Google 辞めました
Google辞めました。
最終出社日は 5月11日。
5月31日まで有給消化。
その後は無職。
転職先が決まっていて有給消化している「なんちゃって無職」ではなく、ガチ無職。
とりあえずハロワでも行こうと思う。
まず初めに。
この記事は、Twitter で @takeda25 をフォローしてくれている人たちが想定読者だ。
また、これは相当長くなると思う。さらに、中ではたとえ話を使うので、読んでもさっぱりピンと来ないかもしれない。
だから、長い文章を読んで「読んで時間を無駄にした」と思うタイプの人は、ここで読むのをやめてほしい。
もう一つ。
この記事を書いた人間(真鍋宏史)は無名の一社員で、ろくに業績もない。
そういう人間が何かを言っても聞く価値はないと思うなら、やはり読むのをやめてほしい。
この記事では、自分のいた場所に対してネガティブなことも書くと思う。
そのため、なぜそういう行動を取るかを最初に述べておく。
世間では、「組織を去る時、その組織に対してネガティブなことを言うのは良くない」という美意識が一般的なようだ。
自分なりに、その理由を分析してみた。
- ある組織に所属したということは、その組織に恩があるということである。
- ある組織に対してネガティブなことを言うということは、その組織を攻撃するということである。
- 恩がある対象に対して攻撃するのは良くないことである。
といったところだろうか。
私はこれら 3つすべてに対して賛成しない。
- 組織に所属するということは、個人と組織の間における対等な契約関係である。私には組織を選ぶ自由があり、組織にも私を受け入れるかどうか決める自由があった。私は労働という形で組織にサービスを提供し、組織は金銭という対価を私に支払った。その契約を結ぶにあたって、私はその組織をだますようなことはしておらず、組織が私と契約したのは完全に組織自身の選択である。そこには、恩という要素はない。
- 組織を攻撃するつもりでネガティブなことを書けば攻撃だが、自分の思ったことをポジティブ・ネガティブかかわらず書くというのは別のことだ。私が思ったことを書くのは、誰かを自分の味方につけて鬱憤を晴らしたいというわけではなく、ただ感じたことを書いて、それを読みたいと思う人に読んでほしいというだけだ。
- 意味なく他者を攻撃することは良くないことだが、それと「恩」とは関係がない。それに、前述の通り、私は組織に対して思ったことを書くのを「攻撃」とは思っていない。
このようなわけで、私は組織に対する自分の主観(ネガティブであるかないかにかかわらず)を書くことを、攻撃だとは思っていないし、倫理的に良くないことだとも思っていない。ある人々の美意識には合致しないかもしれないが、それは仕方がない。
もっとも、他にも考慮すべき点はある。
組織に対して何かを書くと、現象的には、それによって組織内外の人たちに影響を与えることは十分予見できる。
外と内とで分けて考えてみる。
- ネガティブなことを書くと、組織外の人が組織に対して悪い印象を持つのではないか?
- ネガティブなことを書くと、組織内の人が傷つくのではないか?
1 について。
まず、はっきりさせておきたいのは、私は Google に入って 1年 1か月しかたっておらず、見聞の範囲もものすごく狭いということだ。私に語れるのは、自分の半径 3メートルぐらいの狭い範囲のことだけだ。組織全体について語るだけの知識も経験もないし、そんなことをするつもりもない。そんなごくごく一部の情報から組織全体について語るのは、はっきり言って間違っている。そういうことをする人もいるかもしれないが、それは仕方がないことだ。そういう人は、私が何も書かなくても、他の材料で組織についてあることないこと語るだろう。「変な人が何か言うかもしれないから」という理由で何かをすることを恐れるというのは、臆病な行動基準だと思う。
2 について。組織内の人が傷つくかどうかにかかわらず、私がこう感じたということは事実だ。また、組織に対してネガティブなことを書かれて構成員が傷つくとしたら、(1) 組織に対する過度の同一化 (2) ネガティブな意見に対する防衛的な反応、という二つの意味で、本人や所属組織にとってもあまりよくないのではないかと思う。
ところで、辞める前に及川卓也さん(id:takoratta)に自分が会社で感じたことを書きたいと言うと、「私は書くことを悪いとは思わないが、辞めた会社のことを悪く書くと、人によってはそれに拒否感を持つかもしれないよ」というアドバイスをいただいた。社員としてではなく、人生の先輩としての立場で。
及川さんは、私が非常に尊敬している人だ。私の将来のことを考えて、そう言ってくれたんだろう。とても感謝している。
でも私としては、自分が間違っていないと思うことをしてふさがれる道があるのだとしたら、それはもともと自分と縁がない場所なのだと思っている。
さて、本題に入る。ここから、具体的な職務内容を避けるためにたとえ話を使う。
料理にたとえてみる。そのたとえで言うと、私は料理が好きな料理人で、機械の知識も多少はある、といったところだ。そして会社は、すごい機械やエンジニアを持っていることで有名な場所だったが、最近は料理にも手を出しているところだった。そして私は、この会社に入れば、最高の調理器具を使って最高の料理を追求できると思っていた。会社の目標も、最高の料理を作ることだと思っていた。
しかし、思い違いだったのは、会社の目標は「最高の自動調理機械を作ること」だった、あるいは少なくとも、自分にはそう見えたということだ。何もかもを機械に任せる。得られる食材を自動的に調べさせ、それらを自動的に調理させる。人間は、関わらなければ関わらないほどいい、と。
その方法でいいものができていると思えたら良かったのだが、その機械から出てくる食べ物は、私にはあまり好きになれなかった。最初は刺激的な味で人をひきつけるが、食べているとだんだんアラが見つかる。味にはムラがある。しかし、機械だけあって、量だけは大量に作れるので、安いバイキング料理のように、そのことを売りにしていた。しかも、料金は無料。私個人としては、他の会社が出している、毎日食べても飽きないような控えめな料理のほうが好きだったが、お金を出して控えめな料理を買うより、こちらにひきつけられてくる人は多かった。
私は、そこに勤める以上、製品が少しでもいいものになるように、できるだけムラを減らすように頑張った。そういうムラというのは、当たって初めて気がつくもので、減ったからといってそのことに気づくようなものじゃない。しかし、そういうところにこそ価値があると思っていた。
そういうふうに、何とかだましだましやっていた。しかし、あるきっかけがあって、辞めることを決意した。
そのきっかけというのは、それまでよりずっと小さな規模の製品を出すことになった時のことだ。料理のたとえで言うと、バイキング料理から一膳分の料理になったようなもの。その条件では、これまでのように力任せで量と種類で勝負というわけにはいかない。量の面では、他の会社と大差なくなる。だが、私はそれにそれほど関わらずにいた。それまで通り、大きな規模の製品のアラをなくす仕事をしていた。今から考えると、それは大きな間違いだった。
小さい製品のためのパラメータの調整は、他のメンバーによって行われていた。ベータ版を出す直前になっても、非常に影響の大きなパラメータ変更を加えるなどしていたので不安はあったが、それでも関わらないでいた。
そして、ベータ版が出てから、私はそれに致命的な欠陥がある(少なくとも自分にはそう感じられる)ことに気がついてしまった。たとえると、味噌汁にだしが入っていないようなもの。もっとも基本的なレベルの問題。そのことに気づいてから周りにそのことを伝えたが、反応は薄かった。
最初に辞めようと思ったのは、直接的にはこのことが原因だ。自分で積極的に関わろうとしなかったことへの悔恨。自分にとって重要なことが重要視されないことへの絶望。何よりも、欠陥製品(と思えるもの)を世に出してしまったことに対する自責。
だが、とりあえずは様子を見た。元々、この会社はベータ版をとりあえず出すことで知られている。少し待てば、それに対する不満が噴出してくるだろうから、それを根拠にできると思った。しかし、反応は絶賛だった。そのことが、さらに自分の絶望を加速した。この会社が出したものだから? 無料だから? 会社にとっては、ユーザー数とユーザーの反応だけが判断基準だ。会社の人間は、それに満足しているようだった。しかし、自分はとても同じようには感じられなかった。自分だけ頭がおかしいのかと思った。
自分としては、そのサイズのものを出すのなら、人手をかけたらもっといいものができるんじゃないかと考えた。しかし、そうするのは難しかった。そもそも、無料で出しているものだから費用対効果の話がしにくい。お金をもらっているものなら、「何十万人が一人いくら出してくれるから、それの何パーセントで性能向上に人手がどれぐらいかけられる」といった話ができただろう。しかし、無料で提供するものだから、「できるだけ人手をかけずに」といった、具体性のない話にしかならない。
まるで自分が、機械的に作られている無料の炊き出しを、人手をかけたまともな料理にしようと頑張っているような気分だった。会社にそんなことをする動機はないし、それにかける労力に見合うだけ被提供者が幸せになるのかもわからない。そもそも、無料の炊き出しをまともな料理にしてしまったら、お金をもらって真面目に料理屋をやっているところに対する圧迫になる。
そうは思いつつも、人手をかけたらよくできると思ったことに関しては、自分にできる範囲でがんばった。それによって、製品はそれ相応にはよくなったとは思う。しかし、そうすればそうするほど、他社への圧迫になるのではという考えがつきまとった。だいたい、この会社で無料でこの製品を出せるのは、まったく別の部門からの収入によるものなのだ。広い意味でのダンピングのように感じた。会社の収益という観点からいえば、この製品がなくてもまったく困らないはずだった。
こういったことをいろいろ考えたあげく、ここは自分のいるべき場所じゃないと思った。自分がそこにいて仕事をすることを、自分に対して正当化できないと感じた。
次に、私自分の能力という観点から。
Google というのは、基本的にソフトウェアエンジニアしかいない場所だ。世の中のすべてのことは「ソフトウェアエンジニアにしかできないこと」「人間なら誰にでもできること」の二つに分けられる、というような世界観が支配しているように感じた。
私は、自分が得意とするもう一つの分野(上で「料理」にたとえたもの)に関する知識や能力も、ソフトウェアエンジニアリングと同じような一つの能力だと思っていた。ソフトウェアエンジニアリングの能力を黒魔術としたら、私の好きな分野の能力は白魔術のようなもので、自分のことは両方ともそこそこできる赤魔術士のような存在だと考えていた。黒魔術の能力では他の人ほどではないかもしれないが、もう一つの能力と合わせたらそれなりの働きができるだろうと思っていた。しかし、Google は黒魔術の支配する世界だ。その中では、自分は能力の劣る黒魔術士でしかないように感じた。
もっとも、Google には普通の黒魔術士よりずっと黒魔術の使える、超高レベル赤魔道士のような人もいた。その人ぐらいの能力があれば、自分一人の力で黒魔術・白魔術を織り交ぜて好きなことができただろう。しかし、私とその人の能力の違いは、努力でなんとかなる範囲ではないように思えた。
その他には、自分の好きな分野の話ができないということも精神的につらかった。料理好きな人が、料理にかかわる職場で、周りを「『だし』って何?」と素で聞いてくるような人に囲まれているようなものだった。
ここで、別の話に移る。外からでもわかるような内容。
会社では、Google 日本語入力というものを出している。単語だけは死ぬほど入っているが、私が使った感覚では、使えば使うほど細かいところが気になるようなものだった。変なサジェストで気が散るなんていうのはいいほうで、間違えると予想もしないようなところで間違えたりもする。Twitter で Google日本語入力のことを「基本ができてないのに応用問題を解こうとする子供みたいだ」と評する人を目にしたが、まさにその通りだ。まあそれでも、単語が大量に入っているということは便利なこともあるだろう。特に、趣味や専門分野のある人などにとっては。基本的な変換も、昔よりはよくなったと思う。
そして最近、Google 日本語入力の Android版というものが出た。バイナリのサイズからもわかる通り、デスクトップ版よりはずっと小さなものだ。
Google 日本語入力 Android 版の評価は上々だ。だが私には、それがわからなかった。理由を挙げるのは差し障りがあるので挙げないが、自分には、それは IME として大切なところをおろそかにしているように感じた。少し使ったぐらいでは気づかないようなところで。
ここで少し、私の趣味の「外国語」の話をする。外国語学習には辞書が欠かせない。しかし、この辞書というものは、質が玉石混淆(ぎょくせきこんこう)、つまりピンキリなのだ。悪い辞書というのは、中途半端に目新しい語彙を入れている割に語彙の選択がいい加減で基本的な語彙に漏れがあったり、熟語の選択基準が不明確だったり、表記に不統一があったり、語釈(単語の意味に対する解説)に漏れがあったり、ひどいものになると 1ページに 1個ぐらい誤植があったりする。いい辞書というものは、そういうすべての点についてしっかりしている。
しかし、ある辞書がいいか悪いかということは、ぱっと見ではわからない。長い時間かけてじっくり使ってみてはじめて、そこに魂がこもっているかどうかわかるものだ。時間のある人は(めったにいないと思うが)、たとえば三省堂の「身につく仏和・和仏辞典」と、白水社の「パスポート仏和・和仏小辞典」を本屋で見比べてみてほしい。どちらがいい辞書なのか、フランス語の知識がないとさっぱりわからないと思う。しかし、知っている人がじっくり比べると、どちらがよくてどちらがダメなのかは明確だ。
言語というものは万単位の語彙があるので、人間がそれをうまく扱うことは難しい。いくらいい辞書にも、全体を通して見ると少しの間違いはある。それでも、いい辞書を見ていると、作り手の良心・誠実さが透けて見えてくるものだ。私自身も、できればそういう仕事がしたいと思っている。
Google 日本語入力の話に戻る。Android 版も、今後よくなるとは思う。いろいろな要因で。
元社員とかそういった立場を離れると、個人的には、みんなにもっといろいろな IME を試してほしいと思う。たとえば、ATOK も体験版を出している。Windows から Mac に移行して「ことえり」に絶望して、あわててまともな IME を探し始めたという人は、ATOK と Google 日本語入力を両方使ってみて、その上で「いい」と思えるものを使ってほしい。
(ちなみに、Mac版の ATOK を MS-IME風のキーバインドに設定するのは「キー・ローマ字カスタマイザ」から。さらに、環境設定から「表現」を「話し言葉関東」「話し言葉関西」などにしておくのも必須)
私自身、ソフトウェアに関しては非常に金離れが悪い人間なので(最近、清水の舞台から飛び降りる覚悟で VMWare Fusion 4 を買ったところ)大きなことは言えないが、一般的に、有料ソフトと無料ソフトがある時、公平に使い比べてみて有料のものに無料のものを上回るメリットがあれば使い、なければ使わないという態度が、ソフトウェアの発展のためにはいいと思う。
私は最近 ATOK Passport に加入したのだが、妻には「文字入力にお金を出すなんて」と笑われた。ATOK Passport というのは一ヶ月 300円だ。文字入力「ごとき」に、月 300円も払える自分がブルジョアなんだろうか?
無料ソフトを使うにしても、無料だからと好意的なことばかりを書くのではなく、じっくり使ってみた上で問題点があれば積極的に指摘したほうがいいと思う。「問題点を指摘する」と「けなす」というのは、似ているようで違う。世の中には、「無料で使わせてもらっているものにケチをつけるなんてよくない」という考え方の人もいるかもしれないが、無料だからこそ、問題点をフィードバックすることによって作り手に貢献できるんじゃないだろうか。
ある種のソフトウェアは、評価するのに長い時間がかかるものだ。人によって、評価の基準もいろいろ違うと思う。たとえば日本語入力で言えば、自分が IME というものを使っていることすら意識しなくなる空気のような存在を求めているのか、使い始めてすぐに面白サジェストが出てくるようなエンターテインメント的なソフトウェアを求めているのかなどによって、最適なものが違うだろう。日本語入力ソフトは毎日使うものなので、じっくり選ぶだけの労力に見合うものだと思う。
Google は、いろいろな意味で待遇はよかった。福利厚生・給料など、具体的な話はしないが、まあ申し分なかった。それで、「どうして辞めるのか」ということを、妻をはじめ、いろいろな人に聞かれた。
それは、本当につらかったからだ。たとえて言えば、猫好きな人が、猫を処分する職場で働くようなものだ。その人の立場で、「職場が福利厚生が充実していて給料がいいから我慢して働こう」という気分になるだろうか。
こういうたとえをすると、中の人は不快になるかもしれない。しかし、これは自分にとっては、切れたばかりの傷跡のような、生々しい感覚だ。こう感じるようになったことは不幸な巡り合わせだったと思うが、それはもう起こってしまったことだ。それを書くことは悪いことだとは思わない。書くことによって、誰かの何かの参考になるかもしれないと思う。Google にとっても、たとえば「社風に合わない人間を雇わないほうがいい」といった教訓になるかもしれない。
このエントリは、上で書いたように、主に Twitter で私のことをフォローしてくれているような人に向けたものだ。普段から、私が何を考えているかについて多少なりとも興味がある人。書いたらもちろん Twitter でつぶやく予定なので、その人たちにはすぐ伝わることは確実だが、その範囲を超えてどれだけ広まるかはわからない。
フォロワーだけで止まってくれるのが理想だ。会社に入って 1年 1か月の平エンジニアがある一つの会社を辞めたということは、フォロワーでもなければ面白くもないだろう。もしこのエントリがその範囲を超えて大きく広まることがあるとしたら、どこかで何かがおかしくなってるんじゃないかと思う。
Google は、ただの一つの会社だ。確かに、入るのは多少難しいかもしれない。しかし、Google より優れた人材を集めた小企業というのもいくつもある。一般にあまり知られていないだけで。もし「Google 辞めました」というタイトルがキャッチーに響くとしたら、Google というただの一企業に対するイメージが、異常なぐらいにふくれあがっているということじゃないだろうか。
Google は普通の会社だ。特別なのは、中の人たちのことを、外の人たちと中の人たちの一部が「(彼らは/自分たちは)特別だ」と考えているということだけだ。どちらにしても、そういう「特別だ」という感覚はないほうがいいと思う。自分たちのことを「特別だ」と思っていたら、他者から謙虚に物事を学ぶといったことはできないだろう。
今後の身の振り方としては、ダメ元で IME の会社を受けてみたい。どこか遠くの。Google での時間は、「いい IME とはどういうものか」ということを考えるきっかけにはなったと思う。
IME の会社がダメなら、以前勤めていた高電社という小さな会社に戻ろうかと思う。高電社は、パソコンの黎明期に多言語ワープロソフトを出して以来、翻訳ソフトや入力ソフトを出したりしているが、最近は左前だ。
そこが潰れたらどうするか。いざとなったら、中高の物理・化学・数学・英語の塾講師や家庭教師などで糊口をしのぐかもしれない。コンビニバイトでもいい。それに、いざという時に備えるという意味も兼ねて語学も勉強しているので、それを生かした仕事も考えられるかもしれない。
しがらみがないというのは自分の強みだ。結婚はしているが子供はいないし、年齢もまだ 37歳だ。なんとかなるだろう。
ただ、ソフトウェア業界での就職を考える前に、半年ぐらいは真の理想の仕事を探してみたい。以前、群ようこさんのエッセイで彼女が若いころにしていた仕事について読んで以来、「これこそ理想の仕事」と思い続けている。それは、「電話がめったに来ない電話番」。
すばらしい。本も読み放題、したくなったらプログラミングだってできるだろう。なんというユートピア! まあ、今の時代なかなかないとは思うけれど。しかし、この話を人にすると、みんなに「情けない」と言われる。まったく心外だ。
まあ、こういうキチガイっぽいこと(本気で思っているのだが)を書いておくと、「Google に適応できなかったと言っているやつはキチガイ→普通の人間なら Google はまったく問題ない職場」という理屈(論理ではないが)で、Google に対する誤解(ないとは思うが、万が一にも)を防げるかもしれない。
ところで、仕事を辞めて無収入になるので、「金くれ」というネット乞食サイトで乞食行為をしてみた。
http://kanekure.ssig33.com/takeda25
こちらにも書く。
三井住友銀行 六本木支店(619) 普通 7466722 マナベ ヒロシ
会社辞めたし、遊んで暮らせるお金がほしいです。みなさんもお金がほしいと思います。みなさんもここに書いたらいいと思います。くれたお金はもちろん返しません。芸もしません。
まあ、これ読んで金くれるような人からなら、金もらっても問題ないと思う。いればだけど。
(2012/09/10 追記)
続編っぽいものを書きました。