天王寺南法律事務所

千秋の思い

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前回,小さい秋について思いをはせていると,久しぶりに,「千秋の思い」という言葉を思い出しました。

今時の人はこんな言葉を使うのかどうかわかりませんが,昔はたいてい通じたものでした。

待つことが非常に長く感じられるという意味だそうです。

一日千秋の思いでランデブーの日を待つ,というようなロマンチックな思い出はさらさらなく,強いて挙げるとすれば,試験の結果発表を待っているときの心境でしょうか。

試験は自分の努力と運しだいなので,切羽詰まっているといっても,それほど悲壮感はありません。

でも,待っている良い結果がでるかどうかは自分の努力ではどうしようもなく,他者にゆだねられている場合を考えると,胸がつまります。

冤罪の無罪判決,戦争の終結,救助の到着,拉致被害者の帰国,どれをとっても,当事者の思いは文字通り一日千秋です。

長い苦しみから解放される日が来ることを祈るばかりです。




小さい秋みつけた

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「小さい秋」とは,どういう意味でしょう。
「大きい秋」といえば,収穫の秋,豊作の農作物を連想します。また,銀杏並木の落ち葉が歩道一帯を占領しているような情景,山の峰全体を紅葉した葉が覆いつくしているような情景が目に浮かびます。
 そのこととの対比からすれば,少し離れた場所からわずかに香ってくる金木犀の香りであったり,もみじのような小さい落ち葉がひとつふたつ肩に落ちてくるような,ともすれば見過ごしてしまいそうなあえかな光景ということになるでしょうか。
 私の若いころには,春と秋が長くて,夏と冬は短かったから,良い気候を十分堪能することができました。秋も小さい秋から始まって,冬に向かって次第に暮れてゆく様を長く見ることができたのです。
 もっともそれは,大阪でこそ言えたことであって,大学時代を過ごした小倉は,春と秋が短い,今のような気候でした。大阪で9月になれば蝉の鳴き声をきくことはまずありませんでしたが,小倉では10月まで蝉は鳴いていました。
また,大阪で雪が降ることはまれで,積るとなればまた珍しいことでした。
 ところが,小倉では,3月の声を聞くまでは連日雪が降り,しかも積もって,水道管が凍ってしまうこともたびたびだったのです。
 そんなわけで,大阪のほうが情緒があって好ましく思っていました。昨今の大阪の気候はすっかり変わってしまって秋が短くなり,昔のような情緒はなくなってしまったような気がします。「小さい秋みつけた」ではなく,「秋が小さくなったのをみつけた」です。
 レトロな大阪,カムバーック!!

texture

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Texture,という言葉を認識したのは,たしかずっと以前,ビリー・ワイルダー監督の『七年目の浮気』という映画の中で,マリリンモンローが「テクスチャ―よ!」と言っているのを聞いた時だと思います。
なんとなく,わかったようでわからないという気持ちで終わりました。

イタリア語でtessutoという単語は,織物,布地を意味します。Tessituraとは,織り目のことを意味します。テッシトゥーラとテクスチャー,よく似た響きだと思い辞書を引くと,ラテン語のtexturaという言葉に語源があります。
Textura:
texere織る+-tus過去分詞語尾+-ure=織られたもの
だそうです。
織物の織り目は,布によってさまざまです。ごわごわしたものから,ふわふわしたものまで。

あまり今まで意識したことはなかったのですが,数十年ぶりに,中望遠レンズをを購入して身近にある布を撮影してみると,布から出た糸まで写しこんでいて,最近のレンズは優秀になったのだなあ,と感心しました。

旅にでるとき,コンパクトカメラにするか,一眼レフにするかで迷うことが多く,荷物を軽くするために前者にしてしまうことの多い私です。
たしかに,色や形などの描写はコンパクトカメラで十分なのですが,Lサイズプリントでもなんとなく,平面的な写りに終わってしまいます。ああ,やっぱり一眼レフを持ってくるんだった,と後悔してももう遅いのです。

それほどに写りが違うことは承知していましたが,昨今のレンズの技術の進歩には驚くばかりです。テクスチャーという言葉を久しぶりに思い出しました。
それでも,いまだにその言葉に自分なりに適当な訳をつけることができません。

小学校2年生のときの理科の試験に,石を区別するときに何を見ますか,という問題がありました。()が4つ,並んでいました。
正解は,色,形,大きさ,そして,手触りです。最初から3つまではたいていの人が正解するのですが,4つめに,「つるつる」「ざらざら」と書いてしまう人が多かったように思います。

テクスチャーという言葉がそのまま当てはまるのかはわかりませんが,「手触り」という言葉であれば,なんとなく感覚的に受け入れやすいです。

小学校で受けた教育で,後の人生のほとんどをまかなっている自分に気が付きました。

参考文献

小学館プログレッシブ英和中辞典第4版
小学館伊和中辞典第2版

写真の力

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ここで言う「写真」とは,診断の一要素であったり,裁判の証拠としての写真であったり,災害や戦争などの被害を広く社会に知らしめるための写真であったりするものとは別のものです。

人が写真をみて,美しいと感じたり,日常生活の疲れをいやしたり,夢を実現させたいと思ったり,そんな場合における写真の力を指しています。

写真に人生を変える力があるでしょうか。
私はあると思います。

篠利幸さんという,写真家がいました。「いました」というのは,今年亡くなられたからです。
彼の最初の写真集である「トスカーナの青い空」を手に取った時,私はまだイタリアへ行ったことがありませんでした。
しかし,その写真集や,東京書籍から出ている彼のほかの写真集を見るうちに,「これだけ美しいのだから,これはもう絶対に行かなければならない。」という気持ちにさせられました。「絶対に,どうしても」という気持ちになったのは,彼の写真に背中を押されたからだと今も思っています。
同じイタリアを撮影していても,彼が撮る写真はほかのひとのとは違って,見分けられるのです。
仕事だけにとどまらず,イタリアへの理解,何よりも愛が満ちていたからだと思います。

もっと早くに追悼文を書きたかったのですが,記事に見合う写真もなく,どうしようかと思っていました。
でも,珍しく,トスカーナ唯一の白ワインを見つけ,また,水野ゼミの書店でサンジミニャーノのガイドブックも見つけましたので,ちょうどいい取り合わせだと思い,撮影しました。

ワインに精通している篠さんのことだから,きっと今頃は,アマローネだのバローロだの,イタリアの銘酒を飲みながら,彼が愛したイタリアの空を浮遊しているのではないかと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

秋になったら

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ー ウラジーミルはいつ来るの?
ー 秋になったらね。

金木犀の花が咲くこの季節になると,思い出すセリフがあります。
前に一度触れたことのある,内田君こと内田善美さんの「星の時計のリデル」という作品の中の,リデルという少女とヒューのやりとりです。

金木犀の花はご覧の通り地味なのですが(「なんでかね~。」← 平良のおばあ),
その香りにはなぜか過去の記憶を喚起するような魔力を感じます。
ウラジーミルがヒューに伴われて,ヒューの夢に何度も現れる古い館を訪ねたのもやはり秋,この金木犀の咲く季節なんだろうなあ,と思うのです。

待たれていたウラジーミルに語りかける館の主の老婦人に,彼はこう言います。
「ウラジーミルというのは,ロシアではありふれた名前ですよ。」
ー いいえ,あなたですわ。だって,『秋になったらね。』と言っていた青年自身があなたを連れてきたのですから。

時を超えた哲学的な物語ですが,SDGsなど,今よく言われている事柄にも触れられています。
地球>人間  重さとして。葉月という日本人女性の世界観に共感を覚えます。


ー いつになったら,戦争は終わるの?
ー 秋になったらね。

ウラジーミル君,そうであるといいね。

プロフィール

tennojiminamilaw

Author:tennojiminamilaw
イタリア好きの弁護士・歯科医師です。
主にイタリア文化について,心のおもむくままに書いていこうと思います。
短期留学経験あり
京都の日本イタリア会館維持会員です

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