の自伝は別にいずれかの国語、いずれかの文学に忠誠を誓う必要はまったくない。文字という徴が描き出す文という紋様の非人間的な自由さは、そんな境界をまったく意に介さず、誰にとっても接近可能なものとして、そこに与えられている。」(p.241)

 

6.エルベール編 蒲 穆訳『ガーンディー聖書』岩波書店岩波文庫

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 ガ(ー)ンディーの著作は3冊ぐらい手元にあるのだが、恥ずかしながらきちんと読み通したものがなかった。そこで、とりあえずいちばんページ数の少ない本書を手に取った。

 そしたら。翻訳が古く、漢字がすべて旧字体だった。一応明治〜大正期の文学を読んでいた時期があるので一通り読めはするのだが、流石に現代の字体のようにすらすら進むことはできない。結局じっくりと時間をかけて読む羽目になった。

 しかし、それが却ってよかったかもしれない。本書はガンディーの教えが書簡になったものをまとめたものなのだが、「眞理「博愛」「純潔」など、各テーマに沿って説かれる内容は(敢えてこういう言い方をすると)非常にシンプルである。「私慾抑制」のところなんて、こんなことが書いてある。

「肉體に必要なる分量以上に食べてはならない。(中略)食物に關しても亦同樣である。味が良いからとて、なんでも食べるのはこの法則に反する。好むからとて過度に食べるのも同樣である。食物に鹽を加えてその量を增加し、或いは風味を變え、或いは味を附けることも亦法則に反する」(p.31)

 要するに食いすぎるな、あと塩分は取りすぎるなと。ダイエットの基本である。しかし、こうした文章も丁寧に目をとめながら読んでいくと、他のさまざまな項目との関連や論理的な一貫性が見えてくる(気がする)。

 ガンディー自身は偉大な宗教家であり哲学者であっただろうが、もとより民衆の側に立って活動した人である。そうした背景も大きいであろう彼の、理解はしやすいのにハイレベルな文章を書く技術は、並の生活をしていてたどり着ける境地ではないと思う。

 

7.崔仁勲 吉川凪訳『広場』CUON

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 崔仁勲(Choi In-hun、リエゾンが起こって「チェ・イヌン」と発音する)は1934年に咸鏡北道に生まれた作家。今でいうと北朝鮮に当たるエリアの生まれである。朝鮮戦争以降は韓国を拠点として、文学や演劇の世界で活躍して2018年まで生きた。この『広場』は韓国で最も多く高校教科書に採用された作品でもあるそうで(「訳者解説」p.257)、国民的作家と言って差し支えない人物と言えそうである。

 だとすると、結構読解が難しい作品が教科書に採用されているなあと思う。主人公の李明俊は朝鮮戦争の後、停戦時にいた南に留まることも北に帰ることも選ばず、外国で新しい生活を送ることを選ぶ。その船上での回想が本作のスタートとなる。主人公はマルクス主義に共感して革命を志しながらも、北の現状を「灰色の共和国(p.146)」と感じ、自分が精神的支柱としてきた思想と現実の乖離に苦悩する。そこに、恋人の女性や父との関係もストーリーに絡んでいき、物語は複線で進んでいく。

 私が「読解が難しい」と思うのはまず第一に、朝鮮半島の歴史や、南北におけるイデオロギーの交錯を身体化された学びとしてはもっていないことがあると思うが、その上でこの作品を読んでみても、時系列や場所の情報がシームレスに移動したり、肝心な部分がぼかして描かれたりしており、読者を安易な批評あるいはシンパサイズのフィールドに引き込ませない意志を感じた(とはいえ、戦後しばらくは韓国も独裁政権で検閲が厳しく、ストレートに政府を批判するような内容を書けなかったことが理由としてあるようである。チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』でも似たようなことを読んだ)。

 だが、そんな難解な文体の中に時々現れる鋭くストレートな表現に、ぐっと胸を掴まれるのもたしかだ。

 「公文書による革命の上にあぐらをかく役人になって、自分の頭で考えようとする人たちに目をむき、真理を解釈する権利を独占しようとする人たちがのさばる社会。こんな社会で革命の興奮を装うのは偽善者だ」(pp.185-186)

 「『死ぬ前に、せっせと会いましょうね』(中略)恩恵は、せっせと会おうという約束を、永遠に守れなかった。戦死したのだ」(p.209)

 読む人が読めば、芯がどこにあるのかわからず掴みどころのない作品と思われるのかもしれない。しかし、その掴みどころのなさそれ自体が、この物語の根幹というか、南北の分断と主義・思想の迷走の中で生きようとした1人の人間を描く姿勢として、とても真摯だと感じる。

 

8.尹雄大『聞くこと、話すこと。−人が本当のことを口にするとき−』大和書房

www.daiwashobo.co.jp

 仕事柄、人の話を聞く側に徹することが多い。結論ありきの話もあれば自由に展開していく話もあり、それは取材やインタビューの目的や媒体によっていろいろだが、それだけ「聞く」ということをしていながら、「自分が話すこと」に関してはついぞ考える機会がなかった。そんな思いもあって手に取ってみた本である。

 情報の伝達を目的としたコミュニケーションや、ノウハウに基づく「上手な聞き方/話し方」といった、現代で価値あるものとされる聞き語りの価値観をいったん括弧に入れ、「あなたと私の間にある言葉」をそのまま見つめるということについて考えていく、と言ったらよいだろうか。

 濱口竜介、上間陽子、坂口恭平、イヴ・ジネストの各氏との対話による章と、最後に尹氏自身が実践しているインタビューセッションという試みに関する章の全5章。個人的には上間教授の章とイヴ・ジネスト氏の章により深く魅入られた。

 上間教授の『海をあげる』は私自身にとっても大切な1冊で、そんな同教授の「語りについての語り」を読めたことはとてもよかった。「本当にのたうち回るような経験というのをした人は自分の体験をもたらす言葉を持たない(p.94)」という言葉が脳裡に刻まれている(筆者も述べているように、「経験」と「体験」がわけて書かれていることが重要である)。なぜ、壮絶な虐待を受けた沖縄の少女や、従軍慰安婦として戦場に赴いた人々の語りがときに途切れ、一貫性を欠くことがあるのか。そうした現実にも関係してくる一文である。

 イヴ・ジネスト氏の「ユマニチュード」は、少し前に認知症について調べたことがあり、その際に知った理論である。ユマニチュードは「絆の哲学」すなわち「ポジティブな依存の哲学」であると同氏は語る(p.140)。とかくネガティヴな文脈で使われがちな「依存」という言葉の意外な登場のしかたに驚きつつ、彼の考えるケアのこと、また他者に近づくということの意味について知る。

 最終章・「私とあなたの間にある言葉」。この章では、他者の話を聞くという取り組みから、「最も身近な他者」であるところの自分に対する言葉のかけ方というところにまで話がを及ぶ。正直、今の自分にはまだ理解しきれていない部分もある章なので、今後また本書を開いたときの宿題としたい。「おわりに」にも、「答えは何ひとつ書いていないけれど、問うための手立てはたくさん綴ったつもりだ(p.260)」とある。

 

9.宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社

www.shinchosha.co.jp

 『成瀬は天下を取りにいく』の続編。成瀬シリーズ好きだなあ。「そうはならんやろ」と「ワンチャンあるかも」の間をすり抜けていくストーリーと嫌味のない文体。単なる善人もいなければ100%の悪人もいないが、変な人は結構いる、そんなリアルな人間描写もいい。

 これは中身をあれこれ書くとネタバレになりそうなのでこのへんに。

2024年10月 Records & Lives

 10月。結構予定外の予定(異常日本語)が入ったりして、もともと行きたかったライヴに行けなかったりと残念なこともあったが、一方ですごくツボな新譜に出会えたりもして総合的には楽しかった。あと、最近あまりレコードを買っていなかったのだが今月はいろいろ含めて3枚ぐらい買った。改めて思うにレコードは本当に沼である。セーブしながら買わねば。

 

●Records

For Cryin’ Out Loud! – FINNEAS

 FINNEAS(Finneas O’Connell)といえば、妹のBillie Eilishのステージでベースを弾いている印象が強かった(単にライヴサポートをしているだけでなくプロデュースとか、いろいろ深く関わっているのだけど)。ソロ作をきちんと聴くのは、これまで本作がはじめて。

 #1「Starfucker」からもう好きだった。ピアノ×美メロにはどうも弱い。あと、2Aでブレイクが入るのにも弱い。なお、Starfuckerという物騒な単語もこの曲で始めて知った。セレブリティと深い関係になりたがるファン、言うたらリアコ勢のことを指す言葉らしい(実際に「そういう」関係になれているかどうかは問わないっぽい)が、それを踏まえると「You think you're so underground / But you're so much less profound」というリリックのパンチの効き方がすごい。甘いメロに対して激辛である。そこから#3「Cleats」までの流れで一気にこのアルバムの虜になった。

 タイトル曲である#8「For Cryin’ Out Loud!」とラスト曲・#10「Lotus Eater」もそれぞれリピート曲。「For Cryin’ Out Loud!」はミッドテンポのバラード曲で、ホーンの使い方になぜかわからないが懐かしさのようなものを感じた。#10「Lotus Eater」もまた意味深な表題だ。途中のリリックが禅問答のようになっているのと関係はあるのか、どうか。

 

Feats of Engineering – fantasy of a broken heart

 ディスク・ユニオンの紹介文には「ザ・フレーミング・リップス鋼の錬金術師に影響を受けたデュオ」と書いてある。鋼の錬金術師って、あの鋼の錬金術師か? と思って軽く調べてみたが、どうやらあの鋼の錬金術師らしい。アニメ・漫画のワールドに影響されているようだ。

 アメリカのポップ・デュオで、音楽的にはプログレ〜サイケの要素を取り入れつつ、それらを近年のドリーム・ポップの音像に昇華した感じとでも言ったらいいだろうか。ともかく、個人的にはすごく好きなジャンルである。基本的にはバンドサウンドを中心にしつつ、ときにオルガンや打ち込みのストリングスがそこに花を沿える。

 イントロの#「Fresh」から#2「AFV」になだれ込む。ギャンギャン鳴るギターとうねるようなベース。そこに乗るオクターヴニゾンのヴォーカル。良い。キャッチーなポップソングかと思っていると最後の1分間でガラッとリスナーを惑わせてくる。続く#3「Loss」の切実さも好き。#6「Ur Heart Stops」はエフェクトのかかったリードギターがドリーミーな雰囲気を醸しつつ、途中で挟まれる畳みかけるようなリズムパートや呟くような歌い方がおもしろい。

 日本でも間違いなく好きな人は多いだろうし、フジとか来てほしいなあ。

 

Fabinana Palladino – Fabinana Palladino

 UKで活躍するSSW、Fabiana Palladinoのファーストアルバム。ファミリーネームから察するとおり、父はあの名ベーシストPino Palladinoである。本作にも参加しているそう。

 バンドサウンドとエレクトロニックなサウンドが交錯する印象で、音楽的にはR&Bを起点に広いところからエッセンスを取り入れているように思う。踊れる歌もの、という軸はしっかりあるようだ。

 UKシーンの敏腕プロデューサーであるJai Paulとの共作曲#5「I Care」がアルバムの中間地点になっているのだが、ここに至るまでの前半がややシリアスモード、ここからの後半が(曲の雰囲気だけ聴くと)ポジティヴなモードになっている感があって興味深い。例えば#3「I Can’t Dream Anymore」なんかはミッドテンポで曲調も、切々と歌い上げる系。「When I go to sleep, I’m tired/But I can’t dream anymore」と歌詞も結構キている感じだ。しかし、キーボードのオブリが全編を通して煌めく#6「Stay With Me Through the Night」〜ギターのブリッジミュートから走り出す#7「Shoulda」の流れはなにか夜明けのようなイメージすら湧く。まあ、と言いつつ#8「Deeper」で大人な雰囲気になるけれど。

 ファーストアルバムがセルフタイトルってなかなか勇気が入りそうだけれど、それもしっくりくる完成度の高さだった。

 

SANGO ALBUM – リ・ファンデ

 リ・ファンデ(李晃大)さんのアルバムを聴くのは、寡聞にして本作がはじめて。砂の壁のマオさんが#1「原色」、#12「それより影」にコーラスで参加されているということで、その投稿を見て知ったようなところがある。

 一言でこのジャンル、と言い切るのが難しいが、一聴してその引力にグッと惹き込まれる音像。ダンス/エレクトロニックの雰囲気を醸すビートに、ある種のラフさを残したヴォーカルとギターが飛び乗っていく。打ち込みのひんやりした動力とアコースティックなトラックの手触りが絶妙なバランスのうえで手を取り合って作り出す空気感が癖になる。

 もちろん一曲一曲の楽曲もそれぞれに魅力を湛えている。前述の#1「原色」はサビのたたみかけが心地よくて何度も聴いてしまうし、#5「マンボーの恋人」はアコギが刻むコードとパーカッションのポコポコいう四分刻みがきもち良い。「ヌヌヌヌ〜」というラストのコーラスもコミカル。そしてミツメファンとしては、#8「靴の間に(feat. 川辺素)」がアツかった。ミツメは活休してしまったが、こうして川辺さんの声が聴けるのはシンプルに嬉しい。

 リ・ファンデさん、次はライヴに行ってみたい。

 

The New Sound – Geordie Greep

 事実上解散となってしまったblack midi(日本で2回観ておいてよかった)。そのフロントマンであったGeordie Greepのファーストアルバムがでた。

 まずジャケットのインパクトがすごいですね。具体的なモチーフはわからないけれど、日本的なモチーフがグロテスクながらもどこかコミカルに散りばめられている。前はHellfireのツアーとフジで2年連続で来日してるし、本作のリリースに合わせても来るし、一時期ヤマハのギターも使ってたし、日本にはなにか特別な思い入れでもあるのだろうか(大友良英を聴いてるみたいなのはいつかインタビューで読んだ記憶があるけれど)。

 先行トラックだった#3「Holy, Holy」はサザンとか言われていたなあ。大ハマりしてリピートしましたが。確かに日本的な歌謡ポップっぽさはメロにあるかも。えげつないタイミングで入れてくるキメとか、いかつめのギターソロなんかはblack midiでも展開されていたポストロック要素がふんだんに感じられたけれど。

 全体的にはむしろボサノバとかサンバ、タンゴとか、ラテンアメリカの風を感じるタイミングが多かった(#4「The New Sound」や#5「Walk Up」らへんのタタッ、タタッ、というリズムは明らかにその辺を意識していそう)。#7「Bongo Season」という曲があるが、パーカッションも全体にわたって効果的に使われている。ブラジルの音楽が好きな人間としてはテンションが上がった。

 あと、個人的には#8「Motorbike」の疾走感と不穏さの同居のしかたがすごく好き。

 

Sad Girl – TSHA

 英国のミュージシャン、TSHA。ちょっと前まで読み方もきちんと把握していなかった(ティーシャ、と読む)うえ、昨年のフジにきていたことも失念していた。土曜深夜のRED MARQUEEでの出演だったということで、恐らく私は寝ていたに違いない。惜しいことをした。

 本人はベースを中心にシンセ、DJを使いこなすマルチ・インストゥルメンタリストで、実際ライヴ写真を見てみたらベースを携えていた。ダンス系のトラックをつくる人はベースかドラム、どちらかの経験者が多い印象だ(ギターは結構珍しいんじゃないだろうか)。クレジットを歌ものは大体フィーチャリングでヴォーカリストを呼んでいるのかと思ったが、今回初めて本人もヴォーカルを録っているそう。多くのミュージシャンを迎えていながらアルバム全体の色には一貫したものがある。

 Rose Grayを迎えた#2「Girls」、歌詞も含めて好き。「Love like you've never been hurt this time/And girls/Live like you never die」。Master Peaceとの#4「Can’t Dance」はタイトルに反して全然踊れる。Caroline Byrne(まさか? と思ったがDavid Byrneとの血縁関係はなさそう)との#6「Sweet Devotion」、淡々としたビートに不穏なコードが忍び込んでくる。こういうタイプの曲、じつはかなーりツボである。

 

Songs About You Specifically – MICHELLE

 ニューヨークの6人組。「ソウル・コレクティヴ」とか「インディーポップユニット」といった漠然とした書き方をしている媒体・メディアが多く、「バンド」とは書かれていないのが少し興味深い。

 #1「Mentos and Coke」を聴いてみて早々に、結構不思議な曲だなあと思うなど。ソウル、と言われればそんな気もするし、Big Thiefのようなフォーキーなポストロックの路線に通じる部分もある。と思っていたら、曲中で急にテンポが変わり、ベースが急に饒舌なラインを奏で出す。そのままシームレスに#2「Blissing」へ。ここからだんだんとソウル、ファンクのカラーが強くなっていくようだ。#3「Akira」。アキラとは誰だろう。内容はセックスと人間関係にまつわるしっとりとしたもので、大友克洋先生の「AKIRA」とは一見関係なさそうだけれど。

 #9「Oontz」も再生回数が多いようだが、これなんかは王道のチル目R&Bという感じで、ちょっとしたノスタルジアすら感じる(この曲を聴きながら勝手にMarvin Gayeの「Sexual Healing」を思い出したのだが、こちらのほうがさすがにしっとりしていた)。

 すごい衝撃を受けるというのではないけれど、聴きやすくていいアルバムだと思った。

 

Songbook – Gilbert O’sullivan

 アイルランド生まれ、イングランド育ちのSSW・Gilbert O’sullivan。超大御所だし、代表曲と言われる何曲かは知っている。で、本作は再録ベストとでもいうべき内容になっている。

 アコースティックなサウンドで、奇を衒わず、親しみ深いメロディを持ってきてくれるので安心する。#2「Clair」、#6「Alone Again(Naturally)」あたりは流石に改めて聴くに名曲だが、再録によって単に「深みが出た」という次元にとどまらず、70歳代後半にして新たな爽やかさのようなものすら感じられるのが凄い(録音技術が現在のそれになっているからモダンにきこえる、というのは大いにあるだろうけれど)。文字どおり鍵盤を叩くようなリズミカルなピアノも健在で楽しい。

 最近はインディーポップやエレクトロニカを聴くことが割合としては多かったので、こういうアコギとピアノをフィーチャーした音をじっくり聴いていなかったのだが、そういえば最初に好きになったポップスのサウンドはこういうのだったな、とふと思い出した。一つ一つの楽器の音がよく聴こえるから、全員上手くないとカッコよくならないジャンルだし。そのシビアさとゆるさの間隔が好きである。

 

Chemistry Foreverever – DJ Swagger

 ドイツ・ビーレフェルトのDJ/プロデューサーのエレクトロニカアルバム。8曲26分というコンパクトさだが、聴き応えがある。ビーレフェルトという街の名前を寡聞にして知らずだったが、デュッセルドルフを州都に据えるノルトライン・ヴェストファーレン州の経済都市で、調べてみるとクラブが結構あるらしい。独自のクラブカルチャーが育っていたりするのだろうか。

 アルバムは個人的に好みな曲調のトラックが多く、シンプルに聴いていて楽しかった。#1「Best Friends」はヴォーカルバラッドのような入りからジャズ風の鍵盤のループに移行し、ドリーミーな雰囲気を保ったまま歌モノに回帰する展開がシームレスで心地良い。個人的に一番好きだったのはアコギとエレキベースをフィーチャーした#3「Space Cowboy」。アルバム中でも特にキャッチーなナンバーだと思うが、途中で完全にエレクトロ要素が抜けてスイング・ジャズになる瞬間があってそれも面白い。#7「Days Before」のようなピアノ、これには何か名前がついているのだろうか。ソフトな音の立ち上がりで、ゆらゆら揺れる感じのサスティーン。

 全体的にメロウで、明るいか暗いかでいえば暗いアルバムなのだろうけれど、かなり好きだった。

 

 

●Live

10/12 Cross Cultural Night(OTB from Korea Japan Tour)@下北沢mona records

 夜のモナレコは久しぶり(最近は昼によくきていた気がする)。韓国のバンドOTBのジャパンツアーで、対バンがよく知っているバンドだったし来てみた。

 Seukolは直近も観たけれど、ハコやセトリが違うことで色々な表情が見えてくるバンドなので何度観てもよい。曲名を忘れてしまったのだが(「夜の端で」かと思っていたが改めて聴いたら違った)、アレンジがメロウな雰囲気に変わっていていい感じになっている曲があった。

 Sick Sickmanはじつは知っている人が参加しているバンドで、兼ねてから観たいと思っていた。R&Bベースのシティポップという感じですごくクール。モナレコももちろん良かったけれど、よりクラブっぽいハコも合いそう。

 Abenieは初見だった。すごくポップでメロが良いというのと、シンプルに各メンバーのプレイスキルがめちゃめちゃ高い。ギターうっめ〜と思った後にベードラのコンビネーションがガッチリ決まり、キーボ&ヴォーカルのコードとメロの絡みも絶妙で、目が離せない。

 OTBもすごいバンドだった。彼らもすごくテクいというか、歌・ビートボックス・ギターというそれぞれの領域で確固たる技量を備えている。のだけど、ライヴはライヴでエンタメとして高い水準で完成されている。日本語曲のカヴァーも交えつつ、しかしやはりオリジナル曲の良さが滲みる。各人のスキルが最もよいかたちで化学反応するんだろう。ビートボックスとギターのソロコーナーも圧巻だった。ビートボックスの方は韓国のコンテストで優勝経験があるらしい。

 

10/13 AHN YEEUN FIRST CON 花 in Japan @SUPERNOVA KAWASAKI

 じつはまったくノーマークだったのだが、大学時代の先輩からお誘いをいただいて行った。日ごろ韓国のアーティストや作家の作品を載せてヤーヤー言っているのを見てくださっていたのだと思う。ありがたいお話である。

 キーボード弾き語りor自作トラックの打ち込みをバックに歌うスタイルの方だったが、まず声のハリと通り方がすごい。ふと、小学校の音楽鑑賞の時間に聴いた「アリラン」を思い出した。喉をギャッと締めて、しかし身体の芯から厚みを持たせて声を響かせるあの感じ。日本のアーティストで言うと初期の椎名林檎倉橋ヨエコの雰囲気に近い(し、実際にカヴァーで林檎さんやヨエコさんの曲を歌っておられた)。一聴して癖になる歌声である。

 オリジナル曲は個人的な体験のほか、神話や御伽話にインスパイアされているようなものもあり、テーマも音楽性も幅広かった。良いアーティストに出会えた。

 

10/16 WWW & w.a.u presents n.e.m vol.2@渋谷WWW

 以前より漠然と気になっていたコレクティブ・w.a.u。生活の設計のサポートで一緒に演ることがあるgaiくんが所属しているレーベルというのもあり、さらにわりと近いコミュニティにいた人がちょいちょい関係しているっぽいのをなんとなく把握していた。WWWでイベントをやるというのでわりとライトなノリで行ってみた。

 ら、すごい人だった。ダブダブがみっちり。そして、おそらく平均して2〜3歳ぐらい自分よりも若い人が圧倒的に多い。20歳代そこそこでここまで人を集められるw.a.uという組織の力にまず驚く。

 主な目当てはバンドだったので、基本的にはメインフロアに居てさらさ、TRIPPY HOUSING、reinaの三組を観た。この日は「w.a.u BAND Set」という固定バンドが三組をそれぞれ支える、というあまり観たことがないスタイルで面白かった。

 さらささんは、以前観た際は別なバンドセットだった。そのときは本人もギターを持って歌うなどフィジカルなバンド感が強かったが、今回のw.a.uセットはよりソリッドな雰囲気。こちらにはこちらの良さがあった。w.a.uの立ち上げに関わった後、現在はレーベル自体からは離れているものの、こういう機会に一緒に演奏すること自体は今後も含めてあるとのことだった。

 TRIPPY HOUSINGは初見だが、これまた面白い音楽だった。TRIPPYというだけあってサイケな空気感を出しつつ、アフリカルーツの音楽のエッセンスもしっかり感じる。楽器の使い方も王道と斬新の絶妙なバランスを行っているような感じがする。

 reinaさんは、じつは昔どこかで観たことがあった、はず。そのときはreinaさんと知らずに観ていたので実質初だったが、端的に歌唱力エグいな……という感想が出る。R&Bに合う声質ってなかなか出せる人が多くないと思うのだが、reinaさんは英詞の発音やリズムも含めてピタッとハマっている。

 そして長丁場のセットで、各アーティストのジャンルに合わせたトラックを変幻自在に展開していたw.a.u BAND、すごい。ただ「上手い」だけではなくて、日頃からたくさんの音楽に触れていないとできない所業だろう。

 

 

◆買ったレコード

@BIG LIVE RECORDS

Here in the Pitch - Jessica Pratt

Underdressed at the Symphony - Faye Webster

 

@COCONUTS DISC 江古田

Garota de Ipanema - Nara Leão

セクシュアリティについて(reprise)

 ふと、あ、と思い出してとある文章を読み返してみた。これである。

tetsuoji.hatenablog.com

 

 端的にいうと今の私はアセクシュアルですよ、アロマンティックですよというのと、それについて諸々思っていることをまとめた文章である。自分で言うのもなんだけれど、なかなか魂のこもった、まじめな文章だと思う。

 

 そもそもなんで思い出したのかというと、Aceweekというのを今年もやるよ、というのをTwitterもといXで見かけたからだった。いわゆる啓発週間というやつで、この週は特にアセクシュアルについて色々考えたり発信したり(できる人は)していこう、という取り組みである。考えてみれば、上の記事も昨年のAceweekに合わせるかたちで書いたのだった。

 わりあい直近に書いたものだと勝手に思っていたけれど、これを公開してから何気に1年が経つわけで、まあまあ驚いている。

 

 上の記事には思ったよりもかなり多くのリアクションがあった。まあ中にはえーとそういうことを言ってんじゃないんだよな、というものもあったけれど、ほとんどは温かく、私を前向きにさせてくれる内容で、大変ほっとしたのを憶えている。

 

 ここ1年の間のことを振り返ってみると、アセクシュアル/アロマンティック(以下Ace/Aro)に関するZINEや小説が登場したり、アニメのキャラでAce/Aroが公式設定になっているのが出てきたりと、じわじわとではあるがAce/Aroという存在が世間に浸透してきているのかな、という希望めいた感覚がある。

 一方でいまだに恋愛(特に異性愛)至上主義的な言説や、性愛を前提としたパートナーシップに関する情報提供が我が元に舞い込んできたりするとうーんまだまだやなあ、という気持ちにはなる。それとは別に、Ace/Aroはその特質上あまり矢面に立たされることが少ない印象だけれど、性的少数者があからさまな差別の対象とされる言説、これはもうずーっと続いている。これには断固として拒否・抗議すると明言しておく。少数の属性をもつ人々に対する根拠なき偏見に基づく差別はまったくもって間違いであって、重大な権利侵害であると。

 

 ごく最近参加した読書会で、わかること/わかりあえないこと、というのが話の中心にあがった。「どうしてもわかりあえないであろう人にわかってもらうためにはどうしたらいいか」「わかってもらうためにこちらが払う痛みのことはどう割り切ればよいのか」など。

 そして、「世界を変えるには」というのも話にあがった。自分の環境のなかで変化を望むポイントにどうアクセスしていくか。

 会の最中、話を聞いているあいだは呑気にも「この人はちゃんと世界に向き合って考えを深めているな……」などと考えていたのだが、帰路でふと「あ、これかもしれん」と思った。これというのは要するに、読書会であがった問いが、私にとっては自身のセクシュアリティと密接に関係するものなんじゃないかということである(もちろんそれ「だけ」ではないですけど)。

 

 『転がる岩、君に朝が降る』の「出来れば世界を僕は塗り替えたい」じゃないけれど、少なくとも一般的に「正しい」とされている世界の輪郭に一発蹴りを入れることぐらいはできるんじゃないかと思った。

 まずは女と男は2人セットでいるのが普通であってそれ以外は異常だ、という「正しさ」がなくなってほしいし、そのうえで(これはAce/Aroであろうとあるまいと関係なく)シングルでいることを選択する人への理解も深まってほしい。このように希求することを世界への干渉と言ってよいのなら、今後も私はそういったかたちで干渉を続けるし、それがなんらかの形で成果になったならばそれを喜びたいと思う。「わからない/わかりあえない」にも敢えて向かい合いたいと思う。

 

 という、さしあたり1年区切りの現在地確認でした。

2024年9月 Books

 9月。少しずつ暑さも和らいできて秋。読書の秋と世間一般にはいうところなのであろうが、年ガラ年中本を読んでいる身としては特に意識を変えることはない。秋だからたくさん読まねば、ということでもないし。そもそも読書は量(ばかり)を追っても仕方ない、ということに近年ようやく気づいたのではあるまいか自分。

 そういうわけで、いつもとあまりペースは変わらず。

 

1江國香織『雨はコーラがのめない』新潮社(新潮文庫

www.shinchosha.co.jp

 タイトルだけ見て、この本が小説家とその愛犬のことを記したエッセイであるとわかる人はどのくらいいるだろう。私はそうとわからなかった側の人間だ。しかし、一読してその意味するところがわからないがゆえに、『雨はコーラがのめない』という文字列は豊かなイメージを想起させてくれる。とかくタイトルというものは書物の内実を端的に表現することが求められるものだけれど、こういうタイトルの在り方もあるのか。

 改めて、雨とは著者と共に暮らす雄のアメリカン・コッカスパニエルの名前である。そして、本書のもう一つのテーマが音楽。

「私たちは、よく一緒に音楽を聴きます。べつべつの思惑で、べつべつの気分で、でも一緒に音楽を聴くのです」(p.4)

 いわゆる「字で音楽を読む」という、ある意味で不思議な体験だ。

「(前略)雨は犬で、私は人間なので、一緒にできることがあまりないから。雨は本が読めないし、私は牛の肺を干したものなんか嚙目ない。音楽なら一緒に聴くことができる」(p.8)

……たしかに。私たち人間と同じように「聴いている」かはさておき、物理的には空気の振動であるところの音楽ならば、他の種族とも共有できるはずだ。それに雨にはきちんと音楽の好みもあるそうだ(オペラが好きらしい)。

 雨とのエピソードもどれも魅力的なのだが、音楽についての語りも素晴らしい。日頃音楽よく聴いてますみたいな顔をしながら、私は本書に出てくるレコードの大半を知らなかったのだが、その文章からは楽曲を知らない人をも惹き込む成分が感じられる。決してわかる人にしかわからないような言葉を使うのではなく、かといってさらっと書き流すのでもなく。時折登場する擬音も面白い。

「私は、三曲目の「I HEARD THE BLUEBIRDS SING」が好きだ。ぶむぶむと刻まれるコントラバスみたいな楽器の音がとくに。七曲目もよくて、そういえばそれも、だっぷだっぷと刻まれる楽器の音が好きなのだった」(p.119)

 私もベーシストとして、ゆくゆくは「ぶむぶむ」「だっぷだっぷ」をめざしたい。

 

 

2川村湊『戦後文学を問う』岩波書店岩波新書

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 文芸批評家の川村湊による、日本の戦後文学を概観する1冊。第二次世界大戦終結直後のいわゆる「焼け跡の文学」から村上春樹に至るまで、各時代の芯となるテーマを据えつつ論じていく。

 多くの作品を取り上げながら200ページ強で戦後半世紀の歴史を見ていくため、筆致はシンプルかつハイペースだが、それゆえに前章で書いてあったことを忘れないうちに現在のページを読み進められる、文学史の本としてはある意味ありがたい文体になっている。

 「安保闘争」「天皇制への視座」「性差」、はては「クルマ化」など、取り上げる切り口は多岐にわたり、それらはいずれも各時代の社会情勢と分かち難く結びついている。文学とは世捨て人の密室の趣味などではなく、現実世界の写し鏡なのであるということを再確認する。車といえば、それこそ村上春樹作品で印象的に使われている印象があるが(『ドライブ・マイ・カー』等)、本書では短編小説『眠り』が取り上げられている。そこでは、「個人を外部の、外界の危機や危険に晒しながら、それがまるで安全であるかのように思わせる一種の魔法の箱」(p.156)としてのクルマが描かれていることが示唆されている。それをもはや現代人は手放せないのだと。なるほど。

 三島由紀夫に関する記述も印象的である。

三島由紀夫は自分が“性的倒錯者”であることをその作品の中で暗示しようとし、男色家であるということが、身体的な自然性を裏切っている分だけ“精神的”であり、“貴族的”であり、“反体制”的なものであるという神話を補強しようとした」(p.115)

 現代のジェンダースタディーの観点からするとそもそも問題のある視点もあるような気がするが、三島が当時の日本の価値観に対し、自らの身体性をもって提示しようとしたことのなんたるか、ということについてはわかりやすく書かれているように思う。

 終盤では「『在日する者』の文学」が少し多めに紙幅をとって論じられている。最近、個人的に関心をもっている領域でもあるのだが、特に立原正秋について論じている箇所は興味深かった。

 

 

3.堀静香『がっこうはじごく』百万年書房

www.hanmoto.com

 現役の教員が書く、(主に)学校についてのあれこれを綴ったエッセイ。タイトルから想像されるような「現状の学校教育に対する痛烈な批判」というのとはちょっと、というかかなり違っていて、トゲトゲということはないけれどもフワフワということもない、なんとも不思議な手触りのエッセイ集。

 そもそもの前提として、「もともと学校なんて好きではなかったし、教員になるとも思っていなかったのに気づけば教員をしていた」という人が書いた本、という事実がある。これが全体的に絶妙な雰囲気をつくっている大きな要因であるような気がする。切実で、大切なことが書いてあるように思われる瞬間もあれば、やたら軽いタッチで「あ、そんなことまで言ってしまっていいの?」と思えるようなところもある。きっとこの本に関してはこういう書き方をしても怒られないだろうから書くと、教員が書いた本だということをついつい忘れてしまうような、そんな1冊である。

 個人的に「わかるわあ〜」な思いが強かったのは、p.105〜の「先生じゃない」という章。どんな先生だって生まれたときから教員だったわけではないのに、生徒にとってその人は「先生」でしかない、というような話から、「もしもいまとは違う出会い方をしていたら、このひととはこんなに仲良くならなかったのではないか、あるいはもっと仲良くなれたのではないか、と思うことがよくある」(p.109)。これー。もしもあの人が同期だったら、後輩だったら、あるいは上司だったら……だなんてよく考えることである。あるいはそれこそ、本を読んでいて「この人の文章いいなあ」と思っても、例えばその人が職場にいたらちょっとやだろうな、なんて思うことも然り。学校が本筋じゃないところで惹かれてしまったな。

 

 

4.平野雄吾『ルポ 入管──絶望の外国人収容施設』筑摩書房ちくま新書

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 安田菜津記さんの『あなたのルーツを教えてください』(左右社)を読んだとき、ふと自分が「入管」について詳しいことを何も知らないなということに気づいた。これだけ連日ニュースで見かけるワードでありながら、それがどういう機関で、そこで起こっていることの何が問題とされているのか。改めて学び直さねばと思い、このタイトルの本を開いた。

 書いてある内容は想像以上のもので、人権の侵害と言わざるを得ない行為が公然とかつ日常的に行われていると感じた。前提として、入管に収容される外国人にはたしかに合法的な入国手続きを踏んでいない人もいるし、偽造パスポートでの入国歴がある人もいる(その辺りは本の中にも隠さずきちんと書かれている)。それについては法のもと適切なペナルティが課されることは然るべきことと思うが、一方で、それは収容施設での虐待や、病気になった際に適切な医療を受けさせないなどの非人道的な対応を正当化するものではないだろう。法律の素人から見てもアンバランスな処罰が非正規滞在の人々に対して課されているように思う(「強制送還」や「仮放免」といった入管関連のルールについても不明瞭な部分は多かった)。

 あとは、やはり情報の不透明性が日本の入国管理においては大きな問題になっているようだった。例えば、既に日本で生活の基盤を築いている人が仮放免の期間を更新できず、その事由を聞いても「総合的な審査の結果」等と曖昧な返答しか返ってこないなど。こういったところから読み取れる日本の入管システムの恣意性や秘密主義は早急に改善されるべきであると感じた。情報公開の杜撰さや、その過程で法によって守られない人が出てくるということは民主主義の根幹にもかかわってくるだろう。

 総じて気づきの多い本だった。

 

 

5.ハン・ガン 斎藤真理子訳『別れを告げない』白水社(エクス・リブリス)

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 ソウルと済州島を往来する2人の女性の行動と記憶を通じて、済州島四・三事件という史実が浮かび上がってくる長編小説。

 作家であるキョンハ(「私」)は、映像作家だった友人のインソンから突然の連絡を受けてソウルの病院に赴く。インソンは済州島木工作業中に指を切断する重傷を負い、入院したのだった。そこでキョンハはインソンから「済州島の自宅に行き、残してきた鳥の世話をしてほしい」と頼まれ、大雪の降りしきる済州にて怪我まで負いながらインソンの家にたどり着く。しかし、そこからあらゆる事態が悪化していく……。

 済州島四・三事件のことは、他界して久しいインソンの母親の記憶、そしてそこに取材したインソンの映像作品の素材として語られる。それはもちろん物語のなかである種の必然性をもって語られ、現代を生きる2人の女性の物語に自然な形でアクセスしていく。四・三事件については韓国でもまだ十分に理解されていない出来事である(と少なくともハン・ガンは考えている可能性が高い〈訳者あとがきより、p.317〉)ようで、事件についてはかなり詳しく記されていて、初読であっても史実とフィクション部分がまったくつながらないという事態にはならないだろう。

 個人的には、本作を読んでいて同じくハン・ガンの記した『少年が来る』を思い出さずにはおれなかった。この本では、光州事件で命を落とした少年が語り手を務める。あくまでフィクションである小説という舞台を生かして、現実ではありえない「死者が語る」という方法を通じて文学が歴史と向き合うスタイルを提示している。『別れを告げない』では、後半でキョンハかインソンのどちらかが既にこの世を去っている可能性(明示はされない)が示唆され、どちらも生きているのなら現実的とは言い難いかたちでこの2人の会話が進められる(簡単にいうと、済州島のインソン宅で倒れ、意識を喪ったキョンハのもとに、ソウルで入院しているはずのインソンが訪れて語り出す)。ここでも死者、ないし限りなく死に近い場所にいる者による語りが展開されている。こうしたSF的な手法もハン・ガン文学において特徴的な部分だと思う。

 『別れを告げない』というタイトルは、「哀悼を終わらせない」という意味であるとのこと(p.316)。それは死者のことを忘れない、という意味にもつながる。長らく顧みられてこなかった四・三事件の犠牲者の死を世界の記憶に呼び戻し、再び風化させないという意志が、シンプルなタイトルのなかに込められているようである。

 

 

6.パク・サンヨン オ・ヨンア訳『大都会の愛し方』亜紀書房

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 取り扱う題材は異なるものの、こちらもはからずもソウルに住む作家を主人公とする小説。男性として男性を愛する主人公である「俺」の、ジェヒという女友達との奇妙な同棲生活や、半生を通して出会ってきた恋人たちとのメモリーが語られる。

 韓国をはじめとするアジア圏のクィア文学はいくつか読んできたが、男性の書き手によるものは案外初めてだった。また、これまでに触れたクィア文学のなかでも特にライトな筆致というか、恋愛を描いた物語として力まずに読める感じが少し新鮮な印象を受けた。変な話、クィア文学の根幹をなすところであろうセックスの話題ですら、日常生活の一部としてごくナチュラルに、軽いノリで触れられていく。

 一方で、性的少数者としての生きづらさであったり、愛する人同士であっても生まれうるイデオロギーのすれ違いなどは丁寧に描かれている。「メバル一切れ宇宙の味」で、「私」が星条旗をあしらった服を着ていることを学生運動出身の歳上の恋人に「戦犯国である米帝の服を着ている」と指摘され、気まずい雰囲気になる場面などは象徴的である。また、病気の母親に自身のアイデンティティについて言えないでいるところなども。

 タイトルが『大都会の愛し方』で、実際に舞台も都会と言われるエリアになっていることにも必然性がある。

「マイノリティー的要素をもっている人にとっては、大都会は匿名のまま隠れられる空間であり、限りなく自分らしく生きていける場所でもある。また裏を返せば、簡単に一人になれるぶん、孤独に陥りやすい面もある(訳者あとがきより、p.262)」

 …という一面だけみたとき、ソウルと東京のなんとよく似ていることか。さらに言えば、地方に行くほど保守的な風土が強い傾向にあるというのも、こちらの国と近しい部分のようだ。マイノリティ性をもつ人々の「自由」を描くにあたって、舞台が大都会である「必要」があるということは、それ自体がマイノリティを取り巻く現状に対する問題提起にもなっているのだろう。

 

 

7岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』スイッチ・パブリッシング

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 今月中旬に出かけた岡山は倉敷市、海が見える書店aruにて購入。岸本さんの本は翻訳書もエッセイもどちらも好きなのだけれど、何気に翻訳は半年ほど前に読んだジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』(白水Uブックス)、エッセイはもっとずっと前に読んだ『ねにもつタイプ』(ちくま文庫)以来離れていたかも。要するにお久しぶりということである。

 「“鬼”がつくほどの出不精」であるところのご本人が、東京近郊から上海まで、「気の向くままに」出かけて書かれた22篇のエッセイが収録された1冊。正直、電車で読んでいても普通に笑ってしまうぐらいには面白く、ときにコミカル、ときにシニカルで、分量に対して読み応えのある1冊だった。「今時こんなこと書いたら軽く炎上するんじゃないか」と思えるようなヤバめのエピソードさえも、その地をめぐる記憶とイメージとともにある種の感傷を伴ってページを追う目に張り付いてくる(p.90「初台」なんかかなりパンチが効いている)。

 あまり言うとネタバレになりそうでアレだけれど、最後まで読み進めると「え?!」と思うようなギミックが待っており、そこのあたりもいわゆる「エッセイ集」とは一線を画している。また、タイトルの『死ぬまでに行きたい海』とは一体なんなのか、どこなのか、ということも意識しながら読むと、いろんな意味で最後に一発くらいます。何回でも言うけれど本当に面白い本です。

 

8.マフムード・ダルウィーシュ 四方田犬彦訳『パレスチナ詩集』筑摩書房ちくま文庫

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 パレスチナの独立宣言の起草者でもある詩人、マフムード・ダルウィーシュの選集。彼も「ナクバ」によって生地を追われたのち、アラブ人としてイスラエルで生活したり、ロシア留学後にレバノンPLOに参加する(のちに脱退)など、1940年代以降にパレスチナが辿った歴史に沿って被抑圧と亡命の生を生きた人物。

 この詩集に収録されているのは、2ページの見開きに収まるものから、叙事詩ともいえそうな長編詩「壁に描く」までさまざまな規模のもの。多くの詩には古代アラブの詩人やホメロス、聖書などからの引用も見られ、膨大な文学的リファレンスがパレスチナという土地の記憶に接続して語られていることがわかる(しかしそれゆえに、一読しただけで「理解した」と言えるようなシンプルさを持つものでは決してない)。

 パレスチナとその土地に生きる人々の受難を詩に託すことの意味はなにか、そこをもっと考えてから読み直すべき詩集だと今の時点では思う。一読・通読のみで安易に感想を書いてしまってよいものではないように感じる。

 まずは、2024年9月に初読した、という記録まで。

 今これを書いている時点で、中東の情勢はさらに混乱し、悪化していっているように見える。注意深く、状況を確認していきたい。

 

 

9.くぼたのぞみ 斎藤真理子『曇る眼鏡を拭きながら』集英社

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 「ひとりでも拭けるけど、ふたりで拭けば、もっと、ずっと、視界がひろがる。」……という帯のコピーを見た当初は「どういうこっちゃねん」という気持ちがしたが、実際に読んだ見た後ではなんとなく言わんとしていることがわかるような気がする。

 南アフリカ出身の作家J. M. クッツェーの翻訳で知られるくぼたのぞみさんと、韓国文学の翻訳者である(今月でいうとハン・ガン『別れを告げない』の翻訳もそう)斎藤真理子さんの往復書簡を集めた本。

 本書のタイトル案として「話は飛びますが」という候補が出ていたという(p.31)くらいで、お二人の日々の生活のことから翻訳を始めたきっかけ、最近訳した本のことなど話題は広範囲に渡るのだけれど、その話同士がスムーズに繋がったり、あるいは意外な方向から繋がったりしていくさまを見て(読んで)いくのはシンプルに読書体験として楽しい。その中で、「子供を育てることは自分の子供時代を生き直すことでもある」(p.53)、「文学はたったひとりでやる文学運動」(p.154)といった、ハッと目を見張るような文言も随所に現れる。

 また、文学にかかわるさまざまな仕事のなかで「翻訳」という仕事がもつある種の特異性についてときどき考えることがあるのだけれど、この本はそこにも豊かな示唆や知見を与えてくれる。特に、編集者でもあった斎藤さんの「あくまでも私にとってですが、編集は世界を作ること、翻訳は世界を歩くこと。そんな気がします」(p.131)、「だから翻訳はいいですよ。もう世界があるんだから。完成されたテキストが」、「『すでにある世界』を丁寧に歩いていく時間、というのが私にとっての『翻訳している時間』の定義で、平穏さや平和さの所以もそこにあるのかもしれません」(p.132)、といった一連の編集と翻訳の比較の部分は「なるほど…」と声を漏らしながら読んだ。

 そして、田中久子さんの装画がとてもとてもよい。

2024年9月 Records & Lives

 怒濤の8月を経て、9月は少し諸々が落ち着くかなと思ったらそんなこともなく、気づけば仕舞いを迎えていた。例によって都内で行けるものに限るけれど今月はライヴにかなり行った。知人・友人が出演するものが多かったが、どのバンド/コレクティヴも「知人・友人が出ているから観る」のではなく「自分が好きだから観る」で行っているからどれも等しく楽しかった。この感覚は大切にしたい。

 

●Records

The Alexander Technique – Rex Orange County

 Alexander Techniqueってたしか整体かなんかの技術でしたよね? と思って調べたら、「体の緊張をほぐすことによって、自分がやりすぎていることに気づく」ことらしい。本作は作曲によってなんらかの緊張をとき、それによる気づきをまた楽曲に反映させていくことでAlexander Technique的なアプローチをしていった、ということらしい。

 じつはRex Orange County、そんなにしっかりハマって聴いたことは今までなかったのだけれど(ちょっと難解に感じたのだ)、今回のアルバムはすんなり聴くことができた気がする。シンプルで優しげなフォークソングである#2「Guitar Song」はリリックも含めて初見から惹き込まれたし、教会音楽とジャズが融合したようなオルガンがヴォーカルを支える#4「Therapy」も好き。こうしてみると確かにフィジカル/メンタルヘルスにかかわるワードが多いような。#12「Sliding Doors」は一時期のJ-Popっぽい雰囲気でこれも面白い。ちなみにこちらのバッキングはピアノとフルート。

 全体に落ち着いた、メロディアスな楽曲が多いのがとっつきやすさの理由かも。なおかつ前述のようにトラックで使用されている楽器は多様で、飽きない。

 

My Method Actor Nilüfer Yanya

 トルコにルーツをもつイギリスのSSWで、今作が初の視聴。しかしながら早くも虜になりかけている。プロデューサーはWilma Archerという人で、Sudan Archivesなどとも仕事をしているらしい。

 基調になっている音楽は90年代以降のグランジ〜ポストロックののようでもあり(静と動の入れ替わりとかギターの歪ませかたとか)、アフロルーツの音楽のようでもあり(#3「Method Actor」の細かなリズムパターンとか)。そこに、恐らくは自身のルーツを研究することで身につけたであろうオリエントな音楽のエッセンスが合流している。という解釈でいいんだろうか。

 #5「Mutations」は動きのあるコード進行と、重音を多用したベースの使い方がクセになる。#9「Made Out Of Memory」などは王道でメロウなバラードのように聞こえて、低音とドラムの音作り・ミックスが特徴的なような。

 #7「Call It Love」はなんとなく、西洋音楽的なくびきからかなり解放された楽曲に聞こえる。長調とも単調とも取れる調性感や時折入ってくる持続音。絶え間なく鳴っているギターのアルペジオも耳に残る。終盤、一気に音数が増えて盛り上がりを迎えたあとにヴォーカルオンリーのパートに落ちるアレンジもよい。

 

Shinbangumi – Ginger Root

 アクション、魅力、グルーヴ、そして…恋!!! Ginger Rootのジャパンツアーのフライヤーに日本語でそう書いてあったときはマジかと思ったが、さらにアルバム中でもこの台詞がまんま聴けるとは。絶妙に時代を感じさせるクサいコピーを考えるのが本当にうまい(褒めている)。

 先行配信されていた#2「No Problems」や#4 「There Was a Time」からはCameronが敬愛する昭和と平成をまたぐジャパン・ポップのエッセンスを感じつつ、コーラスのアレンジなどからはキリンジあたりのAORっぽい雰囲気も出ている。#8「Kaze」で突然ブラジリアンなムードになるのも面白い。

 しかし改めて、映像などの宣材も含めて古い日本のポップスの空気感を演じつつ、それを本人のカラーにするセンスがずば抜けていると思う。単なるノスタルジー&その時代のコピーだけでは当然ここまで売れていないわけで、そこに限りないリスペクトと愛があっての「引用」だからこそここまで光るのだろう。たとえば自分が「ビートルズ風の、でもオリジナリティ溢れるアルバムを作れ」と言われてもとてもできる気がしない。

 

Cascade − Floating Points

 今年のフジロックで観る機会はあったのだが、上原ひろみを待つためにヘヴンに居たので結局1秒も観なかった。ので、そんな一抹の後ろめたさもありつつ聴いたニューアルバム。結論からいうと相当好きだった。

 #1「Vocoder[Club Mix]」では実際にヴォコーダーが使われていてすごくクールなのだが、同時にトリッキーなコード遣いにも惹かれる。どこかクラシック楽曲を思わせる趣すらあるな、と思っていたら実際ドビュッシーメシアンあたりに影響を受けていると。なるほど。全体の雰囲気としては踊れるアンビエント、という感じなのか、メロディというメロディがなく反復フレーズとリズムでぐいぐい引っ張っていくような楽曲も多い印象。最終曲#9「Ablaze」はドラム打ち込みもなく完全に上物のみのミニマルな曲で、何かを弔うような静かな終わり方。

 個人的には#7「Afflecks Palace」が最高にカッコいいと思った。1曲に込められた情報量、展開のしかた、氷のような冷徹さと過充電したリチウム電池のような熱さを併せ持った音像、どれをとってもツボ。

 

In Waves – Jamie xx

 Jamie xx、アルバムが出るのは9年ぶりらしい。9年前にはこのアーティストのことを知らなかったので、「Jamie xxの新譜をリアルタイムで聴く」という体験自体が初めてのことだ。

 自分はそもそもクラブミュージックを聴きはじめてから日が浅いのでその様式やサウンドについてまったく詳しくないが、一聴して非常にキャッチーで、それでいて右から左に流れていくことを許さないようなフックもあり、聴き応えのあるアルバムだという印象を受けた。

 歌モノ感が強く、「I waited all night…」というタイトルコールが耳に残る#3「Waited All Night(feat. Roxy & Oliver Sim)」から、無機質なヴォーカルとハイテンションなホーンがやり合う#4 「Baddy On the Floor (feat. Honey Dijon)」への流れが個人的には好きで、何度も繰り返してしまった。

 #6「Still Summer」も自分のイメージするクラブミュージックの雰囲気にピタッと当てはまる感じがする。シンセのコードが短いサスティーンでチチチチ、と刻む感じがそれっぽい。ソニマニで聴いたらアガりそうである。

 

あちゃらか – パスピエ

 パスピエは今年で結成から15年になるバンドらしい。そんなに息が長いのか。と言いつつ、実際自分が聴き始めたのも高校2年生のときで、そのときから数えても11年は経っているのだからそう不思議はない。自分としても、これほど長く追っているバンドはそう多くはない。

 シンプルなジャケットにコンパクトな内容(8曲32分)ながら、タイトルに違わない楽しい曲集だった。まだパスピエのメンバーが顔を隠していたころの(今思えばあれも新しかった)、『幕の内ISM』や『娑婆ラバ』のように一貫したテーマやコンセプトがある感じは希薄だが、良い意味で初期の曲っぽいものから最近のエレクトロニックな雰囲気のものまで色とりどりの曲を集めたパーティ・同窓会のような空気感がある。ような気がする。

 #1「21世紀流超高性能歌曲」はもういろいろと持っていかれる。そんな大仰なタイトルつけて大丈夫か?! って思うけど、大丈夫。マジでタイトルどおりの曲。#3「KENNY」の派手なギターソロや#6「それから」の文学歌謡路線は『娑婆ラバ』〜『&DNA』の時期をふと思い出す。で、まさかの#8「幕間」、インスト曲で締め。ちなみに幕間とは文字どおり舞台と舞台の間の時間のことだし、英題も「interlude」、つまり間奏曲のことである。まだまだお楽しみは終わらんよ、というバンドからのメッセージだろう。

 

OUCH – HONNE

 ロンドンのポップデュオユニット、HONNEの3rdアルバム。よりアコースティックで牧歌的な雰囲気が強まった印象がある。日本語で出ているレビューやリリース情報を見ると、メンバーが家庭をもち、親になったことも制作に大きな影響をもたらしたとのこと。

 #1「Serenade in E Major」というクラシック曲のようなタイトルの曲はスキャットのみの短いイントロで、そのまま#2「Girl In The Orchestra」に流れ込む。こちらも歌詞にドビュッシーが登場したり、厚いコーラスが入っていたりなどどこかクラシックの雰囲気を感じる面白い曲。

 Liang Lawrenceをフィーチャーした#6「Say That You Will Wait For Me」は本作の中では結構打ち込み寄り。なんだかんだでHONNEはこういう方向性の楽曲の方が好きかもしれない。などと言いつつ、#13「better with you」の人力感のあるベースに惹かれてしまったりもするし、結局曲しだいというところはあるけれど。

 

Dayglow – Dayglow

 満を持して……なのかどうかは本人に聞かないとわからないが、Dayglowのセルフタイトルアルバムが出た。

 ドアタマの#1「Mindless Creatures」からめちゃめちゃポップ。軽快なリズムと伸びやかなヴォーカルは言わずもがなだが、「everybody wants something else,〜」からのフックや途中ちょっと落ちるところなどはライヴでの盛り上がりが想像できる。#5「What People Really Do」や#6「Nothing Ever Does!!!」ではリード楽器としてキーボード/シンセを派手目に使っていて、この辺のアレンジもキャッチーでとても好き。

 基本的にテンポ速めな曲が多いが、時折現れるメロウな瞬間ではじつはメロディが良いのがわかってこれまたグッとくる。

 車に乗れさえしたらドライブでかけたい1枚。

 

First Light – Jónsi

 Sigur RósのフロントマンであるJónsiによるソロ名義のアルバム。ソロ作品としては4枚目になるのだろうか。

 Sigur Rósで聴けるような、コードやキーは明確でありながらもアンビエントの要素を纏った不思議なサウンドは健在でありつつ、バンドのそれよりもかなりポジティヴで多幸感のある音楽性であるように感じた。タイトルもFirst Lightだし、ジャケットも花の咲く庭園だ。

 #4「Clearing」を聴いていると、ふとドキュメンタリー番組とか映画のサントラっぽいな、という感想がふと浮かんだ。あるいは博物館なんかにある体験型のシアターとかで流れていても違和感がない。と思って調べると、実際に本作はゲームのスコアから制作が始まったのだそう。「『First Light』は、一瞬の幻想的な、大げさな、ユートピアの世界であり、そこではすべての人、すべてのものが永遠の平和と調和の中で共に生きている」

https://www.indienative.com/2024/07/jonsi-first-light/)、なるほど……。

 #7「Wishful Thinking」などは完全にクラシックオケ用の曲と言われても不思議はない。途中で入ってくるピアノがまたベタなのだけど妙に心に触れる。

 

 

●Live

9/1 フィールドワーク vol.1 @下北沢 近道

 久々に(そしてこれが多分ことし最後の)水いらずのLiveがあると聞き、行ってきた。時間の関係でCwondoさんと水いらずの2アクトのみ観る。

 CwondoさんはCDJとヴォーカルを使い、即興で音像を作り上げていく演奏。CDJとかシンセのように無限にツマミがついている機材をその場その場で調整しながら展開をつくっていくスタイル、そういうスタイルの音楽をここで初めて見たわけではないが、何度見ても圧倒される。どんな音情報を入力して、どうやって出力して、ツマミでもってどんな調整をしているのかはわからないけれど、とにかくそうして出てくるサウンドがすごくクールなのはたしかなことだった。わかりやすいテンポやコードといった枠組みを飛び越えた音の壁を20分聴き続けても飽きないというのは、すごいことだと思った。

 水いらずのライヴは、科学の実験じゃないけれど「再現性」というものが高い水準で担保されているのを感じる。水いらずは、ライヴ毎に異なるアレンジを展開してオーディエンスを圧倒させるタイプのバンドでは(今のところ)ないと思う。じゃあライヴを観る必要がないのかといえばそんなことはまったくなく、音源で一度築き上げられた音世界をどう再現するのか、あるいは以前のライヴ演奏と違う環境で同じサウンドをどう出すのか。そういう部分に「ライヴ感」、生演奏ならではの緊張感を見出せる。

 

9/14 Heroin(e) @新宿NINE SPICES

 Lacrima、Serotonin Mistなど色々なところでドラムを叩いている龍宝くんの誕生祭イベントにお邪魔した。こちらも前後の都合で夕方の4時間ほど観た。

 Serotonin Mistは初めて観たけれど、短めの1曲のなかで静のパートと動のパートが行き来する感じ、学生時代にときどき聴いていた激情ハードコア(kuralaとかTristan Tzaraとか)を思い出し、妙な感傷があった。全然観客側を向かない下手側Gtもそれっぽい。Lacrimaも3人体制に戻ってからは初めて。ヴォーカルもときどき入りつつ、インストの比重が重くなった感。

 NOUGATはベースが2人いて面白かった。リズムとリードで分けているのかと思えば、それぞれが別々のリズムを作っていたり、はたまたツインリードのようになっていたり。ちょっと対位法っぽいフレーズもあったりして興味深かった。こんなベースの使い方もアリなんだ、と。

 くゆる、Zanjitsuは1回ずつ観たことがあったと思う。くゆるは前見たときにあまりに音がデカくて最高だったのを覚えていたのだが、今回もとんでもなく音がデカくて気持ちよかった。Zanjitsuもバンドとしてシンプルにカッコいい。ギターをブン回してとにかくデカい音を出す、ということの正しさを思い出させてくれる。

 

9/15 LAIKA DAY DREAM Japan Tour 2024『四季巡光』追加公演 w/シュリスペイロフ@下北沢SPREAD

 今年のゴールデンウィーク最終日、5月6日の二条nano公演に始まり、ついに追加公演まで全通してしまった。LAIKA DAY DREAMのアルバムツアーでした。なんというか、月並みな表現だけれど、京都までの交通費を払ったとしてもなんとしても、3公演全部観ることができて本当によかったと思えるツアーだった。

 シュリスペイロフはたぶん3年前ぐらいからじつは知っていた。私の好きな『ブランクスペース』という漫画を描いておられる熊倉献先生が彼らのアートワークを担当されていたからである。『ブランクスペース』のモノクロームなタッチとはまた違った印象の、ちょっとセクシー路線の女の子のイラストである。で、そんなに沢山はライヴをしないバンドのようなので、個人的にも今回がライヴ初観覧だったのだが、結論、もっと早くに観たかったくらいいいバンドだった。ロックバンド然とした熱量の高さと、スリーピース(ほんとうは4人のバンドっぽいのだけど今回は3人体制だった)ならではのテクさとのバランスが絶妙。好きな「ハミングバードちゃん」が聴けてよかった。

 LAIKAは「桜並木通り」始まりのセトリ。前回の山中タクト企画でもこの曲で始まって、新譜でもとくにスローでダークな曲なのでちょっと驚いた記憶があるのだが、今回もそうだったのでうおおとなった。新譜からの曲を中心にしつつセトリは過去2回の公演とは(当然ながら)少しずつ違っており、この違いを楽しめるのはツアー全通の醍醐味だと思う。と同時に毎公演やっている曲の表情も都度異なって見える。例えば「カートより長生き」のラスサビ前の畳み掛けは今回が一番爆発力高かったと思う。あと、「春宵」の「桜色のギターを買った」のところでLeeさんがサイクロンをピピッと指さすモーションが好きなのだけれど、今回はモーションに加えて「これね」という台詞が加わっていた。最後は『LAIKA DAY DREAM #1』から「Hope」で終わり。これも本当に好きな曲。

 アンコールはLeeさんとシュリスペイロフ宮本さんによる「やすもの」。両バンドとも今年はもうライヴ予定はないとのことで少し寂しい気もするけれど、いつか絶対またいいライヴが観れる確信があるので、その日を楽しみにしておこうと思う。

 

9/22 Heterotopia vol.2 @下北沢LIVEHAUS

 AlbemとSeukolの共催企画のvol.2。vol.1はことし3月に下北沢のSPREADでやっていて、それがすごく良かったので2回目となる今回のライヴも観にいった。

 Seukolは初めて観てから何回目になるだろうか。4ピース歌モノ、というある意味でトラッド/コンサバな形態をキープしつつ、常に進化を続けている稀有なバンドであると思っている。最近はバンドとしてのまとまりがどんどんソリッドになっていっている感があって、落ち着いたメロウなナンバーも含めて、信じて聴ける。あと新曲がかなり好きだった。

 padoはいつだったかそれこそAlbemの無害氏に教えてもらって気にしていた。今回初めてライヴが見られて嬉しい。シンセによるドライなリズムとダブ感のあるサウンドスケープに、人力のベースが底を支えつつ色をつけていく感じが新鮮だった。電子音を主体にしつつもベースは弦のものを残すセッティングは海外のアーティストでもちらほら見るが、なんとなくその理由が見えてきた気がした。メインヴォーカル(?)がパレスチナクーフィーヤを着用していたのも印象的。

 電球も初見。初手からアップライトベースボウイングしながら歌っていてビビる。可能なんだ、それ。以降の楽曲もギターに持ち替えたり打ち込みが鳴ったり、多彩なセッティングで演奏されるも、轟音のなかにカタルシスが浮かび上がるような音像は共通しているように感じる。会場全体を巻き込むノイズのなかで、意外とギターらしい(?)フレーズを弾いているのが見えたりする瞬間がおもしろかった。

 Albemは本当にもっともっと知られてほしいバンド(コレクティブ?)である。前回観たときは楽曲そのものというか、エフェクトのかかったヴォーカルとシンセに生音のベードラエレキギターが絡むというサウンド全体のほうに意識が行っていたが、今回はメンバー1人ひとりのプレイヤーとしての技量がメチャクチャ高いということを改めて認識した。特にドラムのタイム感がえげつない。ちなみにサウンドもだがリリックがすごく好きなバンドでもある。

 ヨハネス市来氏によるDJは旧共産圏ニューウェーヴというコンセプトだったようで、これも興味深かった。スマホの電波状態があまり良くなく、Shazamで1曲だけヒットしたのはチェコのフルーティストの曲だった。チェコも昔は社会主義国でしたね。そういえば。

 個人的にHeterotopiaはイベントコンセプトが非常に共感できるものなので、vol.3、vol.4と続いていってほしい。きっと観にいくので。

 

9/27 Gilberto Gil Aquele Abraço Japan Tour 2024 めぐろパーシモンホール

 ブラジルのドがつく巨匠、Gilberto Gilの来日公演、もはや緊張すらしながら会場に向かった。都立大学の近くに最近できたホールで音もよく、席もバンド全体を俯瞰できる位置でコンディションも良好。

 全体的な感想としてはとにかく圧巻。文字どおり戦後のブラジル音楽史を内側から見、動かしてきた人物の出す音、刻むリズム、すべてのパワーが規格外だった。どの曲も素晴らしかったが、やはりUpa Neguinho(イントロが鳴った瞬間のオーディエンスの反応も忘れ難い)とGirl from Ipanemaは印象に残っている。MCの端々に登場するElis ReginaCaetano Veloso、Gal Costaといったレジェンドの名前にも一々感動。

 今回のバンドはGilbertoの子息で構成されたジル・ファミリーによるもので、総合的なバンド感もさることながらドラムのリズム感覚がバキバキだった。

 御大は、音楽的な面については今更何をいうこともなく偉大なのだけれど、単純に82歳にして約2時間のステージをほぼノンストップで駆け抜ける体力がすごいと思った。しかも後半に向かってどんどん盛り上がっていくセットリストである。最後の方なんかはマイクから離れてステップを踏んでいた。非常にチャーミングかつバイタリティに溢れる人間だった。

 

9/28 オオカミが現れた:イ・ランの東京2夜ライブ @渋谷WWW

 前々から行きたいと思っていたイ・ランのライヴ、ついに観ることができた。今回の来日は本人とチェロ、ベース、キーボード&コーラス、ドラムスに加え、コーラス隊の「オンニ・クワイア」を迎えた10人編成。ちなみにオンニ・クワイアはメンバー全員が会社員との兼業だそうで、週末を挟んだ金曜と月曜に有給を取って来日していたらしい(MCにてイ・ラン談)。すごくインディーズみ溢れるエピソード。

 ライヴのタイトルどおり、アルバム『オオカミが現れた』の楽曲を中心に新旧織り交ざったセットリスト。オンニ・クワイアのオリジナル曲(アカペラから始まり)、チェロとヴォーカルだけで魅せる曲から10人バンドの迫力あふれるサウンドの曲まで、その音世界は想像していた以上に多彩だった。

 日本ではイ・ランという人物を作家として知っている人も多いと思うが、やはりというべきか、言葉を大切にしている人であることが感じられる部分が随所にあった。バックスクリーンにはハングルの原詞とともに訳詞を映し出され、歌に込められた思いがリアルタイムでオーディエンスに伝わる。

 流暢な日本語のMCはときにユーモアに溢れ、ときに雄弁であり、ときに繊細であり。韓国ではキリスト教の影響が強く、特にクィアの人々は幼少期から身体化されたキリスト教的倫理観とセクシュアリティの間で苦悩しているという話の流れから、「聖書には悩み、苦しんでいる人こそ世の光であるという記述があるけれども、現実の世界はそうなっていない。そういう人々を위로하다(慰める、励ます)するようなセットリストを考えた」というMCに、音楽を(そして言葉を)ライヴで人々に見てもらうということの意味を思う。

 いつか必ずまた観たいアーティストの1人である。

 

9/29 杪夏 @下北沢モナレコード

 杪夏、という言葉を初めて見た。「夏の終わり」という意味らしい。晩夏、という言葉も好きだけれど、こちらがどこかもの寂しさを湛えているのに対して「杪夏」は比較的明るい、前向きな時間軸のようなものを感じる(形の似た「秒」という字にイメージを引っ張られすぎか)。

 烏兎 -uto- は今回初めて観る。キーボードとヴォーカルの2人編成で、モナレコという会場に馴染んだ佇まいだが、そこから発せられる音世界は広大なものだった。キーボードは一貫してnordのナチュラルなピアノサウンドが使われ、アンビエントライクな曲からジャジーな曲まで目が離せない。ヴォーカルも囁くようなな歌い方から芯のある声まで広い表現幅でしっかり聴き入ってしまった。10月6日にはバンドセットでのライヴがあるとのことでぜひ観たかったのだが、予定が合わず残念。

 砂の壁はお久しぶり、と言いつつ今年に入ってたぶん5回目ぐらいなんだよな。まあでもいいバンドというのは何回観ても観すぎということはないので、大丈夫なのである。改めて、ステージに4人並んだときに「そのバンドの空気感」をバッと作れる人たちだと思う。かつ、それぞれのイベントのコンセプトにはしっかり合っているという。すごい。30分なのが惜しいくらい全編素敵なアクトだったけれど、この杪夏という時期に「きてしまう夏」を聴けたのがよかった。「大抵のことなら波のように消えてくから」という歌詞は捉えようによっては夏の終わりっぽい。

 檸檬はちゃんとお久しぶり。今年のまだ寒かった時期に、生活の設計で名古屋のKDハポンにお邪魔したとき以来になる。今日もお2人は朝、東京まで来られたとのこと。前半は名古屋で観たときと同じアコースティックセット、後半は4名が加わってのバンドセット(ベースにceroの厚海義朗さんがいらしてびっくりするなど)。このバンド(ユニット?)は歌メロが本当に好き。懐かしいような新しいような、そこの絶妙なバランスをついてくる。つい先日音源がリリースされた「わたしの好きな街」がとてもよかった。

鱈とレバー

 銭湯に行ったら、高校生とおぼしきボーイズ5人ぐらいが賑わっていた。

 ほんとうのところ、私は賑やかな若人たちがそんなに得意ではない。とはいえかれらにとって、友だちと連れ立って銭湯に来るなんてちょっとしたイベントだろうし、ここで変に目くじらを立てるのも大人気ない。大人気ないし、だいいち疲れるのは自分だ。盗み聞きにならん程度にかれらの会話をBGMにしつつ、努めて寛ぐ気持ちでいた。

 

 すると、ワンノブザボーイズが矢鱈と「たられば」というワードを使いたがることに気づいた。

 

 「この前の数学の期末さぁ、おれ絶対もっと勉強してれば満点取れたと思うんだよねー」

 「いやお前それはたらればだわ」

 「もっと早く告ってれば付き合えたかなー」

 「うーんそれはたらればじゃね?」

 

 覚えたての単語を使いたい時期というのは誰しもある。私だっていまだに「アジェンダ」とか「イシュー」とか言いたくなるときがある。

 かれはきっとYoutubeかXで(偏見かしら)「たられば」という言い回しを学んだのだろう。そして今はきっと、友だちとの会話のなかでたられば要素を見つけ出し、すかさずツっこむゲームを楽しんでいるに違いない。さながらたられば警察だ。

 

 そういえば最近は「たられば」をしなくなったなあ、と思う。今の仕事がそれなりにリズムに乗っているし、プライベートはプライベートである程度やることもあるので、ありていにいえば「たられば」をする暇がなくなったのだろう。基本的に「たられば」は後ろ向きな発想・行為だと思うので、精神衛生的にはよいのだろうと思いつつ、そういうことを(ある意味で楽しみつつ)する機会が減ったのは寂しいことのような気もする。

 

 ちなみに、もし今の編集の仕事をしていなかったら、私はシステムエンジニアをしていたはずである。就活では30ぐらいの会社に落ちた。今働いている会社のほかに内定をもらっていたのは2社だけで、どちらも就活エージェントに紹介してもらったIT企業だった。

 もしかしたら進んでいたかもしれない道ということで、出版社に内定をもらってからもしばらくはプログラミング言語のことを調べたり、システムインテグレータの業界構造をさらったりしていたが、それもいつしかしなくなってしまった(当時買ったPythonのテキストは、一応捨てずに置いてある)。

 いわゆる語学の勉強は嫌いではなかったから、曲がりなりにも言語であるプログラミング言語の勉強ももしかしたら捗ったかもしれないし、今ごろ敏腕エンジニアになっていた未来もあったかもしれない。ま、それもこれもすべて「たられば」ということである。