【泉房穂×菅孝行 徹底討議】政治によって「世界全体の作者」になる(2024年11月24日『現代ビジネス』) - tamutamu2024のブログ

【泉房穂×菅孝行 徹底討議】政治によって「世界全体の作者」になる(2024年11月24日『現代ビジネス』)

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泉房穂氏といえば、前明石市長として大胆な市政改革を行い、今は政治状況への鋭い発信と、政界再編に向けた「仕掛け」で知られる現代のキーパーソン。彼には東大時代に恩師がいた。ラディカルな評論家で社会運動家でもある菅孝行氏だ。40年ぶりに再会を果たした師弟が、現代の政治闘争と社会変革の核心を語り合った──。(構成・倉重篤郎)
 
独自にメディアを持つところまで行かないと
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写真:現代ビジネス
菅孝行(かん たかゆき) 議会制民主主義を通じた政変というと、欧州やアメリカでのドラスティックな展開も視野に入れないわけにはいかない。
泉房穂 世界中の動きがつながってるんでしょうね。トランプ現象もそうやね。日本の石丸現象も似てます。事実かどうかは関係ない。ファクトであろうがなかろうが、一気に誰かを叩くようなエネルギーが働いてます。
菅 あなたもインターネットという武器を使うのかもしれないけど、あちらが使う武器もインターネットですよね。あれは本当に錯覚を組織する。
泉 そこは怖いですね。
菅 先進国で同時に起こっているのは、メディアが変わったということですよね。新聞を読む人はメチャクチャ減ってるじゃないですか。テレビも若者はあまり見ない。みんなスマホをやってる。
泉 ニュースにしても、見出しだけです。見出しのキャッチだけで全部判断してしまってるから、事実をちゃんと確認するという癖がなくなってますよね。
菅 ただ、やはりインターネットを使わざるを得ない。あなたが何かをやるときに、ネット上の戦略を持たなきゃダメだなと思うわけでしょう。「ラジオに依拠する」とさっき言われたけど、ネットも使わなきゃどうしようもない。
泉 自分はだいたいテレビやラジオに出ると、そのあとヤフーニュースになってるので、一定の発信力はあります。ただ、それだけでは足りないので、さらに強化せなと思ってます。
菅 SNSでもラジオでも新聞でもいいから、独自にメディアを持つところまで行かないと、という気もするけど。
泉 それも含めてもっと戦略を練らなアカンとは思ってます。「簡単じゃないから、あきらめる」じゃなくて、簡単でなくても、知恵を絞りながら、仲間を増やしながら実現に向けていきたいと思っています。
漁師町の共同性で培われた信頼関係
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写真:現代ビジネス
泉 真面目に、明治維新ぐらいのことはしたいかなという感じがしているんです。別に大したことないですよ、明治維新なんて。思いつきでやっただけの話でしょう。
菅 暴力を使った割に、大したことはやってない。国民皆兵の兵役義務なんていう悲惨なものも作ったし、家族制度なんか武家の制度を国民に強制したり、ろくでもないこともいっぱいあります。もちろん、飛躍的な近代化のために必要なプロセスだった面もありますが、偉大な歴史的大変革とはいえない。ただ、ろくでもないやつもいっぱいいたけれど、自分に見えている限りの世界全体を相手にする気概を、「志士」たちに対しては感じますよね。
泉 要は本気度かな。真面目に「明治維新ぐらいできる」と思いこんでしまっているから、そんなに大変だと思わないんですよ。「それをみんなで考えましょう」と思ってるから、私にはリアリティがある。遊びじゃなくて、ホンマにやろうとしてるから。そこが伝わるんちゃうかな。
菅 それが伝われば、そこに信頼関係ができる。
泉 そうですね。小さな明石といえども、一定程度やってきた部分があるから。みんなが「できない」と思ったことを、小さいながらやってきたことを踏まえて言ってるから、そこは意味があるかなと自分では思ってます。
菅 明石でのあなたの経験は、広い意味での世直し派の共通財産ですよ。アントニオ・グラムシというイタリアの革命思想家が、先進国革命では「機動戦」、つまり暴力を伴うことが想定される権力奪取の前に、「陣地戦」で勝てないと革命は成功しないと言ってるんですが、その意味するところは、いきなり権力を取ろうなどと考えるな、橋頭保を作るという意味でも、闘う者の思想的な訓練のためにも、色々な意味で究極の闘いに先立ってそれを支える糧となる実践が必要だ、という意味だろうと思います。私はあなたが明石でやったことは、より大きな変革の展望を開く「陣地戦」なんだと勝手に考えてるんですよ。
変革にもいろいろな形がありますから、こういったからと言ってあなたを「過激派」扱いするという意味ではありません。ただ、大切なことが成し遂げられると、それを成し遂げた者のリーダーシップに対する人々の深い信認につながり、その信認がより大きな変革の礎になる、そういう性格の貴重な実践にあなたが成功した、ということです。
近代を経験したインテリは「知的に認識して正しいことをやろう」というところから入る。だけど、「世直し」は、人と人の間に信頼関係を作れるかどうかが先で、中身はある意味で後の話になる。というか信頼関係の中でこそ、中身がはっきりしてくる。
泉 信頼関係という意味では、漁師町出身ということも大きかったかな。漁師町ではみんなが助け合って、刑務所帰りも一緒にやるし、障害がある者も一緒に網を引いてるし、貧しい中でみんな助け合ってる中で育ってきた。親父が取ってきた魚を私がバケツに入れて、近所の人に持っていって野菜と交換して、それが晩ごはんのおかずだったから。まさに近代の前のような、牧歌的な子ども時代の共同体の体験がある。そこがベースにあるので、信頼関係が強いんでしょうね。
夢の遊眠社、劇団綺畸…駒場寮の劇団のエネルギー
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写真:現代ビジネス
菅 間違って東大に入った人だから、それが良かったんじゃないですか(笑)。いずれにせよ、40年ぶりの再会だったけど、泉さん、そんなに変わってませんね。
泉 菅さんへの私の印象もそうです。昔からこういう形でいろいろ厳しいご指導を受けてたのでね。
菅 演劇論的に見ると、泉さんはプレイヤーだけど、「シナリオを書きたい」とこのごろしきりに言うじゃない。テーマを決めて、プランを立てて、自分も舞台に立つ、そういうスタンスで、ずっと来たわけですよね。でもこれからは、渦中にいながら、いろんな人を配置して、自分はそこからもう少しひいた立場で全体のシナリオを書く。演出もする。そういう位置を行こうとしている。作家と役者と演出家。要するにひとつの世界全体の作者になろうとしてる。
泉 市長は個人戦だから。個人戦を戦っている。だけど国政になってくると総力戦、チームだから、1人で戦うわけではない。いかに総合チームを作るかという問題になってくるから、そこは発想を変えないといけない。市長の延長線上に国政があるわけではないので。そういう意味では、自分が役者でありながら、作家で演出家というのを目指しているのかも知れません。芝居で言うと、当時の駒場寮の中にもムーブメントがありました。
菅 野田秀樹がいた時期だよね。
泉 そうです。駒場小劇場という芝居小屋があって、野田さんは、そこの管理責任者であり寮長やったんですよ。私は駒場小劇場の責任者で、夢の遊眠社の最後の公演もやって、劇団綺畸(きき)とか、劇団イェルサレムとか、演劇からもエネルギーを受け取りました。夢の遊眠社がそこからブレークしていって、紀伊國屋ホールに向かう時期でした。あのときはずっと芝居を観ていましたね。当時は芝居が元気な時期で、それまでと違って小劇場ブームが起こり始めて、問いかけの仕方が一気にこれまでとは違う形になった。それをすごく覚えてますね。
菅 社会学者で東大の副学長になった吉見俊哉は、演劇青年だったんですよ。あの人は野田のところじゃなくて綺畸。東女(東京女子大学)と合同のサークルの……。
泉 如月小春さんですね。
菅 如月さんがちょっと年上で、吉見は如月さんの影響を受けたそうです。
泉 夢の遊眠社も今の話も全部、駒場寮食堂の横の小劇場でやっていた。食堂の横の小汚い小屋が、ブレークしていく原点になった。
菅 本当に汚かった。演劇のサークルはだいたい昔から汚ねえんだけど。
泉 当時の田舎者の私にとっては、菅さんとの出会いなどによって社会に開かれていく部分と、劇場の勢いと熱から感じた変えるエネルギーと、いずれも大学時代の大事な体験でした。
菅 妙なことを言いますが、如月さんがもし生きていて、もし政治家に転身したら、かなりやれたかもしれない。
泉 芝居を仕切れる方は政治家に向いてますわ。あれだけごっちゃの世界で0から1を作れるし、その資質は、優秀な政治家になりますよ。
こだわらなければいけない過去
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菅 あの世代から女性の演出家が輩出しますが、そのなかでも如月さんはすごい人だった。残念ながら2000年、44歳という若さで亡くなってしまったけど。
泉 当時のイメージで言うと、私は芝居の世界を現実社会でやりたい感じだったかも知れない。好き嫌いは割れるでしょうけど、野田さんは当時から独立した世界を作ってました。それを「劇場の中の世界だけで終わることなく、実社会で新たな発想で作れないか」と思いながら観てましたね。菅さんも最初、演劇には、役者から入ってますよね。
菅 私は俳優座の養成所十二期に俳優コースで一応受かっています(笑)。
泉 最近出された自伝の『ことにおいて後悔せず 戦後史としての自伝』(航思社、2023年)を読んでも、最初は役者からですよね。
菅 不幸にしてそれが60年安保の年だから、それも一つの原因で初志貫徹できませんでした。養成所の世界は共産党系でもある。俳優座のトップの千田是也さんは共産党と緊張関係がありましたが、周りはほとんど旧左翼の共産党系です。俳優座に通い始めたところで、1960年6月15日、樺美智子さんがデモの渦中で死んだので、「本当の闘争は、全学連主流派のデモの側にあるんじゃないか」と思って、4カ月で辞めた。
演劇から完全に離れたわけではなかったけれど、普通の大学生に戻って、闘争の潮が全部引いちゃったあと、1年半ぐらい活動家もどきをやっていました。翌年は、デモの隊列は100分の1から1000分の1になった。全都でたかだか80人のデモとかですよ。残念ながら、演劇的な発想で世界を動かす、という次元からはもう遠かったです。でもまあ、そこで私の物心がつき、膨らんだり挫折したりして、85年が過ぎたわけですが。
泉 私は東京に来たときに、樺さんが亡くなった衆議院の南通用門で花を置きました。私は高校時代に樺さんにあこがれというか、好きやったので。樺さんは神戸高校を出た兵庫の人ですし、ご縁を感じていて、勝手ながら高校生のとき「東京に行ったら、南通用門で花を置こう」と思っていて、大学に入った最初のときに、置きました。高校生のときに好きやったのが樺さんです。
あとは、全共闘運動の渦中にいて自ら命を絶った高野悦子さんの『二十歳の原点』(新潮社、1971年)と、立命館大生だった高野さんが通った京都のジャズ喫茶「シアンクレール」、そのあたりが、今で言うところの私の聖地ですね。
昔話です。最後は、センチメンタルな話になりましたね。
菅 私はセンチメンタルな振り返り方はしないほうなんですが、こだわっておかなければいけない過去というものはありますよね。(了)
 
泉 房穂、菅 孝行