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フジヰ画廊閉店《さて弊社は創業以来皆様より格別なご厚情を賜り存続してまいりましたが諸般の事情により令和二年四月三十日をもちまして閉店致しました》 という葉書が封書で届いた。差出人は《株式会社フジヰ画廊/代表取締役 永松正継/藤井龍一》である。コトバンクには創業者の藤井一雄が立項されているので引用しておく。 《藤井 一雄(読み)フジイ カズオ 生年大正13(1924)年6月15日 没年平成13(2001)年3月26日 出生地富山県 学歴〔年〕早稲田大学文学部〔昭和23年〕卒 経歴 喜多信を経て、昭和25年独立、上野に藤井美術店を開設。35年銀座にフジヰ画廊を開設、38年株式に改組し社長、のち会長に就任。この間、62年〜平成3年東京美術倶楽部社長を兼任。また東京美術商協同組合理事長、全洋画連会長、五都美術商連合会会長などを歴任。昭和55年暮れ、ロンドンの競売市場サザビーズでルノワールの「水浴する女」を約2億8千万円で落札し、話題となった。平成5年11月東京地検特捜部に脱税容疑で逮捕。著書に国際絵画市場の仕組みを浮き彫りにした「国際絵画市場」や「オークション物語」がある。》 小生も画家の端くれとして、ニヤミスというか、多少の関係があったのを思い出す。一九八〇年代の前半にフジヰ画廊のある社員さんが京都まで訪ねて来たことがあった。五年間ほど初めて京都に住んだときだった(その後九年間神戸に住む)。まだ二十代だった。東京で合同展か何かに出品した作品を見てだったか、きっかけは忘れたが、画商さんが訪ねてくるということは初めてではなかったにしても、フジヰ画廊はビッグネームだったのでちょっと驚いた。ちょうどフジヰ画廊モダンという現代美術も扱う店が本店(当時は銀座六丁目)の近くに出来た頃か、できる少し前だったかと思う。上京した機会にそのモダンの担当になっていた先の社員氏と会った記憶がある。何度目かの絵画ブームに突入しそうなイケイケの時代、いかにも羽振りが良さそうだった。どうも小生などお呼びじゃない雰囲気だったのを覚えている。実際、すぐバブル期に突入して、それっきり何の連絡もなかった。 それからおよそ二十年ほど経った頃、フジヰ画廊の番頭(画商界では番頭、丁稚が通用する)Kさんが「個展をやりませんか」と声をかけてくれた。Kさんとは、別の画商の知人を通して、それ以前に何度か会って顔見知りだった。六丁目と外堀通りの角のそんなに広くない店で、一階でやっている個展を見るために入ったことはあったと思うが、そのときはKさんが地下へ案内してくれた。地下の展示室(商談室?)には名品がズラリ。はっきり覚えているのは鳥海青児の「ブラインドを降ろす男」、この絵欲しいなあと思ったものだった。Kさんは画商とは思えないさっぱりした好人物、しかも読書家で趣味人だったので、ちょっと気持ちは引かれたが、もうすでに大人になっていた(ひねていた?)小生はフジヰ画廊で個展というのには全く魅力を感じなかった。Kさんが独立したら(Kさんは普通の番頭が独立する年齢をかなり過ぎても勤めつづけており、近々独立するようなことを言っていた)、Kさんのところでやらせてもらいますと答えた。その約束通り、たぶん二、三年後だったと思うが、二〇〇六年にKさんの画廊での個展が実現したのだった。われながらいい展示だったと思う。 そういう意味で、縁が全くなかったわけではないので、閉店というのは意外だった(葉書が届いたのも意外だったが、たぶん「創と造」展の出品者には全員出したのだろう)。近頃は、画商さんとのおつきあいもほとんどないし、まして銀座へ行くこともない(銀座が画廊街だったことも昔の話になってしまったか)。先年たまたま銀座に泊まったときには中松商店しかのぞかなかったのだから不案内もいいところ。その「創と造」(昔の五都美術展)も終了したし、美術界も構造変化が顕著になってきたのかもしれない。
by sumus2013
| 2020-07-30 21:14
| 画家=林哲夫
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Comments(2)
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