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    カテゴリ:科学 > 歴史


    16世紀のヨーロッパは、科学と宗教が激しく対立していた時代でもあります。この時期に観測された謎の天体現象は、当時の人々に何をもたらしたのでしょうか。恐れや神の意志の解釈、あるいは新しい科学的探求の契機となったのかもしれません。そのような歴史的背景を踏まえながら、天体現象がどれほどの影響を与えたのかを考察することは、非常に興味深いのではないでしょうか。

    16世紀のヨーロッパで、不可解な天文現象が相次いで記録された。

    1554年、神聖ローマ帝国領だったフランス・ストラスブールでは、血のように赤い光線が太陽を裂き、騎馬隊が空で激突する光景が目撃された。

     さらに1561年、同じくローマ帝国領だったドイツニュルンベルクの空には無数の球体が現れ、1時間以上も飛び交いながら衝突を繰り返したという。

     これらの事件は当時のローマが出版した新聞に木版画つきで報道され、「終末の兆し」や「神の警告」と恐れられた。

     いったい、これらの現象は何だったのか?当時の資料をもとに、その謎を探る。

    関連記事:圧倒的強さを誇ったローマ帝国がどうしても征服できなかった8つの場所

    関連記事:謎めいた古代ローマの「中空十二面体」の破片がベルギーで発見される。魔術儀式に使用か?

    謎の天空現象を次々に報じたローマ帝国の新聞

     神聖ローマ帝国の新聞はあらゆる種類の不思議な現象を木版画つきで報道した。「太陽、月、星の異常、空から石や火が落ちてくる、虹、奇跡的な誕生、血の雨」等々。説明のつかない出来事があまりに頻繁に起こったため、wunderzeichen(ワンダーサイン:不思議な兆候)と言われた。

     1550~1559年の間だけでも400以上の大判の新聞や小冊子が発行され、新聞や論文だけでなく、個人の日記や書簡などあらゆる文献にこうした不思議な出来事が記録された。

     当時の多くの読者は、こうした報告記事や挿絵を目にするのは世界の終わりが近いことの兆しだと受けとった。

    1561年3月2 日の新聞で報じられたニュルンベルク上空の挿絵。この新聞は、最後の審判の日を念頭に神のしるしを真剣に受け止めるべきであり、それが地上での人生の悔い改めにつながると主張している。パブリックドメイン

    関連記事:東ローマ帝国のローマの硬貨に刻まれていた星は、1054年の超新星爆発である可能性

    終末思想と宗教改革が不安をあおった

     終末思想は目新しいことではないが、宗教改革のこの時期にこの思想は新たな勢いを増した。

     ロビン・ブルース・バーンズは、「1560年までには、異常なことへの聖職者の関心は強迫観念以外のなにものでもなくなった」と書いている。

     聖書の新たな翻訳は、とくに黙示録を劇的な言葉で表し、一方でルターや彼の信奉者たちは信者たちに天を見て未来を占うよう促した。

    私たちは、太陽が暗くなり、月や星が落ち、人々が苦しみ、すべての風や水が騒ぐのを見た

    この4年間で、太陽、月、星、虹、奇怪な幻影など、天空でどれほど異常な兆候を見たことだろう?(ルター) 

    関連記事:日本書紀に記述された飛鳥時代の天文記録「赤気」の正体は扇型のオーロラである可能性(国立極地研究所)

     民間の迷信とは違い、最後の審判の前触れとしての「不思議な兆候」信仰は終末論で満ち溢れていた。

     ルターの神学を体系化したフィリップ・メランヒトン(1497~1560)は空に描かれたこうした光景を神からのメッセージとみなした。

    こうした兆候を考慮しなくてもいいというなら、どうして空にこのような不思議な現象が現れるのだろう?

    神の摂理がこうしたマークを空に刻んだのは、国家にとっての大変動を告げるためなのだ。それをきちんと観察しないとは不敬極まりない。

    日食、合[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88_(%E5%A4%A9%E6%96%87)]、流星、彗星などは、大きな災厄と変化をもたらして人々の生活を脅かす。これが神のお告げでないのなら、いったいなんだというのだろう?(メランヒトン)

    1540年頃、11月26日と27日にヴォルムス近郊で観測されたふたつの天体現象。右側はおそらく彗星。

    なぜ人々は空の異変を信じたのか?

    関連記事:16世紀のドイツで集団目撃されたUFOの空中交戦「ニュルンベルク上空の天文現象」

     予言の意味が込められた天体への関心は、麦角中毒(北ヨーロッパの多くで穀物に蔓延した真菌感染症)のせいで刺激されたと言う者もいる。

     この作物を摂取すると、錯乱し、火の幻覚をみたり、宗教を妄信したりした。そうした人々にとって、空は天文学的な驚異で輝いて見え、神がかったものに感じられたという説だ。

     だが当時は極めて冷静な当時の人にとっても、その時期空で起きた一連の天文現象は、そう解釈するのに十分な出来事だった。地平線を横切る血の筋のようなオーロラ、太陽の暈、幻日、光柱を頻繁に目にすれば、なにがしかの神秘性を感じずにはいられなかっただろう。

     1556年の大彗星は、英国から中国にわたる広範囲で目撃され、人々に畏敬の念を抱かせた。

     そして、それぞれの流れ星宗教改革の物語をさらに展開させた。

     この年の5月に発行されたニュルンベルクの新聞は、地震で被害を受けたコンスタンティノープルのアヤソフィアについてふれている。

    1556年にロザンナとコンスタンティノープルで起きたふたつの地震の驚異は、彗星によって予言された最後の審判の前兆として解釈されている。アヤ・ソフィアの被害に注目。

     この災害が彗星の出現と共に起こったことに人々はとくに驚かなかった。

     当時の記事には、イスラム教徒とキリスト教の区別もまるで無視して「ローマ帝国の反キリストだと決めつけられている教皇庁もまた、神の警告を受けるだろう」と書かれている。

     ヴィクトリア朝時代に写真技術が出現すると幽霊と遭遇したという話が急増したのと同じように、メディアのテクノロジーもまた16世紀のこうした幻影を広めるのにひと役かった。

    血の雨を降らせる天体出現の様子を伝える絵に下半身の一部が欠けた鷲の紋章の絵が添えられている。1550年8月11日にニュルベルク近くで天体の出現が報告されたことから、皇帝カール5世の政治的・軍事的圧力からプロテスタントがどのように自衛できるかについての政治的な予言をしている。

    天文と戦いを掛け合わせたコンテンツは当時人気だった

     下の画像のほとんどは、タイトル、木版画、どんな不思議な出来事だったのかの説明つきの大判の新聞「アインブラットドリュック」から抜粋したものだ。

     こうした出版物はすぐに作れて、広く配布することができ、安価に購入することができた。ニュースや時事問題はかつてないほどのスピードで印刷され広まった。

     そのため、ジャンルは急速に進化し、混合していった。1520年代始めには、生々しい戦絵巻がとくに人気を博した。

     また、天文歴は神聖ローマ帝国でもっとも広く売れた俗語テキストの一部だった。

    「異様な顔が太陽となって現れた」1556年5月12日ニュルンベルク上空で太陽のまわりに光輪が出現したことの報告。これは神から人類への警告だと解釈された。

     星と星の間の戦いが空に現れ始め、これらふたつの異なるジャンルが融合したのは、意外なことだろうか?

     歴史家のアビー・ヴァールブルク氏は、宗教改革のまっただ中で、一見、新しい形である異教がなぜ栄えたのかと不思議に思ったが、次のように結論づけた。

    「天体の神々は、アウグスブルク、ニュルンベルク、ライプツィッヒの新しい印刷所のおかげで、言葉と挿絵で遍歴するルネサンスを享受したのだ」

     17世紀には、天体現象の観察は徐々に減少していった。天が予言した破滅が30年戦争という形でついに地上に到来したのだ。

    1554年、サロン・ド・プロヴァンスの王室総督に当てた手紙の中の、夜間に現れた天体についての報告。この天体の出現は、さまざまな災害の前兆と解釈されている。
    1554年7月24日の夜、オーバープファルツのケムナート近くにあるヴァルデック城上空で発生したオーロラ現象についての報告。第2次辺境伯戦争の文脈。
    1551年3月21日、エルベ川上空に日暈つまりふたつ目の太陽の幻影が現れた。下にはヴィッテンベルクの町が見える。
    1557年にウィーンとその郊外にある聖マルクス病院の上空で観測されたオーロラと二次太陽現象。
    1558年、エアランゲン近くのロナーシュタットの空に現れた不吉な幻影。この気象現象はヨハネの黙示録12章の終末の兆しとして、ここに登場するドラゴンに関連している。
    1560年12月28日ニュルンベルク上空で観測されたオーロラ現象。この自然現象を神からの警告として解釈している。
    1561年2月27日マンスフェルトとアイスレーベンの間で見られた恐ろしい天体現象。煙のあがる柱はキリスト教徒を脅かすロシア人とトルコ人を表し、棒の束は戦争、流血、疫病の兆候だと解釈されている。
    1561年4月14 日、ニュルンベルク上空に現れた天体の出現。
    564年2月19日ライプツィヒ上空で観測された天体現象。おそらくオーロラ最後の審判の神学的前兆と解釈されている。
    1564年3月1日、メヘーレンとブリュッセルの間で起こった「恐ろしい幻と超自然的な兆候」。悔い改めることを促す神の警告という解釈。
    1564年12月18日、シュヴァーブミュンヘン近くで部分的な日暈が観測されたと思われる。
    1580年、ニュルンベルクで見られた太陽の周りを回る球体と虹。聖職者政権の交代の兆しと解釈される。
    1580年8月16日プラハ近郊のオールドクニン村付近の空で観測された奇跡のしるし。「ボヘミア王冠の聖母被昇天」にならったもの。
    1580年9月10日、アウグスブルクで見られたオーロラ。「偉大で衝撃的な奇跡」と呼ばれた。

    References: Signs and Wonders: Celestial Phenomena in 16th-Century Germany — The Public Domain Review[https://publicdomainreview.org/collection/celestial-phenomena-16th-century-germany/]

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    (出典 news.nicovideo.jp)

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    この記事は、7000年前の半島古代人が縄文人であった可能性について考察しています。縄文文化の特異性や地域性の違いについての理解が深まると共に、歴史を探ることの面白さを再認識しました。

    1 樽悶 ★ :2024/10/14(月) 23:59:37.13 ID:X26T+SI49
    金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)

    2年前の記事「現代日本人は縄文人の直系の子孫なのか?」では、約7000年前に縄文人が海を渡り、当時は無人だった朝鮮半島に上陸し、そのまま定住したという大胆な仮説を提示しました。
    https://agora-web.jp/archives/221019113518.html

    この一見奇抜なストーリーは、2022年以降になると、韓国人研究者も含めた多くの研究によって実証されつつあります。

    一例として、2023年に発表された韓国人による論文では、東日本の縄文人が西日本に移動し、さらにその後、朝鮮半島南岸や宮古諸島に移動したという可能性が示されているのです(図1)。

    (出典 agora-web.jp)


    ■朝鮮半島は7000年前まで無人だった

    (省略)

    ■朝鮮半島古代人のDNAは縄文人と同じだった

    こうなると、出現した朝鮮半島古代人はどのようなDNAを持っていたのかが知りたくなります。これに関しては、既にいくつかの研究が公開されており、それらをまとめた結果が、2021年のNatureに論文として掲載されています。

    図4は、この論文に掲載された主成分分析によるゲノム解析の結果で、物理的な距離が近いほどDNAが似ていることを示しています。見たとおり、朝鮮半島南部古代人(十字の星形)は、すべて赤点線内にあり、現代韓国人(黄色)よりは、現代日本人・現代沖縄人(灰色)や縄文人・弥生人(五角形)に似ているケースが大半であることが分かります。

    (出典 agora-web.jp)


    なお、分析の対象となった人骨が出土した場所は次のとおりです(図5)。

    (出典 agora-web.jp)


    以上のことを整理すると、

    1. 約2万年前に氷河期が終了し、それまでの朝鮮半島の住民は北に移動したため、約7000年前までほぼ無人となった
    2. その後の朝鮮半島では、約7000年前から人口が急増したが、場所はすべて日本寄りの海岸だった
    3. 出土した人骨を分析したところ、朝鮮半島古代人の多くは縄文人とほぼ同じDNAを持っていた

    となります。

    よって、素直に考えると、約7000年前に縄文人が海を渡り、当時無人だった朝鮮半島に上陸し、そのまま定住したという結論が得られます。とはいうものの、相当に意外と感じる人が大部分でしょう。

    では、なぜ縄文人は約7000年前に海を渡ったのか。

    (省略)

    ■「渡来人」は存在しなかった可能性が高い

    日本人の成立については、従来の定説「二重構造説」によれば、朝鮮半島の渡来人が水田稲作などの先進技術を携えて日本列島に到来し、縄文人と混血して弥生人になり、現代日本人に続いているとされます。

    この説が正しいとすると、これまで説明した事実との整合性から……

    1. 約7300年前の鬼界カルデラ大噴火の直後、無人だった朝鮮半島の日本寄りの沿岸(だけ)に、「突如」として「縄文人」のDNAを持った人間が出現した
    2. この出現の直後、ほぼ同時に出現した対馬の縄文人と交流し、現地で「隆起文土器」を製作した(あるいは作り方を教えた)
    3. それだけではなく、日本産の黒曜石を入手して朝鮮半島に持ち帰った

    という極めて不自然な仮定をしなければなりません。

    そもそも、「突如」として出現した朝鮮半島古代人が、日本列島の地理や特産品に詳しいはずがありません。前述のように、対馬では約7200年前の越高遺跡が最古とされているため、1と2はほぼ同時期の出来事ということになります。もちろん、こんなことが絶対にないとは言い切れませんが、極めて非現実的というしかないでしょう。

    それなら……

    1. 鬼界カルデラの大噴火直後、北部九州の縄文人が難を逃れて、当時は無人だった対馬、そして朝鮮半島に渡って定住した
    2. 朝鮮半島には、対馬の隆起文土器と日本産の黒曜石を持って行った

    と考えた方がはるかに自然です。

    つまり、朝鮮半島古代人は縄文人であり、仮に「渡来人」が日本に来ていたとしても、それは縄文人の末裔ということになります。

    あまりにも奇抜な仮説なので、簡単には信じられないかもしれません。しかし、今まで述べたことは、現時点で判明している多くの事実を矛盾なく説明できる、最も可能性の高いシナリオの1つではないでしょうか。

    2024.10.09 06:50
    https://agora-web.jp/archives/241008082824.html

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    ナスカの地上絵は儀礼活動に使われた… 山形大学がAI使い新たに303件の地上絵発見 タイプは2種類
    …山形大学は24日、ナスカの地上絵の目的が儀礼活動に使われたことが明らかになったと記者会見で発表しました。AIを活用し始めたおととし以降、新たに303…
    (出典:YBC山形放送)


    ナスカの地上絵の新たな発見に心躍ります。山形大学がAIを駆使して303件もの地上絵を発見したというニュースは、古代文明の秘密が少しずつ解き明かされている証ですね。儀礼活動との関係が明らかになることで、ナスカ文化の深さがさらに感じられます。

    1 牛乳トースト ★ :2024/09/24(火) 16:21:08.84 ID:ahD8ergz9
    ナスカの地上絵は儀礼活動に使われたー。山形大学は24日、地上絵が描かれた目的が明らかになったと記者会見で発表しました。さらに、AIを活用し始めたおととし以降、新たに303件の地上絵が見つかったことも分かりました。

    山形大学によりますと山形大学ナスカ研究所とIBM研究所の共同プロジェクトは、AIを活用しペルー・ナスカ台地の調査を行ったところ、おととし9月から去年2月までの6か月間で人やラクダ科の家畜など新たに303件の地上絵を発見しました。
    詳しく調べた結果、地上絵には巨大で線状に描かれたものと小型で面的に描かれた主に2種類のタイプがあることが分かりました。
    巨大で線状の地上絵は主に野生動物が描かれており、直線や台形によって構成された神聖な場所に向かう巡礼路周辺に描かれていました。複数の集落による共同体レベルの儀礼活動に利用されたと考えられています。
    小型で面的な地上絵は人間や人間の頭、家畜が多く個人や小規模な集団の儀礼活動に関連しているということです。また、山形大学ナスカ研究所はプロジェクト成果の論文が、アメリカの総合科学誌「米国科学アカデミー紀要」に掲載されることを発表しました。

    2024/09/24 11:22 YBC山形放送 https://news.ntv.co.jp/n/ybc/category/society/ybf70e226685cd4bb0a0def30c6cf0a567

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    すごい発見ですね!古代の人々が彗星の衝突を記録していたとは驚きです。

    トルコ南部に佇む「ギョベクリ・テペ」は、今から約1万2000年前に建てられた非常に古い遺跡です。

    英エディンバラ大学(The University of Edinburgh)の研究者は最近、ギョベクリ・テペの石柱の中に”世界最古のカレンダー”と見られる彫刻を発見したと発表しました。

    さらに別の石柱には、約1万3000年前の彗星の衝突も記録していた可能性があるとのことです。

    この彗星衝突は「ヤンガードリアス」という地球規模の寒冷化を引き起こした要因とも考えられています。

    研究の詳細は2024年7月24日付で学術誌『Time and Mind』に掲載されています。

    目次

    • ギョベクリ・テペに「世界最古のカレンダー」を発見か
    • 1万3000年前の「彗星衝突」が刻まれていた?

    ギョベクリ・テペに「世界最古のカレンダー」を発見か

    ギョベクリ・テペは直径およそ300メートルに及ぶ広さで、そこには200本以上の石柱が円を描くように建造されています。

    これまでの研究によると、ギョベクリ・テペは紀元前8200〜1万年前の期間に建てられたことがわかっています。

    それらは高度な文明が約1万2000年以上前の時点ですでに存在したことを物語っていますが、ギョベクリ・テペ自体は何の目的で建てられ、どのように利用されていたのか、明確にはわかっていません。

    そんな中、研究チームは最近、ギョベクリ・テペの少なくとも一部の石柱は「暦」「天体現象」の記録として使われていた可能性を発見しました。

    ギョベクリ・テペ
    ギョベクリ・テペ / Credit: ja.wikipedia

    チームは以前の研究で、ヴァルチャーストーン(Vulture Stone=ハゲタカ石)と呼ばれる石柱に星座の図形が描かれている可能性があることを報告しています。

    研究主任のマーティン・スウェットマン(Martin Sweatman)氏は今回、さらに一歩踏み込んだ分析を行い、ヴァルチャーストーンに”世界最古のカレンダー”が彫刻されていることを見出しました。

    同氏は徹底的な分析をもとにその理由を述べています(イメージしやすいように下図をご参照ください)。

    氏は石柱に刻まれている数多くの「V字」を数えて、その1つ1つが1日を表していると捉えました。

    またV字が29個か30個ほど描かれており、それが1まとまりで1カ月を示している痕跡が見られたという。

    ヴァルチャーストーンに描きこまれた暦の説明図
    ヴァルチャーストーンに描きこまれた暦の説明図 / Credit: Martin B. Sweatman., Time and Mind(2024)

    その下の列で11カ月をプラスして計354日(太陰暦は29.5日×12カ月で354日)を数え、さらにその下には1太陽年(365日)に帳尻を合わせるように、10日間を足して364日とした記録がありました。

    加えて、ハゲタカの彫刻の首辺りにV字が1つ描きこまれており、スウェットマン氏はこれが「夏至」を表していると指摘。

    この1日を足して、合計が365日となるような暦となっていると説明しました。

    氏の説明が正しければ、これは月の満ち欠けに基づいた354日周期の「太陰暦」と、地球が太陽を1周して365日とする「太陽暦」の両方を考慮した”世界最古のカレンダー”となります。

    しかしスウェットマン氏は、さらに驚くべき発見が別の場所にあったと話しました。

    それによると、約1万3000年前に地球に衝突した彗星が描かれていたというのです。

    1万3000年前の「彗星衝突」が刻まれていた?

    同氏がギョベクリ・テペにある別の石柱を調べていたところ、「おうし座流星群」を描いた可能性が高い彫刻が見つかったというのです。

    おうし座流星群は約1万3000年前(おおよそ紀元前1万850年前とされる)に始まった「ヤンガードリアス」という寒冷化の原因の一つとされるものです。

    彗星はガスや塵などを放出しながら太陽の周りを周回する天体です。そのため彗星の軌跡にはその断片が数多く残っています。そんな彗星の軌跡と地球の軌道が重なると、彗星の断片が地球の大気圏で次々に燃えて流星群という現象を起こします。

    ヤンガードリアスについては、おうし座流星群を発生させる原因天体であるエンケ彗星の大きな断片が地球に落下し、これが空中爆発を起こした際に各地で火災や膨大な塵を上空に広げ、地球規模の寒冷化を引き起こしたという説があります。

    この影響でアメリカ大陸に生息していたサーベルタイガーやマストドンと言った大型動物が絶滅したとされており、人類のライフスタイルが狩猟採集から農耕牧畜に変化するきっかけにもなったとも言われています。

    ヤンガードリアスを引き起こす原因とな彗星衝突を描いたイメージ図
    ヤンガードリアスを引き起こす原因とな彗星衝突を描いたイメージ図 / Credit: UC SANTA BARBARA(2020)

    ただヤンガードリアスの原因は未だ明確ではなく、彗星衝突(おうし座流星群原因説)はあくまでこれを説明する説の1つです。

    ヤンガードリアスが彗星衝突によって起こったことを支持する証拠としては、北米を中心とする当時の年代の地層から特殊なナノダイヤモンドや溶融ガラスが見つかっていることが挙げられます。

    これらはかなりの高温・高圧の条件下でしか形成されないため、彗星衝突で作られた可能性が高いのです。

    その一方で、彗星衝突の説を否定する研究者も多く、火山活動や気候システムの自然な変動からヤンガードリアスが起こったとする意見もあり、議論はいまだに続いています。

    しかし今回、ギョベクリ・テペに見つかった彫刻が本当に「おうし座流星群」を示すものであれば、ヤンガードリアスが彗星衝突で起こったとする説を補強するものとなるでしょう。

    調査中のギョベクリ・テペ
    調査中のギョベクリ・テペ / Credit: Martin B. Sweatman., Time and Mind(2024)

    ただギョベクリ・テペの彫刻は、実際にヤンガードリアスが始まった時期から1000年ほど後の時代になります。

    もしかしたら、当時の人々が祖先から長く言い伝えられてきた「彗星衝突」の出来事を忘れないために石柱に刻んだのかもしれません。

    ヤンガードリアスは人々の生活スタイルをガラリと変革させた重大な出来事でしたから、その原因となった彗星衝突イベントを人々の記憶に刻むためにも、彫刻として残すことは理にかなっているでしょう。

    スウェットマン氏の主張が正しいかどうかは定かありませんが、ギョベクリ・テペの住人たちが高度な知恵と観察力を持っていたことは確かなはずです。

    全ての画像を見る

    参考文献

    Ancient carvings may be world’s oldest calendar
    https://www.ed.ac.uk/news/2024/ancient-carvings-may-be-world-s-oldest-calendar

    Carvings in Ancient Temple of Göbekli Tepe Could Be Earth’s Oldest Calendar
    https://www.sciencealert.com/carvings-in-ancient-temple-of-gbekli-tepe-could-be-earths-oldest-calendar

    元論文

    Representations of calendars and time at Göbekli Tepe and Karahan Tepe support an astronomical interpretation of their symbolism
    https://doi.org/10.1080/1751696X.2024.2373876

    ライター

    大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。

    編集者

    ナゾロジー 編集部

    古代の彗星衝突が記録された「世界最古のカレンダー」を発見!


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    19世紀の難破船からこんな価値ある品が見つかるなんて、歴史的な発見ですね。きっと今後、このシャンパンの話題で盛り上がること間違いなし!

    カラパイアの元の記事はこちらからご覧ください

    image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

     スウェーデン沖のバルト海で発見された19世紀の沈没船に、未開封の高級シャンパンミネラルウォーターなど飲料ボトルが100本以上が積載されていたことがわかった。

     この船は、ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位1855~1881年)の宮廷へ向かう途中で難破した可能性があるという。

    【画像】 難破船には未開封の木箱に入ったボトルがぎっしり

     難破船を発見したのは、ポーランドダイビンググループ「バルティックテック」だ。発見地点はバルト海に浮かぶスウェーデン領エーランド島の南37kmの海域だ。

     沈没船探査のために現場の海底を数年にわたり調査していたダイバーチームだが、この船を見つけたのは偶然だったという。チームリーダーのトマシュ・スタフラ氏によると、彼らが2024年7月11日にほとんど目立たない船の残骸がソナーで発見された時、漁船だと思ったという。

     「船には木箱に入ったボトルがぎっしり積まれていました」とスタチュラ氏は語る。

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    これらのボトルは1850年から1867年の間に製造されたという / image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

    [もっと知りたい!→]1717年に沈没した難破船から海賊の骨が発見される。キャプテン・ベラミーの発見に繋がる可能性も

    ミネラルウォーターのボトルに歴史的意義

     大量のシャンパンの発見は話題になるだろうが、実は今回の場合、ミネラルウォーターのほうが歴史的意義が高く重要な意味をもつという。

     19世紀当時、ミネラルウォーターは治療効果が高いとされ、ヨーロッパの富裕層や有名人の間で流行の飲み物だったのだ。運搬には護衛がつくほど貴重なものだったようだ。

     ミネラルウォーターは密封された陶製のボトルに入っていて、この船の歴史について重要な手がかりをもたらしてくれる。

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    発見された未開封の大量のボトル / image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

     封印の形状から、これらボトルは1850~1867年の間にドイツの企業セルターズによって製造されたことが判明した。この会社はフランクフルト北部にあるタウナス山脈の天然水で有名だ。

    「陶製のボトルに刻印されたブランド名から、ドイツのセルターズ社製のものであることがわかりました。現在でも製造されていて、ロゴもまさに同じものです」

     さらに、沈没船に積まれていた陶製ボトルは現在でも存在する工場で作られていて、さらに詳しい情報を得るために同社と連絡をとっている。

    [もっと知りたい!→]170年前に沈んだ難破船から引き上げた海底熟成シャンパン、そのお味は?

     現在スウェーデン当局にこの件を通報し、水中考古学者らとさらなる調査プロジェクトに取り組もうとしているが、行政上の制限があり、回収には時間がかかりそうだ。

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    難破船を調査するダイバーたち / image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

    年代物のシャンパンはうまいのか?

     これらのシャンパンは未開封だったために、まだ飲める可能性がある。はたしておいしいのか?

     19~20世紀始めにかけての沈没船からこうした酒類が見つかった例はほかにもある。

     かつて、フィンランドのオーランド諸島近くで168本のシャンパンを積んだまま1852年に沈没した船が発見された。関係者たちが170年前のシャンパンを試飲したが、そのお味は「獣じみたテイスト」、「濡れた髪みたい」、「安っぽい味」と、あまりそそられる味ではなかったようだ。

     かの有名なタイタニック号にも、もちろんシャンパンのボトルの残骸はあったが、水深3800mのものすごい水圧にもかかわらず、ボトルは破裂することなくそのまま無傷で残っていたそうだ。

     シャンパンのボトル内の圧力はかなり高く、なんらかの作用で海水圧とこの圧力が同じになり、爆縮が起こらなかったのではないかと言われている。

    References:Diving Conference Baltictech / Shipwreck Loaded With 100 Bottles Of Champagne Found In Baltic Sea | IFLScience / written by konohazuku / edited by / parumo

     
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    19世紀の難破船から未開封のシャンパンなどが100本以上発見される


    (出典 news.nicovideo.jp)

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