SIGMAfpとLeicaレンズで撮る海~写真と記録と記憶
Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm
夏、海を撮りながら、スーザン・ソンタグを齧る。
スーザン・ソンタグの「写真論」がおもしろい。
言葉遊びと化した哲学でさえ何とか結末がありそうな書き方をしているが、芸術論はもはや答えなど無いと明言しておきながら壇上で感情的に演説をしているようだ。
スーザン・ソンタグは、写真論の中で「写真と記録と記憶」について書いている。
簡単に言えば、写真の登場で「人間の記憶が写真になった」ということである。
これは現代から見るともはや日常と化している光景だ。
友人と久しぶりの飲み会があればまず集合カンパイ写真を撮る。観光地に行けばじっくり眺める前にまず写真を撮る。家族の記念ごともまず写真、しかもそのためにわざわざ着飾っている。
そういえば、娘の誕生日でケーキのロウソクを吹き消す瞬間、嫁が動画撮影、僕が写真を撮っていた。
人間は記憶を写真で記録することで記憶としている。
なんせ人間の記憶力というのは怪しいものだ。写真や動画でバックアップを撮っておけば、あとで確認も共有も簡単にできる。
しかし、それがより簡単でより安価になると、バックアップがメインとなってしまったのだ。
人はたくさんの写真を繋ぎ合わせ、「自分」という記憶のストーリーを作り、そして自分が何たるかを知る。
知るのではなく、演出する。それは過去の時間を写真という作られた記録に押し込める行為だ。
写真の記録は正確かもしれないが、本当にそうであろうか?
FacebookやInstagramのタイムラインは、本当に現実のあなた?
写真は脳の記憶の外部デバイスとなった。
だが人間は自己を知るために記憶を利用する。
その写真の記憶は、大量に複製され、好きなものを選び、とりあえず記録したり、小型で簡易なもので、残そうと思わないものは記憶ではなくなる。
記憶するもの=写真を撮るべきもの
写真を撮ろうと思うその動機には、単純な記憶のバックアップから、自己イメージを演出するパーツ収集でもあり、記録すべきものという外部からの影響が浸透してくる隙間でもある。
この写真の波の泡は、記憶すべきものなのか?
それとも純粋な写真趣味の表現活動の一環なのか?
若しくは「この泡を撮る自分」に何か意味があるのか?
さもなければ無意識下に潜む広告の効用なのか?
ではこれをもし撮らなかったら?
写真=記録=記憶が全てではないが、写真がこれほどまでに自分に影響を与えていることを鑑みると、写真を撮るという行為の「当たり前」な感覚が恐ろしくもある。
写真の記憶は、もはや人間界で概念化しており、現代人の脳は適応を始めているのではないのだろうか。
今や写真は記憶を超え、簡単に共有できる情報にもなっている。
写真というメディアが生まれ、人間は変化し、適応したのだ。
写真は社会に溢れている。個人の行事的な記録から、新聞や週刊誌のショッキングな写真、広告のイメージ写真、選挙ポスター、説明書、啓発事業、災害の教訓、プロフィール画像、パスポート・・・
ふと何気なく撮った一枚には、単なる記録上の情報量を遥かに超える「見えない情報」が押し込まれている。
見えない情報は無意識であり、現実であり、時間的に死んでおり、現在を作っている構成部品であり、単なるゴミでさえあるのだ。
そう考えてみると、だからこそ写真は語ることができるのだと思う。
何気ない写真でも、感動や不安や共感やインスピレーションを無関係の他者に与えることができる。
それは表面上には現れない情報を無意識に感じ取り、反射的に脳内で何か反応が起こるからだ。
これこそが写真が単なる記録ではないといえる理由であり、だからこそ複製し共有されるのであり、結果として人間社会の中で寄生生物のように概念化しているのだ。
これからは、写真の記録の中の記憶を考えながら撮っていきたいと思った。
「なぜこの写真を撮ったのか?」が自分なりに理解できれば、情報の深部を暴露できれば、本当の意味での主体的な撮影ができると思うのだ。
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