篠田博之月刊『創』編集長
10月2日の集会で発言する袴田ひで子さん(筆者撮影)
事件当時の報道について語った袴田ひで子さんの言葉
9月26日に袴田事件の再審無罪判決が出された後、30日に日本記者クラブで行われた会見で、袴田ひで子さんは、事件当時のマスコミ報道について聞かれ、こんなふうに答えていた。「言いたいことはありますけど、当時報道していた人たちはもういないわけでしょう。皆さんはその当時、いなかったわけですよね」
再審無罪へ向けてこの間、マスコミはひで子さんや弁護団を応援する報道を行ってきたから、そういう現在の報道関係者に、1966年事件当時の報道への批判をぶつけるのはどうか、というひで子さんの発言だ。確かに58年前と今日では、マスコミの人権意識も変わったし、報道の仕方もかなり変わっている。
ただ、本当に犯罪報道の構造が根本的に変わったと言えるのだろうか。そのことを考えるために、事件当時の報道を具体的に振り返ってみたい。当時の新聞各紙の紙面を実際に見てみると、あまりのひどさに深刻な気持ちにならざるをえず、きちんと検証しなければいけないという思いを改めて感じるからだ。
9月27日付毎日新聞(筆者撮影)
毎日新聞は2面で大きく、報道の検証を行い、「人権侵害おわびします」という坂口佳代編集局長の署名記事を掲げた。編集局のトップが名前を出して報道をおわびするというのは異例のことだ。
9月27日付東京新聞のおわび(筆者撮影)
東京新聞は1面左の囲みで「袴田さんにおわびします」という記事を掲げた。1面にこれを掲げるというところに同紙の姿勢が現れている。記事の中では、例えば1966年9月7日付静岡版で「ねばりの捜査にがい歌 袴田の仮面はぐ」との見出しを掲げたことをあげていた。当時は容疑者は呼び捨てだったし、逮捕段階で「犯人」視報道がなされていた。
毎日新聞の検証記事でも、幾つかの記事を具体的にあげ、捜査当局と一体化した書きぶりであることなどを指摘した。坂口編集局長も、逮捕時の犯人視報道や、捜査に問題があるかどうかを疑う視点が欠けていたことをおわびしている。
実は毎日新聞は、2014年3月27日、静岡地裁が再審開始決定を出した際にも、5月21日付紙面に大きな検証記事を掲げて話題になった。1面で「死刑ありきで自白採用」という熊本典道元裁判官の話を取り上げ、中面を1ページ費やして「『捏造』生んだ『信念』『犯人視』捜査記録明記」と「袴田事件」の48年間を振り返ったものだった。
なぜ毎日新聞が折りに触れてこんなふうに報道検証を行い、謝罪しているかというと、実は逮捕当時の報道が、同紙は突出していたからだ。
逮捕1カ月前に「従業員『H』浮かぶ」と報道
例えば有名なのが、逮捕直前の1966年7月4日付夕刊で「従業員『H』浮かぶ/血ぞめのシャツを発見」と、袴田巌さんを有力容疑者として報じた紙面だ。
1966年7月4日付毎日新聞夕刊(筆者撮影)
「従業員H」と書けば袴田さんを特定したのと同じで、袴田さんの家族を恐怖のどん底に突き落とした報道だった。袴田さんが強盗殺人と放火の容疑で逮捕されるのは8月18日だから、1カ月以上も前である。
ちなみに「血ぞめのシャツ」は、当時、警察が目をつけていたのは確かなようだが、実際は肉眼で見えるような血痕の付着はなく、それが決め手にならなかったために、その後、1年以上もたってから文字通り血ぞめのシャツやズボンなどが別に発見されることになった。それが捏造されたものだと今回言及された着衣である。
毎日新聞の逮捕1カ月前の「従業員『H』浮かぶ/血ぞめのシャツを発見」という見出しは、捜査側の誤った情報をそのままスクープとして報じたものだった。
その後も毎日新聞は折に触れて捜査情報をスクープとして報じていく。犯罪報道の構造的問題は、捜査側の情報をいかに早く抜くかというのがスクープ合戦の内実であるとところだ。確かに捜査側が圧倒的な情報を持っているから、それをいかに早く入手するかに報道の主眼が置かれるわけだが、問題はそれによって報道が警察と一体化していくことだ。捜査側の思いが報道側の思いになっていくから、捜査側と一緒になって冤罪を作り出していくことになる。
本当は捜査内容を検証し、権力の動きをチェックするのが報道本来の役目なのだが、現実はそうではなかったわけだ。捜査情報を少しでも早く抜くことが、特ダネとして称揚された。その基本構造自体は、今日でも基本的に変わっていない。
取り調べ報道で見出しに「不敵なうす笑い」
当時の報道を具体的に見ていこう。
袴田巖さんは強引な取り調べによって「犯行」を自供し、大々的な報道が行われるのだが、これも今となって見ればとんでもないものだった。
例えば袴田さんが任意同行で取調べを受けたことを報じた8月18日付の毎日新聞は見出しに「不敵なうす笑い」と掲げている。毎日だけではない。8月19日の読売新聞の見出しは「決め手つかんだ“科学捜査”」だ。薄弱な証拠での公判維持が危ぶまれ、起訴後に証拠が捏造されるという、「科学捜査」とは縁遠いことが行われたことが明らかになった今から見ると、唖然とする報道だ。
当時の報道にあたった記者たちがどういう心情だったかを端的に示す記事を紹介しよう。袴田さんが起訴された後、9月12日の毎日新聞に掲載された静岡支局長の署名記事だ。これを読むと戦慄(せんりつ)が走る。
「異常性格者」と袴田巖さんを断罪
●毎日新聞1966年9月12日
《“科学捜査”の勝どき
清水市横砂のミソ製造会社専務、橋本藤雄さん(41)一家四人の強殺放火事件は、容疑者の従業員、袴田巌(30)の自供で解決した。奪った金は二十万余円という。この金ほしさに、働き盛りの夫妻と将来ある中学生の長男、高校生の二女をまるで虫けらのように殺している。心理学者のことばを借りれば「良心不在、情操欠乏の動物型」とでもいうのだろうが、動物にも愛情はある。その片りんを持ち合わせていないのだから“悪魔のような”とはこんな人間をいうのだろう。(略)
この事件はなんといっても科学的捜査の勝利である。(略)
鑑定資料はごく微量の油と血、失敗すれば再鑑定というわけにもいかない。こうした困難な状況を克服して、みごと検出に成功した鑑識陣の労苦と技術は高く評価されてよい。(略)
こんどの捜査は、現場に残された科学的資料にメスを加えながら、動機とアリバイの面から容疑者をしぼり別件逮捕という好ましくない手段を避け、正面から堂々と攻めあげたもので、近代捜査の定石をいった典型的な例だろう。》
《袴田は、とても常人のモノサシでははかりしれない異常性格者である。残虐な手口、状況証拠をつきつけられても、ガンとして二十日間も口を割らなかったしぶとさ。がん強さと反社会性は犯罪者に共通した性格だが、袴田の場合はとくに極端である。彼の特色といえば、情操が欠け、一片の良心も持ち合わせていないが、知能だけは正常に発達していることである。(略) 毎日新聞静岡支局長 佐々木武雄》
科学捜査どころか証拠のねつ造が行われていたことを今回の判決は明示したのだが、そうしたことが明らかになった今から読み返すと、この新聞の記事は恐ろしいとしか言いようがない。無実を訴えて闘っている袴田さんを「異常性格者」とまで決めつけている。
袴田さんは無実なのだから当初、やっていないと否認していたわけだが、それがこの記事によると「とても常人のモノサシでははかりしれない異常性格者」「状況証拠をつきつけられても、ガンとして二十日間も口を割らなかったしぶとさ。がん強さと反社会性は犯罪者に共通した性格だが、袴田の場合はとくに極端である」となってしまうのだ。どうしても袴田さんを犯人に仕立て上げようと腐心した警察と心情的に一体化、いや警察以上にひどいと言わざるをえない。
1966年9月8日付毎日新聞(筆者撮影)
自白強要の刑事を 「人情刑事」と礼賛
当時の記者たちの心情を示す記事をもうひとつ引用しよう。これも今から見ると、ほとんどトンデモの類いと言ってよい内容だ。9月8日付の毎日新聞に掲載された「袴田を追って70日」という「第一線記者座談会」だが、見出しがこうだ。
「人情刑事に降参 自供引き出す森田デカ長」。中見出しは「立派だった鑑識」である。ほとんど噴飯(ふんぱん)ものの中身だが、記者たちの本音がわかるので少し長い引用をしよう。
●「袴田を追って70日」
《─袴田もやっぱり人の子だった。強盗、殺人、放火─。犯罪史上まれにみる残忍な犯行をやりながらがん強に否認し続けていた袴田が、どうして六日になって自供したのだろう。そのへんから話してほしい。
C 沢口本部長(清水署長)は理づめの調べで観念したのだ、といっているが、やはりパジャマについた被害者の血がものをいったと思う。毎日々々「この血はだれの血か」と追及されたら、どんな残忍な犯人でも、耐え切れなくなってくるだろう。身から出たサビとはよくいったもんで、身(袴田が犯行当夜着ていたパジャマ)から出た血には勝てなかった。(略)
A 森田部長刑事は、しんみり相手の側に立って、ものをきく人柄なので、がん強な袴田も、人間の心を取り戻したのではないか。森田部長刑事が調べはじめると、袴田が急に神妙な態度に変わり「松本警部さんと住吉警部補さんを呼んでください」と自供の決意をほのめかしたというから…。(略)
─どうして袴田が浮かんだか。
A ボクサーくずれで身持ちが悪く、妻と別居中。それに金に困っていたなど不良従業員の筆頭だった。(略)
立派だった鑑識
─それにしても袴田逮捕のきっかけになった血液と油の鑑定結果は立派だったね。
G 当初、捜査本部は血液も油も微量すぎて鑑定できないといっていた。(略)
─逮捕前の袴田の行動はどうだったのか。
E 捜査本部では袴田に連日二人の刑事をつけ徹底的に身辺捜査をやった。しかし彼は刑事をからかうように尾行をまいたり、張り込みを終わって帰る刑事に高笑いを浴びせるなど捜査陣をあまくみていた。(略)
─逮捕されてからはどうだったの。ずいぶん手こずらせたようだが。
D 逮捕後はさすがにガックリしたんじゃないの。
B とんでもない。逮捕された夜から寝返りもしないほどよく眠るし、食欲も盛んだったらしい。
C ふつうは一晩の“ブタ箱生活”でまいってしまうのだが、彼は“パジャマの血はオレの血だ”と平然とウソをいうし、取調官が“お前以外の血がついているんだ”と問いつめても“だれかがなすりつけたんだろう”とうそぶいていた。
帰宅は連日“午前さま”
─袴田の泣きどころはどこだったのだろう。
H 頭ごなしにいうと反抗する性格だから取調べの段階ではおだてたり、すかしたりしたやり方が成功して自供までこぎつけたのではないか。(略)
─長期捜査で捜査員も調官もクタクタのようだね。
A 事件発生からかかりっきりの捜査員六十人は、炎天下ついに一日も休まなかったし、クタクタの“午前さま”でみんな歯を食いしばってやっていた。心臓の悪い沢口本部長も毎日午前三時から四時帰宅。松本警部が“二十年間刑事をやっているが、こんなしたたかものははじめて”と嘆くのも、もっともだと思う。袴田にかけた捜査の執念が不眠不休捜査になったのだ。
B 捜査員の中には倒れた人もあったって。
C 三人ぐらいいたかな。
H 池谷捜一課長も心臓が悪くゲッソリしていた。“倒れたら倒れたときさ”とがんばっていた。悲壮な感じだったね。
─それにしても、君たちも夏休み、日曜返上で捜査員以上の苦労をしたね。A君なんか奥さんが病気だったし、H君は奥さんがオメデタで体が弱っていること、ずっとかくして走り回っていたね。取材の苦労も多かったと思うが…。
D とにかく捜査本部の口が堅く、記者会見はいつも“進展なし”(笑い)。
E そうだ。昼間の取材は全然ダメ。夜討ち、朝がけの取材合戦で帰りは午前二時、三時。》
強引に袴田さんを自供に追い込んだ刑事を「人情刑事」とほめあげ、ずさんだった証拠調べを「立派だった鑑識」と持ち上げる。冤罪は警察だけでなくマスコミも一緒になって作り上げると言われるが、その典型だ。
1966年8月19日付読売新聞(筆者撮影)
警察を監視どころか共に冤罪を作り出す
ここで注意しておきたいのは、当時の毎日新聞、あるいは他紙も含めた新聞記者が特にひどかったというわけではなく、こんなふうに記者が警察と一体となって逮捕された人間を追い詰めるというのが、犯罪報道の構造に根差したものだということだ。事件報道とは、圧倒的に情報を持っている警察にいかに食い込んでその情報をとってくるかの競争になるため、心情的に警察に依拠する構造になっているのだ。
袴田さんは、取調べで一時は自供してしまうが、裁判では一貫して無実を主張した。数々の証拠が捏造されたものであることは袴田さん自身がわかっていて、それを訴えていたのだが、マスメディアはその声をくみ取ろうとしなかった。1審で死刑判決が出された時の毎日新聞68年9月12日の記事の見出しは「『袴田』死刑判決に平然」だった。袴田さんを写した写真のキャプションはこうである。
「不敵な笑顔を見せながら退廷、刑務所に向かう袴田」
袴田事件を報じた当時のマスコミ報道を見ていると、暗澹(あんたん)たる気持ちにならざるをえない。当時、スクープを連発して報道の先端を走っていた毎日新聞が目立つので、同紙の記事を主に取り上げたが、他紙が捜査に批判的な視点を持っていたかといえば、全くそんなことはない。
例えば1966年8月19日付読売新聞は「決め手つかんだ“科学捜査”」と大きく見出しを掲げて捜査側をもちあげる一方、「ぐれた元ボクサー」と中見出しを掲げて袴田さんについて紹介している。
犯罪報道の構造は本当に一変したのか
問題は前述したように、捜査側と一体化してしまう犯罪報道の構造が、今日、本当に根本から変わっているのか、ということだ。
私が編集している月刊『創』(つくる)は、凶悪事件の容疑者ないし被告側の手記を頻繁に掲載することで知られており、時々、どうしてそんなふうに手記がとれるのかと聞かれることがある。一番大きな理由は、新聞・テレビなどの大手メディアが警察サイドに立っている現実に、容疑者ないし被告がほぼ例外なしに不信感を抱いているからだ。
『創』は記者クラブに所属していないため、捜査情報を直接入手するのは極めて困難で、そのために大手メディアの逆張りをし、容疑者や被告が何を考え、何を感じているかに軸足を置くことになる。別に容疑者の言い分が全て正しいと思っているわけではないが、大手メディアが報じない情報を伝えることにも意味はあると考えている。
そうした視点に立って事件を追っていると、捜査側に依拠した大手メディアの報道に疑問を感じることは少なくない。袴田事件や松本サリン事件の報道のような過ちから、メディアが完全に抜け出せているかといえば、そうも言えない気がするのだ。
報道をめぐる検証や議論は絶えず行っていかなければいけないと思う。その意味で、袴田事件の報道検証を続けている毎日新聞の姿勢には敬意を表したいと思う。ただその一方で、今回引用したような当時のひどい報道がどうしてなされてしまったのか、絶えず顧みていかなければいけないと思う。
出版界で言えば、1980年代初め、写真週刊誌という新しい雑誌群が登場した当初、スクープをとってくるような優秀な記者やカメラマンほど訴訟を抱えてしまうと言われた。袴田事件当時の毎日新聞も、当時はおそらく、スクープ連発で業界で高く評価されていたのだと思う。しかし、それが一方で、大きな落とし穴に踏み込んでいたという構造についても考えてみなければいけない。
月刊『創』編集長
月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。
篠田博之の書籍紹介
皇室タブー
著者:篠田博之
皇室タブーを正面から取り上げた衝撃の書