卒寿小論 521 大友宗麟のトラウマ
友人に誘われて、10月の初めに大分県が進めている
「大友遺跡復元」の様子を見学に隣の大分市に出かけた。
鎌倉・室町時代に繁栄した大友氏の居館跡の広さに驚きながら見て回った。
復元は緒に就いたばかりという感じであったが、
居館跡の庭園はかなり整備されていて当時の姿を連想することができた。
戦国時代の大名館の中では最大規模の池を有し、
一年を通して花の絶えることなく鑑賞できるように
「花暦」まで作った庭園にバランスよく植えられている。
数度の改修を繰り返しながら、21代当主宗麟と
22代当主義統(よしむね)の時代に完成した庭園である。
女郎花・桔梗・山茶花の花が庭園のあちこちに花を咲かせていた。
花を観賞しながら、ふと私は大友宗麟のうわべだけしか見ていなかったのではないかと、
目に見える記録に残る部分しか見ていなかったような気がする。
少年時の宗麟代は「病弱で乱暴な性格」で、父から疎まれていた。
そして大友館から排除され別府分館に幽閉された青年時代。
宗麟は「私は父に殺される」という不安、そして家臣団による謀反で、
父義鑑(よしあき)派と宗麟派の対立。宗麟派の家臣団による父義鑑と
母(継側室)とその子塩市丸は殺害される。
その時宗麟は、「私が父を殺したも同然」と思っていたようである。
実母のことは全く知らず、父と継母と腹違いの弟を
「私の性で死なせてしまった」
という体験が、宗麟のトラウマとなって生涯付きまとう。
そのことに気づくと、彼の異様な行動も理解できる。
宗麟の子煩悩、側室に対する絶対的な優しさ、家臣の側室までも奪うこと、
禅宗・神道・キリスト教への変化。と普通に考えれば理解しにくいことが、
宗麟のトラウマとしての行動として観れば納得できる。
もう少し丁寧に宗麟の内的心情を読み取りながら、宗麟の生き方を見直してみよう。