なぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信
タイトルはパクリ。
二つの疑問
タイトルを読んだ人の反応は、主に次の二つに分かれる*1だろう。
- 「訊く」が正しいなんて思っている人がいるの?
- 「たずねる」という意味では「訊く」が正しいんじゃないの?
まず、「訊く」が正しいなんて思っている人がいるの? という人に対して。
本当にいる。
Yahoo! 知恵袋の質問から引用。
聞く・聴く・訊く・・・「きく」の使い分けについて
噂を聞く
(中略)
道を訊く上記例で使用例は合っているでしょうか?
訊 字は、たづねるの訓があり、訊問(じんもん)という言葉もありますから、人に問うの意味で使うと考えて良いでしょう。
(中略)
質問者さんの挙げた例は、正しく使い分けられています。
こういう人は実際に「訊く」が正しいと思っているということだ。
そして、「訊く」が正しいんじゃないの? という人に対して。
小説から少し引用する。
まず、「坊っちゃん」の冒頭部分から。
なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。
次に、人間失格から。
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。
ここからわかるように、"ask" の意味で「訊く」が正しく、「聞く」が間違っているということは成り立たない。
「たずねる」という意味で「きく」と言う時、昔から一貫して主流なのは「聞く」という書き方だ。
じゃあ「訊く」は? というと、これは明治〜大正期に現れたもので、傍流として続いている。
たとえば青空文庫で「と聞くと」と「と訊くと」を検索してみると、どういう人がどちらを使っているかを見ることができる。
つまり、「正しい・間違っている」という関係ではなく、スタイルの問題だ。
誤解
「訊く」に関しては、さまざまな誤解がある。
主なものを三つ挙げる。
誤解その1:「聞く」は代用表記?
“「たずねる」という意味での本来の書き方は「訊く」で、「聞く」は代用表記だ”と考えている人がいる。
これは誤解だ。
しかし、ネットではそう誤解しているページが多く見つかる。
ただし、この「訊く」は現在、常用漢字に含まれていません。
従って最近、この字は使わなくなり、「聞く」が代用されています。
ブログ記事◆ Vol.73 『キク三兄弟「聞くと聴くと訊く」の違いについて 続編』。
★最後の締めとして広辞苑の結論の部分を持ってきました。
●広く一般には「聞く」を使い、注意深く耳を傾ける場合にこれを「聴く」を使う。とあります。
つまりなんでも「聞く」と書いて間違いじゃない世の中になったわけです。こだわり派には不満で、指摘されたりするでしょうが・・・。
ただし、広辞苑に関しては「訊く」を「聞く」で代用することに関して許容しているようです。
(もっとも、広辞苑は他の辞書と比べて許容しすぎですが)
後二者は広辞苑の「広く一般には「聞く」を使い、注意深く耳を傾ける場合にこれを「聴く」を使う。」という説明を読んだうえで、それが「許容」であるという勝手なストーリーを作っている。
これはもちろん、上で書いたように事実に反する。
広辞苑は、ずっと主流だったのは「聞く」だったという事実を記述しているに過ぎない。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざにしても、ずっと昔からこの書き方だ*2。
当用・常用漢字の及ぼした影響を過大評価している人がいるが、小説家は、「この字を使うな」と言われて従うような人種じゃない*3。「訊く」をはじめ、「解る」「判る」「憶える」なども、少数派が少数派として続いているだけで、「かつては正しかったものが禁止された」ということではない。
代用表記というものも確かにあるが、それは「銓衡」を「選考」にするといった漢字熟語が主で、「訊く」はそれにはあたらない*4。
誤解その2:小説では「訊く」?
小説を書くときは「訊く」のほうを使わないといけないと思っている人もいるようだ。
私は、小説を最近書き始めたのですが、小説では基本的に『聞く』より『訊く』のほうがつかわれていますよね?
これも誤解だ。
確かに、最近のラノベなどでは「訊く」が多いだろう。
しかし、上で挙げた夏目漱石や太宰治はもちろん、日本語のデータベースで「と聞くと」などで検索すると、大江健三郎・森村誠一・山崎豊子・阿川弘之・米原万里など*5、いま現役の小説家を含め、多くの作家が "ask" の意味で「聞く」を使っていることがわかる。
小説家すべてが、古くからある「聞く」を捨てて「訊く」に乗り換えたというわけではない。
誤解その3:「訊く」は「聞く」のかっこいい版?
これは方向性が違うが、やはり誤解だ。
確かにその側面はあるが、"hear" という意味の「きく」をかっこよくするのにはもちろん使えない。
だが、そういう間違いをしている人もいる。
たとえば、任天堂は「社長が訊く」というシリーズを掲載している。
それはいいのだが、公式 Twitter アカウントの発言で、次のようなものがあった。
[岩田]任天堂の岩田です。社長が訊く『Wii U』の第2回目はWii U GamePad篇です。今回は、透明筐体も分解写真もありませんが、私にとっても意外な話が訊けました。ご興味のある方はどうぞ。URL
2012-10-17 10:21:21 via web
私にとっても意外な話が訊けました。
これは、"hear" と解釈しないと意味が通らない。
もちろん、日本語の「きく」は "ask" と "hear" にまたがる意味を持っているので間違えるのも無理はないのだが、かっこよくしようとして失敗すると、普通に書くよりもずっとみっともないことになる。
原因
昔から、小説家などを中心に「訊く」のほうが好きだという人はもちろんいた。
しかし、"ask" の意味での「訊く」が正しいと思っている人はあまり見なかった。
それが、この数年で変わってきている。
その原因については前に考えたことがあるが、主には Facebook や Twitter などの SNS によるクラスタ化・パソコンやスマートフォンの普及による選択の多様化・活字離れによる過去との断絶などだろうとぼくは考えている。
いい方向への変化?
次のような意見もあるかと思う。
- 伝統的でなくても、"ask" と "hear" が書き分けられるようになれば便利だ。
- 「聞」という漢字には "ask" という意味はないんだから、別の漢字にするのがいい。
- 日本語が多様になるのはいいことだ。
- 言語は変化するものなのだからしかたがない。
これらについて、ひとつひとつ考えてみる。
書き分け
「日本語は同音異義語が多いから、漢字で書き分けることによって豊かになっている」という素朴な考えをよく見る。
確かに、漢字熟語についてはそうだ。「公園」「講演」「後援」「公演」等を明日から全部「こうえん」と書くということになったら大混乱になるだろう。
「食事をとる」「魚をとる」「狸をとる」「人の物をとる」「写真をとる」などを平仮名にしても、意味を取るのに何の支障もない。
これらは「とる」という一単語が持つ広いニュアンスのそれぞれの側面にすぎない。
これまで日本人が "ask" と "hear" を両方とも「聞く」と書いてきて、困ることがなかったのも同じこと。
それらは「きく」という一単語の持つ広いニュアンスがカバーする範囲だからだ。
「きく」と同じように、「伺う」も "hear" と "ask" にまたがる意味をカバーしている。
だからといって、"ask" の「伺う」と "hear" の「伺う」は書き分けられていないし、それで不都合もない。
「もう一度お伺いしますが」と書かれているのを見ても、文脈で "hear" ではなく "ask" だということがわかる。
日本語を読み書きする人にとって、用言の書き分けというのは、する習慣があるものではそれに頼って意味を判別し、ないものでは文脈に頼って判別するようになっている。
その端的な例が「速い」「早い」に対する「遅い」。
「はやい」は「速い」と「早い」で書き分ける習慣になっているので、「速い」を見ると速度のはやさ、「早い」を見ると時間のはやさを連想する。
しかし、「おそい」は速度も時間も同じ「遅い」*8だ。だから、「遅い」を見ると、頭の中では時間とも速度ともつかない「おそい」のイメージが浮かぶことになる。
これは歴史的な流れでこうなっているもので、どちらを動かしても日本語には混乱がもたらされる。
「はやい」を「早い」に統一すると、古い世代が新しい本を読むときに、「早い」には "fast" の意味も追加されているのに、全部 "early" に見える。
「おそい」を「遅い」と「晩い」に分けると、新しい世代が古い本を読むときに、「遅い」には "late" の用法もあるのに、どれも "slow" に見える。
どちらにしても、断絶は避けられない。
「聞く」を「聞く」と「訊く」に分けるのも同じことで、その「新しい」日本語しか読んでいない世代は、"ask" の意味で「聞く」と書いてある古い本を読むと、それらが "hear" に見えてしまうことになる。
そういう本はもちろん大量にある。これまでに書かれた実用書などの大部分がそうだ。
漢字の意味
日本語を使う人間にとって、「漢字本来の意味」というのは開けてはいけないパンドラの箱だ。
日本で使われる漢字の用法は、すでにいろいろな面で本来の意味から離れてしまっている。
今さら直そうとすると、今ある日本語を捨てるしかない。
たとえば、四則演算を日本語で言うと、それぞれ「足す・引く・掛ける・割る」だが、熟語では「加減乗除」だ。
前者は和語だが、後者は漢文、つまり中国語の理屈になる。
「足す」を例にとる。
「足」には「不足」「満足」のように「たりる」の意味という意味がある。
だから、日本語では「たりる」を「足りる」と書く。
そのつながりで、「たりるようにする」という意味の「たす」も「足す」と書くようになった。
だが、この時点で「漢字本来の意味」からは遠ざかってしまっている。
「足」には本来「たす」という意味はない。
「足りる」と「足す」がつながっているのは日本語の理屈であって、漢文の理屈ではないからだ。
漢文では「たす」にあたる漢字はあくまで「加」だ。
中国語の理屈をつきつめると、「加(た)す」「減(ひ)く」「乗(か)ける」「除(わ)る」のようにするべきということになる。
これは切りがない。
それを言い出すと、「伺う」の「伺」という字にも "hear" や "ask" といった意味はない。
「漢字本来の意味」に合わせて日本語を変えるとなると、これまで続いてきた日本語の歴史をすべて捨てて、漢文の奴隷になるしかない。
今の日本語の枠組みでは、日本語の理屈と中国語の理屈が完全に一致することはない。
漢字という、中国語を書くための文字を使って日本語を書き表す以上、中国語の理屈と日本語の理屈の間のどこかでバランスを取ることになる。
そして、今のバランスからどちら側に動かそうとしても、今までの日本語とは「ずれ」が生じてしまう。
多様性
「日本語は多様性があるのがいいのに、それにケチをつけるのか」と言う人がいるかもしれない。
いや、創作文での多様性は逆に減っているぐらいだ。
上で挙げたように、小説家には "ask" の意味で「聞く」と書く人もいれば「訊く」と書く人もいる。「きく」と平仮名にする*9人も少なくない。
それが一律に「訊く」が正しいということになるということこそ、多様性の喪失というものじゃないだろうか。
小説から多様性が失われる一方で、とても「訊く」を使うような雰囲気でない実用文などで「訊く」が使われているのも見るようになった。
多様であった創作文が画一的になり、統一的であった実用文がバラバラになりつつある。
それが望ましい変化なのだろうか?
言語は生き物?
「言語は生き物で、変化は避けられない」とはよく言われる。
しかし、その場合の「言語」というのは、主に話し言葉のことだ。
話し言葉の変化は、すぐに書き言葉に波及するわけではない。
たとえば、「キモい」「ウザい」という言葉や、肯定的な意味での「ヤバい」という言い方など、話し言葉の変化は大きいが、たとえば堅い本の地の文*10にそれらは出てこない。ちゃんとした書き手は「話し言葉」と「書き言葉」とのモード切り替えをわきまえていて、校正者ももちろんそれらを通すはずがないからだ。
そのように、書き言葉は話し言葉の変化の速さから守られている面がある。
だが、ネット(特に SNS 以降)の書き言葉は変化しやすい。
それが「印刷の書き言葉」にまで影響を及ぼすと、過去と未来をつなぐはずの印刷物まで大きな変化にさらされることになる。
そのために、今後の書き言葉には「ネットでの変化を防ぐ」という視点が必要なんじゃないかと思う。
残念ながら、校正・校閲*11という文化は失われつつあるという話を目にする。
また、校閲があるところでも、その原則が失われつつあるのではないかと気になることもある。
実用書を書く人がネット上で「何故」「訳」「訊く」などを平仮名に直されるということについて愚痴を言っているのを読んだ。
「難しい」「堅い」「読めない」と言われたという。
校正者がそれらを仮名書きにするちゃんとした理由を言えていないということだ。
それらを仮名書きするのには、原則がある。
和語の副詞や形式名詞、助詞に相当するものは平仮名にするというもの。
「何故」を平仮名で書くのは和語の副詞だからで、「訳(わけ)」は「事(こと)」「為(ため)」と同じ形式名詞だから。
また、「訊く」は実用文にはふさわしくない小説的なスタイルで、何よりも「聞く」が伝統的な書き方だからだ。
どうして、それらの背景が言えないのか。
最近の本で、「〜に亘(わた)って」「〜の所為(せい)」のようなものを見たことがある。
これらは、原則からいえば仮名書きするべきところだ。
そのような本でも、「〜に依(よ)って」「〜の為(ため)」という書き方は出てこない。
それなのに上のようなものを通しているということは、原則が失われて「これまで平仮名にしてきたところを平仮名にする」という運用になり、最近まで誰も使わなかったような漢字書きに抵抗できていないということじゃないだろうか。
このような校閲の衰退・劣化を背景に、ネットの日本語は少しずつ印刷の書き言葉に進出しつつあるように見える。
最後に
「『訊く』と書くな」と書いているわけではない。
Twitter などで誰が何をどう書こうが、それはその人の自由で、特に何も言うことはない。
ぼくが憂慮しているのは、日本語の「軸」がずれていくことだ。
「聞く」「覚える」「分かる」といった普通の日本語があるところに、「訊く」や「憶える」・「解る・判る」などの「スタイル」「バリエーション」があるというこれまでの形であれば、それらが存在することに問題はない。
しかし、それらが実は正しかったということになると、それは過去との断絶を招く。
「たずねる」の意味の「きく」の中心が「訊く」に移ってしまうと、これまでの日本語実用文で「聞く」を使っていたものがすべて間違っているように見えてしまい、小説で雰囲気のために「訊く」を使っていたものからは何の雰囲気も感じられなくなってしまう。
このような変化が、日本語の歴史から見ると非常に短い期間で急激に進みつつある。
この記事は、「コンビニ敬語」「ら抜き言葉」「二重敬語」「確信犯」「的を得る」のような、いわゆる「日本語の乱れ」に敏感な人にも読んでほしい。
ネットによる日本語の変化は、それらよりもずっと大きな影響を書き言葉に及ぼしかねない。
また、ここで引用しているものの中に「Yahoo! 知恵袋」のような「レベルが低い」と見なされがちなものが多いからといって、軽く見ないでほしい。
今の日本語の変化は、そういうレベルから上がってくるようなものだからだ。
ぼく自身、この変化によって実害をこうむっているために書いた。
村上春樹や江國香織が「訊く」を使うのはスタイルだし、それは作品の一部だ。
しかし、気取らない文体で書かれた外国の実用書の訳文に「訊く」が使われていたりすると、そこで目が止まって気が散ってしまう。
実用文は実用文で、一時の流行から守られる存在であってほしい。
今後海外ですばらしい本が出たときに、ぼくはそれを「普通の」日本語で読めるだろうか、というのが不安だ。
ぼくは特に書き言葉の変化に対する適応能力が低いほうだ。
これを読んでも、すでに変化に適応していてピンと来ないという人は多いだろう。
しかし、時々ぼくの同類を見ることがあり、心強くなる。
次に挙げるこれも知恵袋だが、歴史を踏まえた回答がされている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1469422839
近年「聞く」「訊く」の使い分けを説く人が多くなった結果かも知れませんが、「お巡りさんに道を訊く」というような表記がされるとしたら、私ははついて行けません。
ぼくもまったく同じ感覚だ。
若い人ならまだしも、いい大人が「訊く」が「正しい」と思い込んでいるのを見ると悲しくなる。
そういう人は、大人になってからネットで「訊く」を見て、学校で習った「聞く」のほうを何か「偽の」「嘘の」日本語だとでも思い込んだのだろうか?
「聞く」のほうが伝統的なものなのに。
「たずねる」の意味で「聞く」と書くのは、これまで普通に使われてきたもので目新しさはない。
しかし、これまで普通だったものを普通に受け継ぐというのが伝統の継承というものなんじゃないだろうか。
ぼくの考えは、中国文学者の高島俊男先生に影響を受けているところもある。
「漢字と日本人」は、日本人にとっての漢字との付き合い方を考えさせてくれる。
ぼく自身、高島先生の足元にも及ばないとはいえ、中国語を勉強している。
すると、中国語を表す文字として生まれた漢字を日本人が使うということの意味をどうしても考えざるを得なくなる。
漢字は、中国語の一概念を一文字で表すように発達してきた。
それを使って日本語を表すのには、どうしても無理が生じるが、これまでそうしてきた以上は仕方がない。
しかし、漢字を主として日本語を従とするような考え方には反対だ。
日本人にとっては、「きく」のような日本語のことばが先にあって、それを表す道具として漢字があるのであって、漢字のために日本語があるわけではないということを、微力ながら主張していきたい。
追記: 補足を書きました。
追記2: 冗長な記述を削除・編集しました。
追記3: 欲を出してアフィリエイトリンクを追加しました。
*1:多数は「あんまり気にしたことがなかった」かもしれないが。
*2:「〜末代の恥」などのバリエーションはあるが、「聞く」は常に「聞く」だった。
*3:新字や仮名遣いに関しては多くが従っているが、話が長くなるので省略。
*4:「坐る」→「座る」のような例はある。「坐」と「座」は混用されやすかったので「座」に統一された。
*5:同じ作家が時期・作品によって用法を変えている場合は考慮していないので、ここで挙げた作家が「訊く」を使っていることもあるかもしれない。
*6:日本語固有の単語のこと。
*7:動詞と形容詞の総称。
*8:一般的には。
*9:専門用語で「ひらく」と言うようだ。
*10:会話以外の部分。
*11:用法の違いはあり、この文では「校正」がよりふさわしいところもあるが、ここでは引用文との関係もあるので「校閲」に統一する。