写真集『わたしが見ていたかもしれないもの』 by SIGMA fp
出雲大社で写真を撮った。
カメラは「SIGMA fp」、レンズは「Leica summicron-R50mm」だ。
「中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』を読んで写真表現について考える」という書評にて、写真とはあるがままの世界を撮るという矛盾した主観撮影とでもいうべき写真に憧れた。
しかし、そこに同じような撮影思想にもかかわらず、また違う視点から撮影行為を捉えた写真家の写真集を見た。
鈴木理策の「鈴木理策 熊野、雪、桜」だ。
ここには解説の鷲田清一が書いたように「わたしが見たものではなく、わたしが見ていたかもしれないもの」という写真が並んでいる。
あるがままの世界に主観を持ち込まない主観的撮影という矛盾に苦しんだ中平卓馬に嫉妬した鈴木理策は、あるがままの世界を見たときの「揺らぎ」を捉えようとした。
今回はそんな揺らぎを出雲大社にて、カメラの眼で撮ってきた。
※後半に『あるがままの世界』をどう撮るかについての考察を書いています。
写真集『わたしが見ていたかもしれないもの』
撮影思想としての『あるがままの世界/あるがままの知覚』
以上、写真集『わたしが見ていたかもしれないもの』でした。
鈴木理策の写真集を見て、「開放による浅いピント=意識の表現」を知り驚いた。
ピントとはまさしく撮影者の主観である「見たい/見せたいポイント」であり、そこに主観の表現という主観的行為が生まれる。
しかし普通の写真はこの主観表現が教科書的なデザインへと集積されており、そこに中平卓馬は「世界はこうであるという像の世界への逆投影」であると述べた。
作家個人の持つ像が全てに優先され、それを見る多数者の持つ同様な像に合致させることが全てであり、既成の図式や既成の観念を裏切らずに、それに照準を合わせて解説することが表現行為であった
『なぜ、植物図鑑か』より
よって中平卓馬は、世界を「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場所」と定義し、植物図鑑のように「全体に浸透された部分ではなく、部分は常に部分」としてあるがままに写すべきだと述べたわけだ。
しかし、中平卓馬は「主観的行為=撮影から、作家個人の持つイメージ(像)を否定する」という矛盾に苦しみ病に倒れてしまった。
鈴木理策の写真は、この中平卓馬の矛盾を「あるがままの世界を見た自分」という視点から脱構築したのではないかと思う。
なぜならあるがままの世界を完全に知覚することは不可能だからだ。
世界の存在は、それを知覚する人間の脳により存在が許される。そこにたしかにあるのだが、どうあるのかはわからない。人によって知覚された結果は違うし、それが犬や昆虫ともなれば全く変わるだろう。そもそも人間が本当の意味で世界を理解できている確証はない。
だからこそ、主観が存在し、表現が理解されるのだ。
そう考えると、あるがままの世界を知覚した瞬間を、あるがままに写真にするというのは、中平卓馬の理想に近いのではないか・・・という逆転の発想だ。
故に、鈴木理策の写真は、ピントが浅い、白飛び、ズレた構図のような写真が多い。
またピントも極端に前にあったり、合わせるべきでない場所にあったりする。
だが写真集になるとまた変わって見える。
極端に外した写真の合間に、超高画質(大判フィルム)の写真コンテストで発表するような作品もあるのだ。
だが、これをあるがままの世界のあるがままの知覚と考えると納得がいく。
例えば、森の小径を歩いていると小さな生き物や木の葉から漏れ出す光に「注目」することは多い。これが浅いピントであり、咄嗟に見ていたかもしれないからこそ白飛びや構図のズレが発生する。
だが大きな巨木や荘厳な滝を見た場合、人間の目は全景を捉えようとする。これがパンフォーカスであり、より高画質で見ようと試みるだろう。
鈴木理策の写真は、まさしく眼なのだ。
だからこそ、鷲田清一が解説に書いたように『わたしが見たものではなく、わたしが見ていたかもしれないもの』であり『わたしが見ていたかもしれないし見ていなかったのかもしれないもの』なのである。
鈴木理策が実際にそこに居たことは確実であり、そこで眼を動かして捉えたあるがままの世界を、自分があるがままに知覚した瞬間を、記録するのだ。
鈴木理策の写真は、鈴木理策が見た世界を見たように写真にするからこそ、『わたしが見ていたかもしれないもの』として共有し共感できるのだ。
それは同じ世界に生きている同じ人間だからであり、人間の習性として外界を視覚情報にして認識する瞬間を再表現しているからなのだ。
人間によって知覚するイメージや瞬間や嗜好は違うが、普遍的な世界=自然という場所で他者との差異を感じさせないありのままの知覚を表現することで、そこに自分も居たかのような錯覚=共感を生み出す。
このあるがままの世界の知覚を、あるがままに写真に昇華させるという試みには非常に感化された。膝にきた。
今回の写真は、僕があるがままの世界をあるがままに知覚した瞬間を撮影したのだ。
嫁と子供と出雲大社を散策し、そこで主観的に知覚しようとしたものを、できるだけあるがままに写してみた。
よくよく意識してみると、近くのものや目立つものを見る時はカメラでいう開放したボケた像として脳で処理されていた。
また家族、知らない人、子ども、老人、すべてにおいて見方が違うのだ。
自然の景色、苔、神社、杉と広葉樹、音や地面の硬さ、その全てが微妙に影響しつつ、見方/見え方が変わっている。
なるほど、これがあの写真を生んだのかもしれない。そう思いながら、パシャパシャと撮り続けた。
SIGMAfpとマニュアルレンズの組み合わせは、こうした撮影には最適だった。
軽量なので、撮影中のノイズが小さくなる。そしてマニュアルレンズはAF頼みな妥協ができず、mm単位でのピント合わせが可能だ。
Leicaレンズの写りは、そういった意味でまさしく「あるがままの知覚」だった。
summicronはシャープな写りながら、開放だと周辺光量落ちがあり、ボケが粘っこい。
だがこのレンズが写し出す画は、まさしく見た感覚に近いのだ。
Leicaってそんなことまで考えてるの?いや、多分違う。
今回は、鈴木理策の写真から得た知見から、自分で考察した撮影方法を試してみた。
本人から「全く違うけど」と言われるかもしれないが、この撮影は僕の理にかなっている。要するに楽しかったのだ。
開放で撮るというのは、あまり好きではなかった。なんかわざとらしいというか、演出掛かりすぎて、記録という意味での写真ではないと思っていた。
fpを買った理由でもあるが、この写真=記録であった僕が、フィルムカメラを買うことで表現にも興味が湧いてきたのだ。
そこで記録と表現を理解している人達が作ったSIGMA fpを買ったわけなのである。
要するに、今、僕は表現活動がしたいわけなのだ。アナログなフィルムカメラから教えてもらったのは皮肉であり、天啓でもあった。
表現とは芸術という意味ではなく、ここにあるあるがままの世界をあるがままに知覚したものを形にしたいという欲求なのだ。
これは現代社会の暗黙のルールに縛られた複雑系で生かされている現状への反発なのかもしれない。なんせ働くの大っ嫌いだからね!
というわけで、今回は写真集形式で大量に写真を挙げてみました。
最近はnoteばかりに作例を挙げていたので、今回は久しぶりにブログの方で。
よろしければ、色々実験的なことをしておりますので、noteもご覧くだされ。
最後に、中平卓馬について知りたい方はこちらへどうぞ。
写真撮れなくなるかもしれないくらい刺激的な本です。