なんて言ったらいいんだろミーティング 第3部 レポート | STAND UP STUDENTS | Powered by 東京新聞

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あたりまえの自由さ、権利。流れてきた情報に頼るのではなくて、自分たちの目で耳で、手で、足で、感動をつかんでいく。

東京新聞『STAND UP STUDENTS』は、これからの社会を生きる若者たちに寄り添い、明日へと立ち向かっていくためのウェブマガジンです。等身大の学生たちのリアルな声や、第一線で活躍する先輩たちの声を集めることで、少しでも、誰かの明日の、生きる知恵やヒントになりたい。

時代を見つめ、絶えずファクトチェックを続けてきた『新聞』というメディアだからこそ伝えられる、『いま』が、ここに集まります。

なんて言ったらいいんだろミーティング

第3部 レポート 公開日:2023年6月30日

2021年12月に実施し反響を呼んだ STAND UP STUDENTS 主催の「なんて言ったらいいんだろミーティング」。日々の暮らしの中で感じる小さな悩みや、社会問題や環境問題など、思っていてもなかなか口に出せない社会のことや、そして言葉にできないもやもやを持ち寄って、焚き火のように囲み、話し合うためのイベントです。

約2年ぶりとなる今回のミーティングも、たくさんの応募の中から、5人の個性豊かな学生が参加してくれました。ファシリテーションは前回と同じく熊井晃史さん。舞台は、熊井さんの拠点の1つでもある東京・武蔵小金井のギャラリー「とをが」です。木のぬくもりを感じる空間で、リラックスした空気の中、少しずつ対話がはじまっていきます。

なんて言ったらいいんだろ
ミーティングのコンセプト

「なんて言ったらいいんだろ」という思いは、実は自分の心の内と向き合いながら、他者との会話をどうやって豊かなものにできるだろうかという誠実さ。STAND UP STUDENTS では、そんな「言葉になって生まれる前の思い」に未来や可能性を感じています。だからこのミーティングでは、なめらかに淀みなくしゃべれたり、共感を得やすい言葉を選ぶ必要はありません。

焚き火に薪をくべるように、社会のこと、自分のことをゆっくり話せたらと考えています。

写真:東海林広太

寄合商店にある
ギャラリー「とをが」


武蔵小金井にある「丸田ストアー」は、昭和の暮らしのなかでは良く見られた「寄合商店」。寄合商店とは、1つの建物に様々な業種のお店が集まる、古き良き”小さな商店街”。八百屋、珈琲屋、花屋、お菓子屋などが入るそんな丸田ストアーの2階に、ギャラリー「とをが」があります。DIYで作られた空間は、子どもたちがワークショップをしたり、地域のひとたちが集まったりするためのオープンな場所。窓の外から聞こえる子どもたちの楽しそうな声、犬の鳴き声。この空間にいると、丸田ストアー全体が生き物のように呼吸をしているように感じます。

春の気配が漂う2023年3月30日。みんなで床に座り、パチパチと音をたてる火鉢を囲めば、座談会はスタートです。

わかってほしい、と
簡単にわかられても困る
の往復で

熊井晃史さん(以下熊井):今日は、駅から遠いところに足を運んでくれてありがとうございます。早速進めていければと思うんですが、まず最初に「なんて言ったらいいんだろミーティング」のネーミングの由来についてお話をしたいと思います。前回のレポートをご覧いただいている方はなんとなく頭に浮かぶかもしれませんが、せっかくなので、今日は別の言い方で少しご説明したいと思います。それは、「なんて言ったらいいだろう」という一息つくような戸惑いのような感覚は、「わかってほしいんだけど、そう簡単にわかられても困る」というものと近しいところにあるのでは?というものです。そして、その戸惑いのようなものに、僕はとても大切なものを感じていますし、大切にしたいとも考えています。つまり、「わかる」ということも「わからない」ということも同時に大切にしたいので、スパッと明晰に端的に話さないといけないわけではないので、話が逸れるのも、長くなるのも、途中で何を言っているのか分からなくなってもオッケーなので、みんなでお話をしていけたらと思います。イメージとしては、焚き火に火をみんなでくべていく感じなので、今日は火鉢も用意してみました(笑)。




熊井:今、話を聞きながらスゴいうなずいてくださっていますね。なにか思うところがありましたか?
 
藤本芽生さん(以下藤本):大学で、みんなで輪になって1つの問いに対して意見し合う「哲学対話」というのをやっていて、話していると「それめっちゃわかる」とか「私も思っていた」とか言われて共感されることが多いんですが、私にとっては物心ついた頃からずっと考えていたことだったりするから、そんなすぐにわかるかな⋯というか「そんなに簡単にわかるわけない」って思う気持ち、すごくわかります。だから今日も話すにあたって、楽しみにしていたし、簡単にわかられて傷つくのも怖いなという思いもあります。
 
熊井:まさにそうですよね。分かり合えることの喜びもあるけど、一方で、安易に共感されることへの違和感もあるということですよね。
 
藤本:そうなんです。もちろん同じ気持ちっていうのはあると思うんですが、完全にわかるっていうことはないと思うんですよ。ぴったり一緒に重なるわけがないのに、同じ意見とされて話が終わっちゃう。そこで言葉を尽くして話したらきっともっとわかり合えたり、意見が違う部分があるかもしれないのに、簡単に「わかる」で片付けられてしまうと「もやっ」としてしまいますし、話を取られたような感覚にもなります。かといって、「でもそれってさ!」って切り返されると最後まで聞いてほしいのに!と思うこともあります。
 
熊井:何かを話し合うことの難しさを感じながらも、哲学対話に参加したり、今日のミーティングに参加したというのは、そこに何かあるのではないかという良い予感があるということですか?

藤本:そうですね。もともと一人でいろいろ考えるのが好きで、でも一人で考えているだけだと手札が自分しかないというか⋯。なので、ここで話すことで誰かの視点とか意見とかを得られると思って参加しました。




熊井:ありがとうございます。ひとと話し合うことへの難しさを感じている方はいますか?

髙橋彩希さん(以下髙橋):立場の違いとか言い方の問題だったりもしますが、「いや、違う」と言われるのは怖いですね。あと、私の場合「何かやりたい」ってことがあった時に「それは無理だよ」「できない」と言われてしまうのが傷つきます。それに、藤本さんの「話を取られる」っていう感覚に「わかる⋯」というか重なる部分があるなって感じました。



熊井:今日は「わかる」という言葉を使ってはいけない会じゃないですからね(笑)。しっかり聞いてなさそうなのに「わかるわかるわかる」って機械的な相槌感覚で言われてしまうと、まさに機械と話をしているような気になりますよね。その機微を感じちゃうんだから、ひとってというか、会話ってなんか不思議というかスゴいですよね。ちなみに、藤本さんはそういうつらさを感じたときに、自分の気持ちをケアしたりしていますか?

藤本:その日の対話と自分の思いを書き出して、「事実」として相手が何を言いたかったのかを辿って考えるようにしています。言い方が嫌だっただけで、内容は受け止められるなとか。自分はなぜ傷ついたのかを整理して信頼できる友人とかに話すということをしています。

熊井:ああ、なるほど。その場の心の動きで反応するのもありつつ、ちょっと間を置くんですね。そして、冷静に「言い方」だけじゃなく、その奥にある「意味」を見ようとする。傷口って自分で見るのって怖いと思うんですがスゴいですね。奥山さんはどうですか?ここまでの話を聞きつつ感じたことも含めて、どのような思いでこの会に参加されましたか?

奥山千笑さん(以下奥山):私はこの春から3年生なんですけど、ずっと今日まで何も考えずにプラプラしながら大学生になってしまったなっていう思いがあって⋯あまりみなさんみたいに真面目に考えられていないかもしれません⋯。友達は留学したり、やりたいことのためにバイトをすごく頑張ったりしていて⋯、でも私はずっと大きな志もなく、やりたいこともないままもやもやしていて⋯でもたまに誰かに何か自分の考えていることをふわっと伝えると「意識が高い」と言われて⋯ちょっとムカッとしたり。そんな私だから、そのもやもやを言える相手が家族くらいしかいなくて、それで今回参加してみようかなと。




熊井:ちなみにぼくは今、教育関係の仕事をしてるんですが、奥山さんと同じ大学生の頃は「教育」に全く関心がなかったです。たまたま教育系の NPO の立ち上げ初期に誘われて、たまたま誰もいなかったという理由でワークショップの先生をやることになって、「はーい!熊せんせいでーす!」ってやってたんですよね(笑)。ヒゲもじゃもじゃで、ピアスもしつつ。前の晩は教育番組で体操のお兄さんの映像を見て緊張していましたよ。こんな爽やかに子どもたちの前に立てるのだろうか…と。今、取材をされたりすると自分の仕事についてペラペラ喋っていることもありますが、実際に生きてきた感覚では紆余曲折で、たまたまの連続なんですよね。とはいえ、それを自分なりの必然性のあるものや意味を感じられるものにするために頑張りはするんですが…。僕も、大学時代に周りが大きな会社とかに決まっていくのを焦る気持ちで見てました。なんかそういうリアリティを学生のみなさんに伝えたい気持ちはあります。というのも、メディアに出ている仕事をしている大人のストーリーってなんか綺麗すぎるような気もしますから。


「もやもや」の正体は
誠実さなのかもしれない

熊井:「意識が高い」という言葉がネガティブな響きをもっていることや、もやもやを話し合える相手がいないというのは、STAND UP STUDENTS でもよく聞きますし、僕自身気になっているところです。みなさんはどうですか?

髙橋:私も相談相手がいなかったんですが、ある時から、自分がもやもやしていることを話せば、相手も話してくれるってことに気づいて、それから少しずつ私から話すようになって、話を聞いてくれるというひとができたかもしれません。

熊井:ちなみに髙橋さんはこのミーティングに参加したきっかけは?

髙橋:私は大学で教育について学んでいるんですが、もともと教員志望ではないということもあるんですが、いわゆる学力主義があまり好きじゃなくて、遊びから生まれる学びの可能性もあるんじゃないかって研究していたら、先輩から「とをが」の存在を教えてもらって前から知ってたんですよね。ずっと来たいと思っていたのと今回の企画のタイミングが重なって参加を決めました。

熊井:ありがとうございます。そのようなお考えをお持ちのなかで、卒業後の働き方は悩みますよね。教育関係の仕事に?

髙橋:いや、まわりが就活とか教員採用の準備をしている中で、私は何をやっていいのかわからなくなってしまって。やりたいことがないというよりはやりたいことがありすぎてどうしようっていう⋯。何者かにはなりたいんだけれど1つに絞りたくないし、型にはハマりたくないし、無理だと言われたりするし。でもちょうど昨日会った友達も就職先が決まって「早く決めないとヤバいよ」と言われたばかりで⋯。いろいろなことをやって興味を広げてきて、まわりからは「意識が高い」と言われたりしたこともあったんだけれど、社会人という軸になると、私がやってきたってことって役に立つの? 学生だからやれてたことじゃないの?って思ったり⋯。卒業したらすぐに社会に出なければいけないっていうのもまだ納得できてなくて⋯せめて納得したい。レールには乗りたくないけれど波にさからう勇気はないという感じで、就職先が決まるか不安で絶賛もやもやしてます(笑)。

石井亮さん(以下石井):ぼくは就職先が決まってこの4月から社会人として働くんですが、それでも不安は残っています。自分の努力が会社の社会的な評価につながっていくと思うと仕事はがんばろうと思いますし、日本という社会ですぐに解雇されるっていうことはないのはわかっていても、資格を持っているわけではないし、何かがきっかけで嫌われて切られたところで他に頼るところがないんですよね⋯。そのあとのことをまだ考えられないというのが本音ですが、不安はありますよね⋯。




熊井:どうやってこの社会で生きていくか。不安はやっぱり尽きなかったりしますよね。伊藤さんは、何か不安に感じていることはありますか?

伊藤蛍さん(以下伊藤): めちゃくちゃあります。私も感じていることではあるのですが、日本はマイノリティな立場で社会的に「生きづらさ」を抱えている人たちがたくさんいると思っていて。マイノリティのひとたちでももっと生きやすい社会を作るために、たくさんのことを学んで、ゆくゆくはメディアで発信をする側にまわりたいです。例えば性的マイノリティの問題ならトイレをどう分けるべきなのかとか。社会問題について発信しているウェブメディアをたくさんフォローしているんですが、東京新聞というメディアが STAND UP STUDENTS や、今日のミーティングを主催しているというのも今回参加した理由です。




熊井:こういう集まりを東京新聞っていうメディアがやっているってなんかいいですよね。ご参加ありがとうございます。「わかってほしいんだけど、そう簡単にわかられても困る」といった困惑って、きっと誰かの声を他の誰かが代弁するということの難しさにつながってくると思うんですよね。自分の声を不用意に奪わないでほしいという感じで。だから、それぞれの個々人が声を上げやすい世の中になったらなって思うんですが、とはいえ、どうしてもそれが難しかったり、声が届かなかったりすることもある。だから、やっぱりメディアって必要だし重要な役割があるなあと日々考えています。今日も、じっくりゆっくりお話できたらうれしいです。

個人のために社会があるのか
社会のために個人があるのか

熊井:今年で卒業の石井さんはどうですか?この会にどんな期待がありましたか?

石井:ぼくは「あなた何者なの?」「何が好きなの?」って聞かれるのがすごく苦手で⋯、マイペースなだけなのかもしれないんですけど、自分はこういう人間ですとか、何が好きですと語れることがなくて⋯。だから個性的なひとたちが集まる場には少し抵抗があったんですが、大学に6年いて、時間はたくさんあったんですよね。でも楽器をやるわけでもなく、「自分」っていうのを作ってこなかった。でもどこかで「それでも別にいいんじゃない?」と思う気持ちもあって⋯それを肯定されたいというか。自分の好きなドラマのセリフで、「赤ちゃんはそこにいるだけを望まれて生まれてくるのに、それがいつからか成績の良さを求められるようになってしまう」というような言葉があって、それが学生時代に大きく響いていて。だからと言って自分みたいな色のない人間ばかりだと社会はまわらないというのはわかっていて、でも大人にも、存在意義というか⋯うーん⋯個性がなくてもただいることが許される空間があっても良いのではないかな⋯とか、そんな風に思うようになりました。なので、今回はこの空間でいろいろなひとの意見を聞くことが今の自分にプラスになるんじゃないかと思って参加しました。




熊井:社会に存在するということに、資格のようなものが必要なのか?どのような存在であれ、そのままに社会にいて良いのでは?ということですよね。

奥山:私は田舎だけれど実家が好きで、家族と一緒にいる時間がすごく好きで、誰にもわからないかもしれないけれど私にとっては必要なところで、いるだけでいいと言われている気がする場所で。だから私も奇跡的に家族を持てたら、そういう家にしたいなと思うし、教室で光がきれいな時間に友達と話している時間だけでも幸せと思えるし⋯だから就活とか、もっといい仕事をして稼いでとか、あまり焦らせないでほしいなと思います。




髙橋:そもそもなんで自分が存在する価値とかを他人の評価軸に乗せないといけないんだろうと感じる場面が多いです。数値化して相対化させる社会もどうなんだろうなって思うし、石井さんがさっき「自分には色がない」って言ってたけれど、それは今の社会の誰かの評価軸なだけで、絶対に自分の中に色はあると思うし。誰かの基準で自分に価値がないって思っちゃうのってもったいないと思うんですよね。それってでも個人の問題じゃなくて社会の問題な気がして⋯大きな話になっちゃうかもしれないんですけど、社会を変えるにはどうしたらいいんだろうって。そう考えるようになったのはテストの順位とか、運動の能力とか、「平均」を求められる社会の形があるからかなと。だから一人ひとりの個性に光が当たらなくなってしまってるなとずっと感じています。

伊藤:痛いくらいわかります。自分も「普通」という感覚が苦手です⋯。学校とかそういう社会の中だとマイノリティだし足かせになってしまってるんではないかって思うことも多くて、でもそれは私たち個人の問題というより、きっと社会の構造の問題だとも感じていて…。日本の教育って勉強も運動も「できるひと」に光があたっていて、ついていけないひとは「劣等」って言われてしまう社会なんだなって。なんか、でも日本の今の教育で一人ひとりの個性を生かすとなるといろんな変革をしないといけないし変革の箇所多すぎる気がします。運動会は運動できるひとが一番なんだけど、できないひとがつらくなる。じゃあ「運動会をなくせば?」と議論すると、運動が得意なひとたちから反対の意見がきっと飛んでくる。すごく難しい社会なんだなって。




石井:屁理屈かもしれないんですけど、「個性的」っていう言葉をよく使うじゃないですか。でも生まれ持ってみんなが個性を持っていると仮定すれば、意味がわからない言葉ですよね。人間に対して「あなた人間的だよね」っていってるような矛盾を感じています。

一同:ああ~、確かに⋯。

伊藤:小中高で個性をなくすような教育をしているのに、大学に入って就活した途端に「あなたの個性は」と聞かれるんですよね。

一同:わかる〜!

奥山:それってまさに「ガクチカ」の悩みですね。よし、就活をしようと思った時に、急に「あなたが力を入れていることはなんですか?」と言われても困るというか⋯ガクチカを書くために⋯。

熊井:ん?「ガクチカ」?

奥山:「学生の時に力を入れたこと」です(笑)。学生時代からやりたいと思い続けてきたことが積み重なって「ガクチカ」だったはずなのに、ガクチカを書くために何かをはじめたり、それが活動の動機になることはいいと思うんですが、結局、ガクチカを求めすぎると成果主義になってしまうという違和感があります。

髙橋:大学のレポートでも時々、自分の意見を書くのも大事だけれど、いい評価をもらうためにも、教授が何を求めているか、意図を汲み取って書くことも大事だよって言われた時があって、違和感を覚えました。

伊藤:え!そんなことがあるんですか!びっくりしました!

髙橋:社会に出るためには重要だって言われて。これが大人になるってことなのか⋯と。

熊井:答えを、自分が持っているのか。先生や評価者が持っているのか。前者の場合は、自分自身を見つめていくようになるし、後者の場合は、他の誰かが持っている答えを探ったり当てにいったりするようになりますよね。

藤本:今の社会が嫌だなとか、教育が嫌だなって思う意見はあるけれど、ひとりじゃなくて、みんなで生きていかないといけない社会では、社会に合わせるのは「当たり前」と思われてしまう難しさがあるなって私は思っていて。なんて言うか⋯うーん、言い方が難しいんですけど、社会に合わせるのは当たり前と思っている観点のひとにとっては、その社会からはみ出る存在は、役に立たないとか困ったものになるんだろうなって。




熊井:そのあたりは、「個人のために社会があるのか、社会のために個人があるのか」という話になってくると思っています。聞き役の立場であまり時間をとり過ぎるのもアレですが…、僕自身にとって大切なトピックなので少しお話させてください。「社会のために個人がある」ということを極論化していくと、「全体主義」と呼ばれるような個人の自由や権利を認めないということになっていきます。そのような価値観が過去に悲惨な戦争を引き起こしてきたというところは、まさに勉強の大切さを感じないでもないです。一方で、「個人のために社会がある」としたときの社会というものは、大きなものがひとつだけドカンとあるというわけでもないと考えています。例えば、学校や会社や家庭や地域や友人関係や趣味の関係など、多様な社会、言い換えるとひとの関係の束のようなものがたくさんあるんだと思います。というか、たくさんあるべきだと思うんですね。ある一つのところで、「役に立たない」とされていたものが、別の所でその意味や意義を見出されたりするなんてことは、多くあることだと思います。



伊藤:実は自分はこの社会には生きづらさを感じていて⋯。というのも99%がマジョリティで、1%が私だった場合、社会は1%の私を排除するのかなって⋯常に考えて不安になります。大学やさまざまなコミュニティで「マイノリティ」について調べたり話したりしてみるとやっぱり社会の構造ってマジョリティ前提の社会の造りになっていて、それ以外のひとは排除されてきたというか、社会に入りづらいんですよね…。それが疑問というかすごく不満というか、そういうことを考える私が異質なだけかもしれないので分かってもらえるか心配なんですけど…。

熊井:言葉を挟んじゃうようですが、「異質なだけかも」とおっしゃいますが、仮にそうだとしても、そのようなマイノリティの立場であると感じる方が生きやすい社会を構想していこうよ、というところが大事だよねと思うんです。今日こうして自分のことを話すのって、勇気がいることでもありますよね。おそらく、伊藤さんが考えるマイノリティの問題に限らず社会の問題を解決していくためには、今日みたいに社会のなかでもっと会話を育んでいく必要があるんじゃないかなって感じています。

「メディア」との
向き合い方を考える

熊井:ちなみに伊藤さんは「メディア」に興味があるとのことですが、メディアの印象ってどんな感じですか?

伊藤:日本のテレビは社会問題を取り上げるにも、利権や広告の都合が関わっていそうなイメージがあって見ていないのですが、インターネットのメディアはそれぞれの立場で幅広く社会問題を取り上げている気がするので、関心がある時はネット番組も見るようにしています。当事者の意見が聞けたり、私が知りたかったけれど知らなかったことがわかるし、いつか自分も発信する側にまわりたいという意識で見るようにしています。ただ、同じニュースでも日本のメディアと海外のメディアで扱い方が違うのとかが嫌ですね⋯。




熊井:なにを面白いと感じるのか。美しいと感じるのか。その感性はどんどんアップデートされていっているように感じますし、ひとはそういう感性を更新することで、新しい社会をつくろうとしているとも思います。ちなみに、STAND UP STUDENTS でも、テレビはあまり見ないという声が多いのですが、みなさんはいわゆるマスメディアに対してどういう印象を持っていますか? 新聞も含めてですが。

藤本:私もテレビは見ないです。必要な情報って LINE ニュースとか SNS とか、生活しているだけで入ってくるなって思っているので、自分から見にいくことはないですね。ニュースを見ても感情移入してしまってつらくなってしまうので見ないようにしているかもしれないです。

奥山:私もテレビは見ないんですが、でも SNS やネットニュースは見てしまいますね。大学のレポートの役に立てる場合もあれば、自分が知らなかったことを知れたりしますし、知らないうちに誰かを傷つけていたとか、そういうことがないようにと思うと、もっと見て調べないとなと思ったりします。

髙橋:私は高校まで SNS はやっていなくて、実家にいる時はテレビとか新聞が好きで家族で見てたんですけど、大学で一人暮らしするようになって、 SNS をはじめるとすごい情報量で疲れてしまって、テレビはあるけど見なくなったし、メールですらつらくなっちゃって、そこからメディアとは距離を置くようになったんですが、メディアに触れないと自分が孤立化してしまうというか、自分の意見だけになってしまうから、信用できるものを選んで見るようになりましたね。これからの将来を考えないといけない時にいろんなひとの声とか誰かの批判に過剰につぶされてしまう自分がいたから、メディアとの向き合い方を考えるようになりました。決まった時間だけアプリを開くとか。そうしたら身の回りの見えてなかった景色が見えてきて⋯制限してよかったなって。だからと言ってみんなと連絡を取りたくないわけではなく、できれば会って話したいなって。

石井:ぼくはメディアは大事だとは思うんですがあまり見てなくて。でもドキュメンタリーが好きで時々テレビを見るんですが、情報収集というよりはメディアを通じて「ひと」を知れるというのがいいなと。生きづらさを抱えているひととか、自分と同じ気持ちを抱えているひととか、新聞のエッセイとかもそうですけど、いろいろな考えが知れると勇気づけられるなと。

熊井:なるほど。みなさんはSNS やメディアにどっぷりではないんですね。

石井:でもついつい見てしまうんですよね⋯。

奥山:Instagram とかはキラキラしているので見てしまうんですよね。そのおかげで今回のミーティングを知れたんですが。

熊井:と、まぁだいたいここで終わりの時間なんですが、みなさんいかがですか? 2、3時間ってあっという間ですよね。

一同:話し足りない!

熊井:そうですよね(笑)。でも、話し足りないくらいがちょうどいいとは思うんです。最後に僕からすこし質問をさせてください。今回「なんて言ったらいいんだろミーティング」に参加してみて、話してみて、みなさんの中で、今日自分の中に起こった変化や、話してよかったなと感じる何か少し兆しでもあれば教えてもらえますか?


わかりあえなくてもいい
ただただいるだけでいい

藤本:私は、超個人的な意見なんですけど。

熊井:超個人的でいいと思いますよ!

藤本:私は最初に言ったみたいに、心的な安全性を確保されたまま話すのって難しいなって思ってて、みなさんがどのくらい普段言えないことを抵抗なく話してくれたのかわからないけど、私はあまり発言していて怖くは感じなかったんですよね。言ったらダメかもしれないとか、反論されてしまうとか、聞いてもらえないって思わなかったんですよね。そういう場所があるっていうのが気づけてよかったなって思ったし、怖がらずに話せる自分がいるんだってわかって安心しました。私もいつかひとの役に立つことがしたいと思っているので、「いてもいいんだ」って思える場所を作りたいなって感じました。

奥山:自分だけじゃないんだと思えたのがよかったです。ここじゃなきゃ話せないひとたちと話せたのもよかったなと思います。

熊井:自分だけじゃないって思える機会って、とても貴重な気がしますね。ちなみに普段の生活のなかでそんな風に、あーよかったなぁとか、幸せだなぁって思うことってありますか?

奥山:すごくおいしいフランスパンを食べた時に幸せだなぁって思いますね(笑)

熊井:最高ですね。みなさんのそれぞれのそういうエピソード聞きたくなります。なんかそういうふうに思わず反応しちゃうことに、個性というか、可能性というか、ワクワクするようなものがあるように思います。

髙橋:私はもともと話すことが好きなんですけど、なんかこんなに、今日はじめて会って、自己紹介も特にしないでこんなに深い話ができて、少しの緊張感も持ちつつ手探りで、自分との共通項だったり、誰かの思いを知っていく感じがすごく好きでした。限られた時間だったけれど、このひとこういうことを考えてるんだというのを知れるのが楽しかったですね。生産性や利便性が求められるミーティングが多い中で、今日みたいに何にも縛られず素朴に話すってとても大事だなって思いました。前に「公共性ってなんだろう」って考えていた時期があって、公共の場になった瞬間に私的なことが話しづらくなってしまうっていうのがあって⋯、それはなんでだろうって疑問に思ってたんですけど、でも「公共」って誰かの私的なことの集まりが大きくなっていったものだから、あまり難しく考えずに、私的なことも含めて話し合うってやっぱり重要だなと思いました。100%わかり合えるわけではないけれど、わかり合おうとするのは大事だなって。

石井:生産性のある話ではないのかもしれないけれど、みんなが楽しかったとか、参加してよかったって言っているってことは、生産性のない話にもニーズがあるんだなって思いました。ぼくもぼくだけじゃないんだって思えたのがよかったです。それにこうやって、床にみんなで座って話すって心地いいなって。こういうミーティングってみんなからの「わかる」っていう共感を目的にしがちだし、確かに言われるとうれしいんですけど、「わかってもらわなくていい」というか、自分が言ったことが共感されなくても、みんなが一度聞いてくれて、自分なりの意見を出してくれる場所っていうのは、なかなかない気がするし、本当に話しやすかったです。

熊井:共感されることだけが前提やゴールとされている話し合いはちょっとつらいですよね。違いを楽しめちゃうくらいのスタンスも大事だと思います。

石井:ぼくは中学の頃からあまり学校では楽しめなかったタイプなんですけど、塾とか、そういう小さなコミュニティでは楽しめたんですよね。だから、大きな社会に向いていなくても、小さな社会でバランスが取れるなら別にいいっていう考えが僕の中にはあったんですよね。でも今日みんなの話を聞いていると、ひとによっていろいろな「社会の大きさ」がありそうだなって考えるようになりました。

伊藤:そうなんですよね。例えば性的マイノリティの当事者のひとたちの意見を聞いていると、当事者同士が安心できるセーフティプレイスだけを選んで生きていくのって不可能に近いと感じるんですね。結局、日本という社会で生きていく以上、差別的なひとたちや世代が違くて分かり合えないひとたちと関わらざるをえないというか。だから当事者同士のコミュニティで理解し合うことはあっても、そこで認められているからOKっていうのはあまり考えにくいかなって、私は思います。

藤本:私は例えば「社会がこうあってほしい」っていう議論をする時はいわゆる日本の社会のことを言っているけれど、認められたい、いてもいいよって思われたいのは、もっと小さな自分の手が届く範囲の社会な気がします。日本社会に認められなくても、まわりが認めてくれるなら生きていけるタイプかもしれないです。ただ、自分が所属しているコミュニティで私の全てを認めてほしいとは思っていなくて、少しずつ心が安まったり、安心できれば、それでいいのかなって思います。

伊藤:私は今までいろいろな場所で自分の意見を否定されることが多かったのですが、今日みたいに何を話しても誰も否定しないし否定されないっていう空間はまず素敵だなって思いました。今日みたいな時間が精神衛生上にもいいなって思いました。

熊井:英語の「ソサイエティ」って、現在は「社会」と訳されてますが、もともとは福沢諭吉が「人間交際(じんかんこうさい)」と訳していたんですね。「良い社会にしましょう」って言われるとなんか難しい気がするけれど「良い人間の交際をしましょう」と言われるとなんとなく腹落ちするものがあります。今日のような話し合いのように、みんなスゴい言葉を探りながら選びなら、そして他のひとの言葉に耳を傾けながらという時間は、言葉を大事にするということでもあるし、それはひとを大事にするということにもつながってくると思うんですね。なので、こういった会話がたくさん生まれる世の中になったらなと願っています。今日は、ありがとうございました。またどこかでお会いできるとうれしいです。

写真:東海林広太



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熊井晃史
AKIFUMI KUMAI
GAKU 事務局長。ギャラリー・とをが共同主宰。NPO法人東京学芸大こども未来研究所・教育支援フェロー。NPO法人CANVASプロデューサーと同時に、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科・研究員、青山学院大学社会情報学部ワークショップデザイナー育成プログラム・オンライン講座講師を兼務し、2017年に独立。以来、子ども・街・遊びなどをキーワードに、様々なプロジェクトの企画立案・運営を務める。

渋谷 PARCO・GAKU 
https://gaku.school

熊井晃史 ウェブサイト
https://hakusuisui.org/

ギャラリーとをが
https://towoga.org

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