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炒めたベーコンのある柔らかい自画像『Salvador Dali rétrospective 1920-1980』(Centre Georges Pompidou, 1979)より「炒めたベーコンのある柔らかい自画像 Soft self-portrait with fried bacon」(1941)。[後註:読者の方より「柔らかい自画像、炒めたベーコン添え」というメニュー用語に引っ掛けた題のではないかとのご指摘あり、なるほどなあと思う次第です] 「美は制度である」とはどういうことか? 自分でも、適当に発言していたので少し真面目に考えてみた。いろいろ考えたが、小生の言いたいことは単純で、絶対的な美の規範はないということである。灰とダイヤモンドどちらが美しいか。あらゆるものは美しい、そしてあらゆるものは美しくない。制度とは人間社会のなかで作り出される仮の秩序であろう。ボノボなら違った判断があろうし、もし昆虫にそんな美の制度があるとしたら、それは人間の想像もつかないほど高度で精緻な存在かもしれないと思ったりする。昆虫のあの美しさがそれを裏付けるかのようだ(!?) 美という漢字は『説文』によれば「羊」と「大」の組み合わせである(ただし白川静は異論を唱えている、羊の全体であると)。大きい羊は《美と善と同意なり》。この判断からして明らかに遊牧民的な制度に基づいたものであろう。羊のいないところではそもそもこの発想は成り立たない。「うつくし」は元来が、親の子に対する、また年長者の年少者に対する愛情表現(いつくしむ)と同じ源だとも言うが、大陸的な発想とは真逆である。なにもなにもちひさきものはみなうつくし。 また思うに、美はおふくろの味である。『美味しんぼ』のなかに鮎対決というのがあった(アニメで見たのですが)。父と子、どちらの料理した鮎がうまいか。結局、父が勝利したのだったと思うが、その勝因は審判になった人物の故郷、四万十川の鮎を使ったことだった。人間は社会的な動物である。あらゆる判断基準が社会のなかで形成されていくのはごく当たり前のことである。美とはどういうものであるか、ということも社会によって決定されていく。 もっと言えば、その判断はDNAによってあらかじめ決定されている、とも考えられないことはない。それなら、すくなくともDNAを共通するグループ内においては美の秩序はある程度ひとつの基準に従っていると考えてもいいかもしれない。ボノボくらいになると、ほとんど人間と同じDNAを持っているはずだから、おそらく人間とそう違った基準で動いているわけではないだろう。 ただ、ボノボが人間になった(かどうかは分からないけれど、もしそうならどうしてボノボはボノボのままなのだろう? ボノボでいたかっただけなのか)のは明らかに(と小生は思う)ボノボ的な秩序から逸脱したからではないか。 ここで、ダリの絵に戻るのだが、昭和十六年に日本人が(いやアメリカ人でも誰でもいい)この絵をいきなり見たとしたら、いったいどう判断しただろうか。この奇妙な面の皮を前にして、そもそも美とか美でないとか、そういう判断までたどり着いただろうか、それが大いに疑問になってくる。もちろん今現在でもそういう疑念は消えないわけである。たとえば以前紹介したスペインの画家ベラスケスの自画像と較べてみよう。 自画像 ベラスケス http://sumus.exblog.jp/13420632/ おそらく十七世紀にあっては、この自画像でさえかなりの革新性を持っていたのではないかと疑われる。もしベラスケスが近代人に近い眼を持っているとすれば、ダリはまるで昆虫的な視覚を獲得したのではないかとも言えるほどその飛躍は大きいと思えるのである。 人間の面白さは(素晴らしさでは決してない)、この逸脱していく精神を保っていることではないだろうか。立派な舗装道路が一本まっすぐ通っている荒野があるとしよう。舗装道路から外れて荒地を走る者が必ずいる。少数だが。するとそこに道ができる。道ができれば人が通る。人が通れば車も通る。車が多くなれば道路ができる…行く先はまったく違った場所である。これが制度というものではないだろうか。
by sumus_co
| 2013-09-17 21:41
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