咳をしても一人 : daily-sumus2
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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


咳をしても一人

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見目誠『呪われた詩人 尾崎放哉』(春秋社、一九九六年四月七日)を頂戴した。放哉をフランス語に訳した苦心談が面白い。放哉の百句を選び、ブルトン人のアラン・ケルヴェルン(Alain Kervern)と共同で仏訳し『Portrait d'un moineau à une patte』(一本足の雀の肖像)として一九九一年に出版した。本書では《今年増補改訂版を出す予定である》となっているが、今、検索してみるとレンヌの版元フォル・アヴォワンヌ(Folle avoine)から二〇〇三年に出た本が見つかった。

それにしても、やはり、俳句を外国語に翻訳するというのは容易でないようだ。

《放哉俳句についてさんざんくり返した文句だが、イメージが即物的なのは、放哉自身にとって幸いなのはもちろん、筆者にとっても大いに助かったというのが、正直なところである。要するにほとんど直訳するだけでよいのである。ただこの直訳するだけというのが、とくに手がけはじめたころには案外実行できないのである。わかってもらいたい一心で、どうしてもだらだらとした説明訳になってしまうのである。出発点としては当然、散文調で意味をしっかり押さえることからはじめねばならないが、そのうえでいかにそれを脱するかが大きな分かれ目となる。》

《アラン・ケルヴェルンから教わったことは数多いが、そのなかで最も大きいものは、詩歌の翻訳の究極は感動を移すという彼の翻訳方針である。いわれてみれば当たり前のことである。そのためには、時としてわかりやすさを犠牲にしてででも、散文調を脱することが必要となる。》

《したがって、俳句は伝統的に三行(短律の場合は二行)で訳すわけだが、意味的にそれぞれの行をつなげずに、いわば定型俳句を作る際の絶対禁止事項の一つである三段切れを、むしろ望むところとして訳してゆくことになる。そうしてこそ俳句の即物性、コラージュ的な方法が伝わることになる。》

以下、具体例を挙げての説明がつづくが、ここでは代表句である「咳をしても一人」のさわりだけ引用しておく。英語訳を二種類紹介して、そして仏訳。


I cough,
But I'm alone  R.H.ブライス


I cough and am still alone  佐藤紘彰


Je tousse
Mais je suis seul  見目+ケルヴェルン初訳


Bien que toussant
Toujours tout seul  ケルヴェルン訳


Même si je tousse
Je suis seul      見目+ケルヴェルン決定訳


《放哉としてはおそらく無意識だったに違いないが、この一句では「咳」「一人」という主要な語以上に助詞の「も」、わずか一字のひらがなに作者の全存在がかかっていることを、仏訳経験で痛感させられたのだった。》

日本語には主語がないという主張に一理ある気がしてくる句だが、そういう意味で、あえて主語(ここでは「Je 私」)を省いたケルヴェルン訳がいいような気がする。この場合「も」は「Bien que(〜にせよ)」と「Toujours(つねに)」に託されているわけで、原文からすればくどいような気もする。例えば、Bien que を取ってしまう、というわけにもいかないのだろうか・・・

tousse 咳をする
Mais tout seul も、一人

しかしどんなに苦心惨憺しても、もしこれらの仏訳から放哉を知らない人間が和訳したときには、まず100パーセント「咳をしても一人」と訳すのは無理だろう。作者の意を汲み取った説明として訳するにせよ、あるいは、放哉の句をもとにしたフランス語の短詩を創作するにせよ、いずれも、一長一短である。だから面白いとも言えるのだが。

以前ランボーの和訳を較べたように、日本語で読むフランス詩は、結局のところ、日本の詩なのである。フランス語になった尾崎放哉もしかり、Hosai Ozaki になってしまう。当たり前ながら、それしかないし、それでいいのだろう。

酔っ払った船
 

by sumus2013 | 2019-11-06 20:14 | 古書日録 | Comments(0)
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