びわこのなまず先生のmixi日記にこんなことが書かれていた。
《S洞の棚に津田青楓の『漱石と十弟子』。昭和二十四年の出版で、紙質が悪く、背も痛んでいるが、献辞入り。謹呈河野奥様と読めるが、河野奥という名前だろうか。それとも河野氏の夫人に宛てたものだろうか。河野さんの奥さんを「河野奥様」というのも変だが、奥という名前も珍しい。》
これを読んでいたのでたまたま小生の絵葉書ファイルから出てきた上の一枚が目にとまった。昭和十六年三月二十四日の消印。宛名は「吉田御奥様」と読める。洋品店のダイレクトメール。
《此の度モミヂヤ洋装店の経営一切を兪福林に任せ、銀座『オリエンタル洋装店』を開店いたしました》
昭和十六年では「モミヂヤ」を「オリエンタル」にしても問題なかったらしい。
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三月七日に大阪大学総合学術博物館で行なわれた「近世風俗文化学の形成―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺―」公開研究会・講演会。肥田皓三先生が講演をされたが、その内容のコピーを頂戴した。忍頂寺家は兵庫県津名郡志筑(淡路島・しづき)で代々組頭庄屋を務める大庄屋。家業は酒造業。忍頂寺務は清元など江戸小唄の研究家として知られその収集資料は「忍頂寺・小野文庫」として大阪大学附属図書館に保管されている。
肥田先生は中学生のころから父上が購読していた『上方』を読んでおられ、南木芳太郎に質問の手紙を出したりしたそうだが、最近翻刻された南木日記の昭和十八年のところに肥田先生の名前が出ているそうだ。南木日記に名前の見える人物でご存命は肥田先生お一人だとか。
その『上方』百五十一冊の索引を御自分で作られた。
《ここで忍頂寺さんの名前に初めて出会うたんです。忍頂寺氏の名前を初めて認識するわけです。忍頂寺さんの書いておられる内容の専門的なことは何もわからないけれど、珍しい本、珍しい資料を紹介して、それを非常にわかりやすい言葉で書いてある。この珍しい資料の紹介、珍しい本の紹介ということが本当に好きで、早くから森銑三さんの書きはるものが本当に好きでした。森さんのお書きになるものはとにかく珍しい本から、珍しい資料を取出してきてわかりやすく教えてくださる。それが大好きでしたから、忍頂寺さんのやり方がそれと同じ》
そうして『書物展望』や『書物往来』(改題『東京新誌』)、『陳書』などに発表されている忍頂寺の文章を蒐集するようになった。その手書きリストが二番目の写真。世の中にはこういう方がたくさんおいでになる。むろん好きでやってらっしゃるのであろうが、やはり脱帽である。